理文先生のお城がっこう 歴史編 第33回 四国の城2(長宗我部氏と岡豊(おこう)城)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。33回目の今回は、戦国時代における四国南部の勢力争いに注目。四国のほぼ全土を支配した長宗我部氏の活躍と、長宗我部氏が拠点とした岡豊城の特徴を見ていきましょう。

土佐七雄(しちゆう)・七守護(しちしゅご)とは本山(もとやま)氏・安芸(あき)氏・大平(おおひら)氏・津野(つの)氏・吉良(きら)氏・香宗我部(こうそかべ)氏(山田(やまだ)氏のときもあり)・長宗我部(ちょうそかべ)氏のことです。別格として公家大名の一条氏がいました。この七雄の中での勢力を見ると、長宗我部氏が一番弱い立場でした。

長宗我部氏は元々、泰(はた)氏を名乗っており平安~鎌倉期に土佐に移り、長岡郡宗部郷(宗我部郷)に住み着き、宗我部(そかべ)氏を名乗ったとされています。しかし、近隣の香美郡宗我郷に同じ宗我部を名乗る一族がいたため、それぞれ郡の一文字をいれ長宗我部、香宗我部と名乗ったと言います。今回は、長宗我部氏を中心に四国南部の戦国時代の状況(じょうきょう)を見ていきたいと思います。

岡豊城
岡豊城「詰」に建てられた模擬(もぎ)天守から見た高知市方向。遠く土佐湾(わん)も望まれます

長宗我部氏の台頭

長宗我部元秀(もとひで)(元親の祖父)は、守護(しゅご)細川氏の権力や地位に守られながら自分勝手な行動をしたことにより周囲(しゅうい)の反感を買い、本山氏と周りの諸氏(しょし)に攻められ自刃(じじん)(自分自身を殺(ころ)すことです)したと、『土佐物語』(宝永(ほうえい)5年(1708)に完成した土佐国の戦国大名・長宗我部氏の興亡(こうぼう)を描いた軍記物で、作者は、土佐藩(はん)の馬廻(うままわ)り記録方の吉田孝世(よしだたかよ)です)は伝えます。この時、元秀の子・千雄丸(せんゆうまる)(国親(くにちか)。元親(もとちか)の父)は、家臣により一条氏の元へと逃(に)げ延(の)びました。やがてその助力と保護(ほご)により元の領地(りょうち)へと戻(もど)ることが出来たのです。

国親の嫡男(ちゃくなん)・元親は、天文8年(1539)岡豊城(高知県南国市)で誕生(たんじょう)。幼(おさな)い頃(ころ)は、女の子のようで「姫若子(ひめわこ)」と言われていました。永禄(えいろく)3年(1560)「戸ノ本(とのもと)の戦い」で初陣(ういじん)(初めて戦場に出ることです)、22歳でした。

本山氏の浦戸城(高知市)を攻めている最中に、父・国親が死去します。元親は、父が果たすことが出来なかった志(こころざし)を継(つ)ぎ、朝倉城(高知市)を落城させ、本山氏を本山城(高知県本山町)に後退(こうたい)させました。本山氏が引き払(はら)ったのを受け、弟・親貞(ちかさだ)に吉良氏の跡(あと)を継がせます。永禄7年には、本山城を攻め落とし、土佐中央部と東部を統一(とういつ)しました。元亀(げんき)2年(1571)には三男の親忠(ちかただ)に、津野氏を継がせます。その後、幡多郡(はたぐん)に進出し、弟の親貞を入れて支配(しはい)させるなど、土佐国内を片っ端(かたっぱし)から攻め取り、天正3年(1575)遂(つい)に、土佐一国の統一を成し遂(と)げたのです。

土佐統一をすると同時に、阿波(あわ)に侵攻(しんこう)し、海部(かいふ)、那賀(なか)の2郡を奪(うば)います。同6年に白地(はくち)に城を築(きず)き、拠点(きょてん)とすると西部から阿波攻めを開始、東部からは弟の香宗我部親泰(ちかやす)が攻め入りました。同7年、富岡城(徳島県阿南市)主の新開道善(しんがいどうぜん)が降伏(こうふく)し、阿波の東南部を配下に治めたのです。 同6年、讃岐(さぬき)に攻め込(こ)むと同時に、阿波攻めも本格化します。二男・親和(ちかかず)を西讃岐、雨霧(あまぎり)(香川県善通寺市)主の香川信景(かがわのぶかげ)の娘と結婚(けっこん)させて身内となり、九十九山(つくもやま)(香川県善通寺市)、仁尾(にお)(香川県三豊市)を落城させ、西讃岐を支配下に治めました。さらに中讃岐から東讃岐へと攻め入ります。

こうして、阿波・讃岐のほとんどを支配下に置いた元親でしたが、織田信長の援助(えんじょ)を受けた十河存保(そごうまさやす)は、元親に抵抗(ていこう)を続けます。本能寺(ほんのうじ)の変により信長が死亡(しぼう)すると、その機会を逃(のが)さず十河存保を破(やぶ)り、遂に阿波・讃岐を平定しました。天正10年のことです。信長の命を受けた羽柴秀吉が中国地方に攻め寄(よ)せることを受け、天正5年、毛利氏がその対処(たいしょ)に動き出すことになります。毛利氏が四国への兵を割(さ)けないと判断すると、元親は南伊予(いよ)へ攻め寄せることになります。

土佐大名勢力図
戦国時代の土佐国の有力大名とその居城

長宗我部氏の居城・岡豊城

岡豊城は、香長(かちょう)平野に点在(てんざい)する標高97mのなだらかな起伏(きふく)の小山の岡豊山に築かれました。岡豊山は、東から南斜面(しゃめん)が急傾斜(けいしゃ)、北側はややゆるい斜面で、西側は小さな起伏の丘(おか)が続きます。南側の山の麓(ふもと)を国分川(こくぶがわ)が流れ、西から南にかけて水はけの悪いじめじめした土地が広がる自然の要害の地でした。北は、低い尾根筋(おねすじ)が四国山地へと続いていたようですが、近代の開発によりはっきりしません。

昭和60年(1985)から平成2年(1990)にかけて、高知県立歴史民俗資料館(れきしみんぞくしりょうかん)の建設(けんせつ)に伴(ともな)う周辺環境(かんきょう)整備(せいび)の一環(いっかん)として発掘(はっくつ)調査(ちょうさ)が実施(じっし)されました。調査は、史跡(しせき)部分の詰(つめ)、二ノ段(だん)、三ノ段、四ノ段で行われ、多くの遺構(いこう)と遺物(いぶつ)が確認(かくにん)されると同時に、城が15世紀後半から天正16年(1588)頃(ころ)まで存続(そんぞく)したと判明(はんめい)しました。遺構は、整備(せいび)され公開されています。

岡豊城縄張図
赤色立体図を利用した岡豊城縄張図(南国市教育委員会提供)

岡豊山山頂部に位置する曲輪(くるわ)が「詰」で、一辺40m程(ほど)の三角形をした形の曲輪で、礎石建物(そせきたてもの)跡などが確認されました。礎石建物は、曲輪の西南部に位置し、5×4間(10.4×7.2m)と1間四方(1.4×2.0m)の2棟(むね)が確認されました。大きな建物の南側には強固な外壁(がいへき)を支えたと考えられる石敷(いしじき)遺構(石を敷きならべた跡です)が確認されているため、天守の前身となるような重層(じゅうそう)建物(二階建て以上の高い建物です)が推定(すいてい)されています。

岡豊城
「詰」に建てられた模擬天守は、2019年3月まで期間限定で設置されました

詰の東側に一段低く附属(ふぞく)するように設(もう)けられた曲輪が「詰下段(つめしたのだん)」で、堀切(ほりきり)に面して造(つく)られた土塁(どるい)や建物跡などから、二ノ段から詰への出入口を守るための曲輪と推定されます。検出(けんしゅつ)された礎石建物は、2×5間(5.8×9.2m)と大型で、東側の土塁と西側の詰斜面に接(せっ)し、曲輪全体を占(し)める程です。東側の土塁は、幅約2.5m、高さ1m以上と推定され、基部には土留(どど)めのための2~3段の石積が残っていました。

岡豊城
「詰下段」の礎石建物跡、2×5間の規模を持つ大型建物になります。

幅は約3~4m・深さ約2mの堀切で詰と隔てられた曲輪が「二ノ段」(長さ約45m、最大幅約20m)です。発掘調査により、南側に幅約3m・高さ約1mの土塁が確認されましたが、建物は確認されていません。堀切内で井戸が確認されています。

詰の南から西にかけて位置するのが「三ノ段」です。曲輪西部の西半分で、南北9間(16.8m)で、中央部で建物を南北に分離(ぶんり)する間仕切(まじきり)(建物の内部を仕切ることです)が置かれ、北側東西が4間(8.7m)、南側が3間(6.2m)の詰と接する大型の礎石建物が検出されています。中央部に詰へと続く通路になる両側が石積みの階段状の遺構が確認されました。礎石建物は、この通路の北側に位置しています。

岡豊城、礎石建物跡
詰の南から西にかけて位置する「三ノ段」で検出された礎石建物跡です。石積と合わせて保存整備されています。南北9間で、北側東西が4間、南側が3間です

三ノ段の西側を囲(かこ)むように造られた曲輪が「四ノ段」です。中央部の虎口(こぐち)により二分されています。北側は方形をした約12×15m、南側は約32×16mの規模になります。北側からは、土塁、礎石建物跡1棟などが確認されましたが、南側では建物跡などは見つかっていません。

「伝厩(うまや)跡曲輪」と呼ばれる長さ約30m、幅17mで、周囲を急斜面に囲まれているのが、詰の西南方向にある出丸(でまる)です。北西に2条の堀切、南斜面には竪(たてぼり)群を設け、本城を守っていました。

現在の岡豊城跡は、石垣、曲輪、土塁、空堀(からぼり)、井戸などが残っており、国の史跡(しせき)として整備されています。また、かつて曲輪があった場所には県立歴史民俗資料館が建てられており、長宗我部氏関連の資料が展示されています。

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※曲輪(くるわ)
城の中で、機能(きのう)や役割(やくわり)に応じて区画された場所のことです。曲輪と呼(よ)ぶのは、おもに中世段階の城で、近世城郭(じょうかく)では「郭(くるわ)」や「丸」が使用されます。

※礎石建物(そせきたてもの)
建造の柱を支(ささ)える土台(基礎)として、石を用いた建物のことです。柱が直接地面と接していると湿気(しっけ)や食害などで腐食(ふしょく)や老朽化(ろうきゅうか)が早く進むため、それを防(ふせ)ぐために石の上に柱を置きました。初めは寺院建築(けんちく)に用いられ、城に利用されるようになったのは戦国時代の後期になってからのことです。

重層建物(じゅうそうたてもの)
一階建ての建物ではなく、二階建て以上になる建物を言います。階数が解(わか)らない二階建て以上の総称(そうしょう)で、階数がはっきりしている場合は、二階建て、三階建ての建物と書き表します。

※堀切(ほりきり)
山城で尾根筋や小高い丘が続いている場合、それを遮(さえぎ)って止めるために設けられた空堀のことです。等高線に直角になるように掘られました。山城の場合、曲輪同士(どうし)の区切りや、城の境(さかい)をはっきりさせるために掘られることが多く見られます。

※土塁(どるい)
土を盛(も)って造った土手のことで、土居(どい)とも言います。多くは、堀を掘った残土を盛って造られました。

※出丸(でまる)
城の中心的な曲輪から離れて造られた曲輪のことです。敵方の最前線で攻撃(こうげき)をしたり防いだりする役目がありました。出郭(でくるわ)とも言います。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
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公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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