お城EXPO 2020  徹底ガイド&レポート お城EXPO 2020⑦ テーマ展示「城郭の役割―実用と表象―」徹底解説!【第1回】

全国のお城好きが毎年楽しみにしている年末恒例のお城イベント「お城EXPO 2020」。12月19日(土)・20日(日)の開催まであと少し! お城EXPOで毎年注目を集めているのが、貴重な展示の数々を鑑賞できるテーマ展示。今年の「城郭の役割―実用と表象―」の注目ポイントを解説します。第1回は、北条氏が武田信玄との戦いに備えた山城として知られる津久井城(神奈川県相模原市)の城絵図についてです。

はじめに

私たち城郭ファンには、山城が好きな人、天守が好きな人、石垣が好きな人、縄張りが好きな人など、多様な城郭に対しての向き合い方が存在しています。人々は城郭に対してどのように向き合っていたのでしょうか。今回のお城EXPO2020のテーマ展示では「城郭の役割―実用と表象―」と題して現在の神奈川県相模原市緑区にあった津久井城が描かれた絵図と現存12天守の模型を展示し、城郭の持つ役割について実用的な側面と、表象(イメージ)の側面の2方向から思いを巡らせられないかと考え、このようなタイトルをつけました。津久井城の絵図からは、江戸時代の人々が城跡に対してどのように向き合っていたのかを、現存12天守の模型からは、人々が天守に対する眼差しの変遷についてしてどのようなに向き合っていたのかを紹介したいと思います。

津久井城絵図について

津久井城の絵図については、平成22年(2010)に神奈川県立津久井城城山公園パークセンターで「描かれた津久井城~城絵図の世界~」という企画展準備の過程で、13種類の絵図が確認されました。この

他に、相模原市立博物館所蔵の絵図や大分県臼杵市歴史資料館に所蔵されている臼杵藩主稲葉氏旧蔵の絵図が確認されています。今回展示する「相州津久井古城図」と無名の津久井城絵図(以下「津久井城絵図(仮称)」)の2点は、これらのいずれにも当てはまらない新しい絵図になります。

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相州津久井古城図
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「相州津久井古城図」

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津久井城絵図(仮称)
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「津久井城絵図(仮称)」
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津久井城絵図一覧リスト津久井城絵図一覧リスト

この2枚の絵図は、(1)上部に相模川が描かれている、(2)堀や建物跡の位置・曲輪の寸法が書かれている、(3)土塁のあった場所を太線で記す、など、ほぼ同じ要素が入っている縄張り図となっています。最大の違いは、「相州津久井古城図」の右下に描かれている三増山が「津久井城絵図(仮称)」には描かれていない点です。

津久井城の絵図は、リスト1の「相州津久井古城図」が慶安元年(1648)に描かれたのを皮切りに、すべて江戸時代に描かれたと考えられています。津久井城は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原合戦に際して、徳川家康の家臣である本多忠勝・平岩親吉が率いる軍勢によって落城し、その後は廃城となったにもかかわらず、数多くの城絵図が描かれたのでしょうか。これら17種類の津久井城の城絵図のうち、14種類の絵図には右下に三増峠が描かれている点が注目されます。

津久井城と三増峠の戦い

三増峠は、現在の神奈川県愛川町三増と同相模原市緑区根小屋にまたがる峠で、津久井城の約10㎞南方にあります。永禄12年(1569)10月に、この地で武田信玄と北条氏によって行われた戦を三増峠の戦いといいます。

三増峠の戦いに至った背景について説明します。武田信玄は、永禄4(1561)の第四次川中島の戦いにより、長らく上杉謙信と争っていた信濃国北部の政治情勢が安定し、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで織田信長に討たれた今川義元の跡を継いだ、今川氏真の領国である駿河国(現・静岡県中央部)への侵攻を目論むようになります。今川氏真は、永禄6年(1563)に遠江国(現・静岡県西部)の国衆による反乱「遠州忿劇」が発生し、永禄9年(1566)には松平(徳川)家康が三河国(現・愛知県東部)を統一するなど不安定な領国経営が続いていました。

永禄8年(1565)に廃嫡された武田義信が同10年に死去後、正室の嶺松院が兄の今川氏真の元に戻り、美濃国(現・岐阜県南部)東部で境を接する織田信長との関係を深めるため、同年11月に信玄の四男諏訪(武田)勝頼と織田信長の養女と婚姻するなど、武田信玄は織田信長と友好的な関係を取り、今川との対立姿勢を深めていきます。

このような状況で、武田・北条・今川の三氏で締結していた甲相駿三国同盟は有名無実化します。信玄は永禄11年(1568)12月に今川氏領国である駿河国に侵攻。今川氏真を遠江国掛川城(静岡県)へ追放し、駿河国の領国化を目指しました。北条氏康は今川氏真救援のため駿河へ出陣し、武田氏と北条氏間の関係も対立するようになりました。

永禄12年(1568)10月、武田信玄が北条氏の居城である小田原城を包囲して火をかけた後、甲府へ帰る途中に、滝山城主の北条氏照と鉢形城主の北条氏邦が武田軍を迎え撃った三増峠の戦いの舞台となりました。この合戦については、武田信玄・勝頼の合戦や軍事戦略などを記した『甲陽軍鑑』の品第三五に次のように書かれています。

一戦はたらきの後は、小田原より箱根へかゝり、三島へ出るか、それに敵城ともあまたあれば、みませ(三増)とうけをこし、甲州郡内へ出づるか、いづれにはたらきとふり給ふ、路路は御帰陣にあやうく候と御談合にも、みませすぢは敵城つくゐ(筑井)の城一ツならで、是なしとありて、十が九はみませ海道を御帰陣とさだめらるゝなり

と、武田信玄は小田原城(神奈川県)で一戦交えた後に甲府へ帰る方法として、敵(北条氏)の城が沢山ある箱根から三島へ抜ける経路と、三増峠を越えて甲斐国郡内地方(現・山梨県東部)に出る経路を検討し、三増筋には敵城が津久井城しかないため、ほぼ三増街道を通って帰陣することが定められた、とあります。

また、三増峠の戦いにおいての津久井城について、

うしろの甲州へとをる路次五町斗に敵のもちたるつく井の城あり、(中略)小幡尾張守のまと云ふ所へ引こし、つく井の城のおさへと被仰付、小幡は五百騎の大将なれ共、信玄公御意をもつて、留守に三百騎をき、二百騎故、雑兵共に千二百の人数をもつてつく井をおさゆる

と、小幡尾張守(信貞)が1,200の兵で北条方の城である津久井城を抑えたことが記されています。この戦は、戦国時代において大規模な山岳戦であったことが知られています。津久井城が何度も描かれている背景として、三増山合戦とは切っても切れない関係であったことが伺えます。三増峠の戦いを描いた絵図も、東北大学狩野文庫に10点、関西大学図書館に3点、岡山大学附属図書館池田家文庫に2点、徳川ミュージアム、神奈川県立図書館、三康図書館、宮城県立図書館に各1点など、数多くの絵図の所蔵が確認されています。

津久井城と甲州流軍学

先に津久井城と三増峠の戦いついて引用した『甲陽軍鑑』は、武田信玄・勝頼の活動を記した書物ですが、武田信玄・勝頼の活動から軍事戦略や築城術を学ぶ甲州流軍学の基本テキストとして広く流布していました。軍学とは軍事戦略や築城術などを学ぶ学問で、実際の合戦が行われなくなった江戸時代前期に様々な流派が発生しました。軍学には、明の軍学から生まれた長沼流などもありますが、源義経から学ぶ義経流、楠木正成から学ぶ楠流、上杉謙信から学ぶ越後流など、過去の武士の活躍から学ぶスタイルが中心でした。その中で、武田信玄の活躍から学ぶ甲州流は武士たちの間で特に広く学ばれ、弟子筋からは、甲州流軍学を武田信玄の逸話や占いなどの要素を取り除くような形で発展させた、北条氏長が始めた北条流や、山鹿素行が開始した山鹿流など様々な流派が生まれました。

津久井城の絵図が多く伝来していている背景には、甲州流軍学を学ぶ過程で描かれたものと考えられます。甲州流軍学の創始者である小幡景憲が『甲陽軍鑑』を元に記した兵法書『竜虎豹三品』には

退いて三増において待て敵を引寄(せ)勝利なり。これ引いて敵を寄せ表裏となり。小荷駄奉行も先は内藤修理大功の侍大将なり。跡は浅利小幡上総守は合戦場後ろの敵城魘(おさえ)とありて、内藤修理と小幡と、陰と陽と陽と陰との戦定なり。此大合戦信玄公勝利なり

と、三増峠の戦いにおいて、武田四天王の一人内藤昌秀(昌豊)と書かれていることから、津久井城や三増峠の戦いが甲州流軍学を学ぶ一環として津久井城や三増峠の戦いが題材になっていたことが伺えます。

このことは、三増峠が描かれていない国会図書館所蔵の「津久井城絵図」にも「そり畑此方ニ見ユル、甲ニハ合戦場ヨリ東道六リト有」と、『甲陽軍鑑』品第三十五に「北條家をうちとる其数雑兵共に三千二百六十九の頚帳をもつて東道六里こなたそり畠においてかち時を執行なされ候」と、三増峠の戦いで勝利した武田信玄の軍勢が勝鬨を上げた「そり畑(反畑)」(現・神奈川県相模原市緑区寸沢嵐)の場所についての解説が記されており、『甲陽軍鑑』を読んでいることを前提として描かれていることが見て取れます。

国会図書館蔵「日本古城絵図」相州津久井城
国会図書館蔵「日本古城絵図」相州津久井城。左下に『甲陽軍鑑』をふまえた解説が書かれています

軍学は江戸時代、特に江戸時代初期において武士の素養として学ばれており、特に甲州流軍学を学ぶ一環として津久井城が取り上げられており、そのために津久井城の絵図が数多く残されていたと考えられます。

軍学の実用

江戸時代に入って戦が無くなった時代に発展した軍学は、武士の教養として学習された側面もありますが、実際に築城する上の実学としての側面もありました。軍学に基づいた城郭については、城びとの「超入門!お城セミナー第92回【歴史】戦術研究の第一人者でも、難攻不落の城を造れるとは限らない!?」にも詳しく紹介されていますのでぜひご参照下さい。

慶長20年(1615)の大坂夏の陣以降、新たに築城されたケースはさほど多くありません。その中で、慶安元年(1648)から寛文元年(1661)にかけて築城された赤穂城(兵庫県)は、甲州流軍学の創始者である小幡景憲の高弟である近藤正純が縄張りを担当し、同じく小幡景憲と彼の弟子である北条氏長に学び、山鹿流軍学を創設した山鹿素行の助言によって作られました。

甲州流軍学の築城術について記された『信玄全集末書』の「城取巻」冒頭には「一 城の数幷繁昌の地形を知事」という項目があり、「北高く、南低く、南北へ長く、東か南か西に流水域とも、海成ともありて、ことに堅固よき地也、又三方共に、ありてもよし」と書かれています。赤穂城は北には山崎山と雄鷹台山、南と西は瀬戸内海、東には能見川(現・千種側)に囲まれており、『日本古城絵図』(国立国会図書館蔵)の赤穂城絵図を見ると気持ち南北に長い縄張りとなっており、繁昌の地形にかなっていると言えましょう。

国会図書館蔵『日本古城絵図』赤穂城
国会図書館蔵『日本古城絵図』赤穂城

また、赤穂城の縄張りは、複雑に折れ曲がった直線と曲線で構成された多角形であることに大きな特徴があります。これについても『信玄全集末書』の「城取巻」に「陽中陰の城圖」として、複雑に折れ曲がった直線と曲線による多角形の縄張り図が描かれており(下写真参照)、甲州流軍学の特徴であることが伺えます。

津久井城絵図は甲州流軍学を学ぶ過程で作成されたものであり、実学的な目的をもって甲州流軍学は学ばれていたものと言えましょう。

「信玄全集末書」縄張図
「信玄全集末書」縄張図(『武田流軍学全書 地』武田流軍学全書刊行会。1935年


執筆/山野井健五
1977年生まれ。2009年成城大学大学院文学研究科博士課程後期単位取得退学、川口市立文化財センター調査員、目黒区めぐろ歴史資料館研究員、東京情報大学非常勤講師を経て、現在、(株)ムラヤマ、お城EXPO実行委員会。専門は日本中世史。主な業績として「中世後期朽木氏における山林課役について」(歴史学会『史潮』新63号、2008年)、「中世後期朽木氏おける関支配の特質」(谷口貢・鈴木明子編『民俗文化の探究-倉石忠彦先生古希記念論文集』岩田書院、2010年)監修として『学研まんが 日本の古典 まんがで読む 平家物語』(学研教育出版、2015年)、『学研まんがNEW日本の歴史4 武士の世の中へ』(学研プラス、2012年)

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