理文先生のお城がっこう 城歩き編 第23回 松本平の石垣の城を訪ねてみよう

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。23回目は前回までに続いて、安土城より前に造られた古い石垣がテーマ。国宝松本城などで知られる松本市域の山城の中から、今も良好に残っていて観察しやすい石垣に注目しましょう。



■理文先生のお城がっこう
前回「城歩き編 第22回 石垣の登場(安土城以前の石垣3)」はこちら

国宝(こくほう)松本城(長野県)でも有名な長野県松本市は、平安時代には国府(今で言うなら県庁が置かれた県庁所在市のことです)が置かれ、古代の信濃(しなの)の政治(せいじ)の中心都市でした。中世になると、多くの山城(やまじろ)が市内の各所に築(きず)かれました。松本盆地(ぼんち)周辺の山々は、高い山、低い山の尾根筋(おねすじ)が延々(えんえん)と続いているのが特徴(とくちょう)です。そこで、尾根伝いに敵(てき)が簡単(かんたん)に入り込(こ)むことが出来ないようにするため、城が築かれた尾根の後ろの方に連続する堀切(ほりきり)を配置している山城がほとんどです。さらに、山の麓(ふもと)まで長い竪堀(たてぼり)を設(もう)けて、斜面(しゃめん)を移動(いどう)して入り込むことも防(ふせ)いでいました。曲輪(くるわ)は連続して配置することが多く、大切な場所に石を積むことも行われています。

前回まで、安土城(滋賀県)以前の石垣(いしがき)について、勉強しましたので、今回はこうした古い石垣が残る松本の山城を案内することにします。

山家城、林子城
山家城の竪堀(左)と林小城の堀切(右)。尾根の後ろの方に連続する堀切を設けて、斜面には山の麓まで続くような長い竪堀が設けられていました

松本市、主要城館跡
松本市域の主要城館跡(『小笠原氏城館群-井川城址試掘・第1次・第2次発掘調査報告書-』松本市教委 2016 より転載)

石垣が見やすい山城

松本平(まつもとだいら)は、山の上に上がれば夏でも涼(すず)しいくらいです。この気候によって、草木がそれ程(ほど)育ちませんので、夏でも石垣をよく見ることができます。冬は、雪が降(ふ)ったり、積もったりしますので、春先か秋口が最も見学に適(てき)した季節でしょう。いずれの城も、かなり高い山の上や中腹(ちゅうふく)に位置しています。本丸まで登り、一通り見学して、降(お)りてくると2時間ほどになります。午前と午後1城ずつ見学というのが、体力面からもお勧(すす)めです。

石垣が残る城は、林大(はやしおお)、林小(はやしこ)桐原城山家(やまべ)埴原(はいばら)、虚空蔵山(こくうぞうさん)城、青柳(あおやぎ)(筑北村)などです。この中で、「小笠原氏(おがさわらし)城跡」として林大城と林子城が国の指定史跡(しせき)に、桐原城、山家城、埴原城が県の指定史跡になっています。この5城の中で、石垣が良好に残り、観察しやすい4城を紹介したいと思います。

桐原城
桐原城遠景。ほとんどの山城が、標高900m前後の場所に位置し、往復でおおよそ2時間かかります

林小城

信濃(しなの)国守護(しゅご)であった小笠原氏は、当初は井川館を活動の中心場所にしていましたが、長禄(ちょうろく)3年(1459)、小笠原清宗(きよむね)が林へと住まいとする館を移(うつ)します。この時、南と北側の山上に築いた2つの山城が大城と小城と言われています。

大城には、それ程石積みは残されていません。城は、主郭(しゅかく)から延びる二筋の尾根筋上に、数えきれない程の大小の曲輪を配置し、大事な場所に長い竪堀を設けて、簡単に城へ入れないようにしています。さらに、主郭の後ろ側の自然の谷地形を利用して、堀切と竪堀を繋(つな)ぎ合わせた巨大(きょだい)な尾根筋を断(た)ち切る施設を造り上げ、周囲に大城には無い畝状竪堀(うねじょうたてぼり)が廻(まわ)りを囲んでいます。そして、主郭をとりまく石積みが非常(ひじょう)によく残っています。それ程高くはありませんが、ほぼ垂直(すいちょく)に積み上げた特徴的な石積みになります。全体的に保存(ほぞん)状態(じょうたい)がよく、きれいな石積みを観察することができます。

登り口は、東西の二ヵ所にあります。どちらから登っても、往復(おうふく)で2時間ほどかかると思っておけばよいでしょう。東側の大嵩崎(おおつき)側から登れば、途中(とちゅう)で巨大な竪堀を見ることができます。西側の廣澤寺(こうたくじ)側から登れば、急坂続きですが、市街と北アルプスを一望することができます。

石垣、林子城
主郭を取り巻く石垣。石垣は、曲輪の下から積み上げるのではなく、上部にのみほぼ垂直に積み上げ、周囲を囲んでいます

桐原城

追倉沢(おいくらさわ)と海岸寺沢(かいがんじさわ)に挟まれた大蔵山の中腹(ちゅうふく)(標高952m)にあります。寛正(かんせい)元年(1460)に、この地域の有力な武士で小笠原氏に従った桐原真智(まさとも)(犬甘いぬかい)城主の犬甘政徳(まさのり)の弟)が築いたと伝わります。

主郭は、後ろ側に高い土塁(どるい)を設け、周囲も土塁囲みとし、そこに鉢巻(はちまき)状の石積み(土塁や斜面の上部だけに積まれている石積みです)が見られます。ここから扇形(おおぎがた)に四段(だん)の曲輪群が階段状に設けられていますが、いずれも石積みとなっています。虎口(こぐち)は、枡形(ますがた)となりここにも石積みが導入されています。松本平の山城で、最も石積みを多く用いる城ではないでしょうか。主郭の北西側には、大きく長い竪堀、後ろには三重の堀切、さらにその間に畝状竪堀、前面に巨大な竪堀と、圧倒的な数の空堀(からぼり)で守りを固めています。南側へ続く尾根筋も、2ヵ所に二重の堀切(左右は竪堀に連続しています)を設けて、尾根を登ってくる敵に備えています。二重の空堀の間に、不整形の小削平地が多く設けられています。

登城路は、西側の追倉沢と東側の海岸寺の2ヵ所にあります。なだらかな追倉沢側からが登りやすいでしょう。往復で1時間程、ゆっくり見学するなら2時間程度と思ってください。

桐原城 、石垣
主郭の南側の虎口周辺の石積み。主郭だけではなく、主郭の下に位置する階段状の曲輪も、虎口を中心に石積みとなっています

山家城(中入城)

山辺谷(やまべだに)を奥に入った薄川(すすきがわ)の右岸に位置しています。北沢と中山沢に挟(はさ)まれた秋葉山の尾根の中腹から山頂部にかけて築かれています。永正(えいしょう)2年(1505)に、折野昌治(おりのまさはる)(後の山家氏)が播州明石(ばんしゅうあかし)からこの地に来て、小笠原貞朝(さだとも)(長朝(ながとも)の子)に属し、山家城を拠点としていました。

城は、途中に設けられた五重の堀切によって、上下で大きく姿(すがた)かたちが異(こと)なります。下にある城が、小笠原氏の城に共通する特徴を持っています。主郭は東西約20m×南北22mで、周囲の石垣は3m程と高く見事で、戦国最末期の松本平の石積み技術(ぎじゅつ)の最終的な姿を示しています。ここから3方向に延(の)びる尾根筋には、堀切や竪堀を設けて、容易(ようい)に侵入(しんにゅう)出来ないようにしています。上方に残る城は、下の城より古い段階に築かれたと考えられ、石積みは認(みと)められません。

登城路は、徳運寺(とくうんじ)(うら)から曲輪の続く長い尾根を伝わるルートと、上手町(わでまち)集落裏の古城の窪(くぼ)から谷筋を登るルートがあります。徳運寺裏からのルートが登りやすい道になります。往復で、1時間半程、ゆっくり見学するなら2時間~2時間半程度を予定してください。

山家城、石垣
主郭の背後の石積み。扁平な石を高さ3m程、ほぼ垂直に積み上げています。松本平の石垣の最終段階の完成した石積みでしょう

埴原城

和泉川(いずみがわ)と宮入川(みやいりがわ)に挟まれた標高994mの尾根の上を利用して築かれた城です。山城としてはかなりの規模(きぼ)で、入り組んでこみいった遺構(いこう)をとどめています。主郭では、鉢巻状の石積みや枡形状になる虎口、磐座(いわくら)(信仰の対象になるような岩のことです)のような岩の塊(かたまり)が見られます。後ろ側に高い土塁と深い堀切を設けていますが、その下に主郭と同じくらいの大きさを持つ副郭があります。堀切から後ろ側に延びる尾根筋の南斜面には畝状竪堀を設けて、守りを固めています。また、主郭から5方向に延びている尾根筋には、堀切や土塁、竪堀を設けて、曲輪を多数配置することで、主郭を守っています。

西側麓の蓮華寺(れんげじ)の裏からの登城路は、古い町割の残る町村集落から続く道を登っていくことになります。途中に、山麓居館(さんろくきょかん)(普段生活をした山の麓に造られた館のことです)と思われる平場(ひらば)を過(す)ぎ、谷間から尾根筋を登って行くと、水場や虎口も見られます。南からの登城路は、あまり高低差が無くなだらかで、道沿いの谷間には亀ノ井と呼(よ)ばれる平場があります。往復で1時間程、ゆっくり見学するなら2時間程度と思ってください。

埴原城、石垣
主郭の南側に残る二段に積まれた石垣。主郭の石垣は上部を中心に積まれ、それ程高くはありません

松本平の石積みの残る山城は、安土城より前に築かれた石積みを観察するにもってこいです。積まれている場所(谷の部分とか平らな部分とか)や曲輪の中での位置(虎口とか曲輪の周囲とか)、石材の大きさ、高さや角度などを確認するといいでしょう。ほとんどが、城が築かれた山中にある石を積んでいますので、岩盤(がんばん)が表に出ている場所があれば、そこから運んだのかもしれません。そんな場所を探(さが)すのも楽しいですよ。

いずれにしても、登城時間から下へ降りるまでの時間をしっかりと決めておいて、明るく安全なうちに下山するようにすることが見学するうえでは一番大切です。

今日ならったお城の用語

竪堀(たてぼり)
斜面の移動を防ぐために設けられた堀のことです。等高線に対して直角に掘られます。連続して配置された場合「畝状竪堀(うねじょうたてぼり)」と呼びます。

堀切(ほりきり)
山城で尾根筋や小高い丘が続いている場合、それを遮って止めるために設けられた空堀のことです。等高線に直角になるように掘られました。山城の場合、曲輪同士の区切りや、城の境をはっきりさせるために掘られることが多く見られます。

鉢巻石垣(はちまきいしがき)
土塁の補強、石垣の節約のために、土塁の上部のみに築いた石垣を言います。中世段階では、曲輪の上部のみに補強のために築く場合がありました。

※桝形(ますがた)
門の内側や外側に、攻め寄せてくる敵が真っすぐ進めないようにするために設けた方形(四角形)の空いた場所のことです。近世の城では、手前に高麗門、奥に櫓門が造られるようになります。

※印は再掲です

次回は、「安土城の石垣」です。

お城がっこうのその他の記事はこちら

加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。


関連書籍・商品など