超入門! お城セミナー 第22回【武将】織田信長はなんで居城を次々と変えたの?

初心者向けにお城の歴史・構造・鑑賞方法を、ゼロからわかりやすく解説する「超入門! お城セミナー」。今回は築城の革命児・織田信長。先祖代々の居城を守ることが常識の戦国時代に、信長は居城移転を繰り返しました。信長は何で、このような常識外れなことを行ったのでしょうか?



清須城、公園、織田信長像
 清須城公園に立つ織田信長像

居城移転を繰り返した織田信長

戦国時代の大名たちにとって領国経営の本拠地である居城は非常に重要な場所であり、領土を拡大しても居城を変えることはほとんどありませんでした。

例えば、軍神と呼ばれた上杉謙信は、関東や越中にたびたび出兵して領土を拡大していますが、生まれ育った春日山城(新潟県)から居城を変えることはありませんでした。謙信のライバル・武田信玄も祖父が築いた躑躅ヶ崎館(山梨県)に生涯住み続けています。「一所懸命」という言葉通り、父祖伝来の土地を守ることに命をかけた大名やその家臣たちにとって、居城はある種の「聖域」だったのです。

春日山城、二の丸、居城、上杉謙信
上杉謙信が生涯住んだ春日山城。謙信の後継者・景勝が会津へ転封になるまで半世紀以上の間、上杉家の居城として機能した

しかし、そんな戦国時代の常識を覆し、たびたび居城の引っ越しを行った人物がいます。そう、織田信長です。城全体に石垣をめぐらせ、壮麗な高層建築である天主を持つ安土城(滋賀県)を創出するなど、城郭建築の革命児として知られる信長。じつは彼は10代で那古野城主(愛知県)になると、清須城(愛知県)→小牧山城(愛知県)→岐阜城(岐阜県)→安土城と4回も居城を変えているのです。

なぜ、信長はこれほど引っ越しを繰り返したのでしょうか?

引っ越しが信長を天下人にした!?

信長がはじめて城主となった那古野城は、父・信秀が今川氏から奪った城。信秀死後もしばらく信長はこの城を居城としていましたが、天文23年(1554)に家臣の謀反にあった尾張守護・斯波義銀(しばよしかね)が助けを求めてきたことをきっかけに尾張国内を統一。守護の居館だった清須城を自分の居城にしてしまいます。清須は尾張の中央に位置していて、東海道や伊勢湾に近い交通の要衝でした。一国の領主となった信長は、ここで尾張進出を狙う今川義元と対峙します。

那古野城跡、遺構、城址碑
那古野城跡は廃城後、名古屋城(愛知県)に取り込まれた。そのため遺構はほとんど存在せず、名古屋城二ノ丸に城址碑が残るのみである

安土城天守、模擬天守、公園、遺構
清須城は信長の息子・信雄により大改修されたため、信長時代の遺構はほとんど残っていない。現在は公園となっており、安土城天主を模した模擬天守が建てられている

永禄3年(1560)、今川義元を桶狭間で破り尾張を完全に掌握した信長は、斎藤氏を攻略するために美濃に近い小牧山ではじめての築城を開始します。従来は美濃攻略のための急造の砦と思われていた小牧山城ですが、近年の発掘調査で信長時代の石垣が発見され、本格的な石垣を備えた近世城郭の嚆矢(こうし)ともいえる城だったことが判明しました。城下町も本格的な町割が行われていたといいます。信長は旧権力のしがらみが強い清須城ではできなかった、新しい城と城下町の創出にチャレンジしたのでしょう。

 小牧山城、主郭、石垣
 小牧山城主郭付近の石垣。主郭は三重の石垣に囲まれた堅固な造りだった

こうして新たな居城から本格的に美濃攻めに動き出した信長ですが、敵の大将・斎藤義龍(さいとうよしたつ)は人望がなく家臣らが次々と信長に寝返ったため、美濃攻めは小牧山城築城からわずか4年で完了してしまいました。信長はこの勝利で斎藤氏の居城・稲葉山城を手に入れます。

稲葉山城は金華山上に位置する天然の要害であると同時に、東海道や東山道を押さえる交通の要衝でした。信長はせっかく築いた小牧山城をあっさりと放棄して稲葉山城へ入城し、「岐阜城」と名を改めると、「天下布武」を掲げて天下統一を目ざすことを宣言します。天下を目指す信長は、美濃攻略の先に上洛と畿内掌握を見据えており、岐阜城はその足掛かりとしてうってつけだったのです。

岐阜城、見せる城
後に安土城で完成された「見せる城」を、信長は岐阜城で試行していた

そして、長篠の戦いで武田軍を破った翌年にあたる天正4年(1576)、右大将に昇進した信長が築いた城が安土城です。水上交通の要衝・琵琶湖のほとりに建っていた安土城下には、北国街道など主要な街道も通っていました。信長は琵琶湖の交通網を重要視しており、羽柴秀吉や明智光秀などの有力家臣に琵琶湖周辺の領地を与えて城を築かせています。中山道や北国街道などの主要街道を押さえている安土は、東西南北に通じる交通の要衝。政治の中心地である京と数時間で行き来できる上に、信長の本拠地である尾張・美濃と京の中間点に位置していました。つまり、天下統一の拠点として最も適した土地だったのです。

安土城、大手道、羽柴秀吉
安土城の大手道。約180mの直線が続く大手道の脇には、羽柴秀吉ら家臣の屋敷が並んでいたという

こうして天下掌握のための居城を築き、統一に王手をかけた信長ですが、明智光秀の謀反にあえなく倒れ、天下統一のシンボルだった安土城天主も直後に焼失してしまいます。しかし、信長が居城とした城は彼の死後も重要な地と見なされ、有力大名が城主を務めたり、近くに新しい城が築かれたりしています。目的を遂げるために必要な土地を見極める見識と移転を実行に移す行動力こそ、信長が天下人になれた理由だったのではないでしょうか。


執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。主な城関連の編集制作物に『日本の山城100名城』『超入門「山城」の見方・歩き方』(ともに洋泉社)、『よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書』『完全詳解 山城ガイド』(ともに学研プラス)、『戦国最強の城』(プレジデント社)、『カラー図解 城の攻め方・つくり方』(宝島社)、「廃城をゆく」シリーズ(イカロス出版)など。

関連書籍・商品など