2023/04/14
理文先生のお城がっこう 歴史編 第54回 秀吉の城6(聚楽第の造営)
加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。これまで豊臣秀吉が築いたお城の特徴について見てきましたが、今回は秀吉が都に築いたお城・聚楽第(京都府京都市)がテーマです。天下統一を目前に戦いに明け暮れていた秀吉は、なぜ京の都に立派なお城を築いたのでしょう? その目的を、聚楽第の歴史に注目しながら見ていきましょう。
天正13年(1585)7月、天皇(てんのう)の命令を伝える公式の文書を受けたことによって「関白(かんぱく)」になった豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、翌年(よくねん)から平安京跡地(あとち)の「内野」の地で築城(ちくじょう)工事を開始しました。『多聞院(たもんいん)日記』には「21日から内野の城の普請(ふしん)を諸国(しょこく)の大名に命じた」とあります。同年6月には作事(さくじ)のための大量の材木が、四国や東国から運搬(うんぱん)されたことも記録されています。
築城工事の最中の同14年(1586)9月には、正親町(おおぎまち)天皇より豊臣の姓(せい)を賜(たまわ)り、太政大臣(だじょうだいじん)の職務(しょくむ)に就(つ)いたことにより、豊臣政権(せいけん)が誕生(たんじょう)しました。翌15年(1587)秀吉は「内野御構(うちのおかまへ)」「内野御屋敷(おやしき)」等と呼ばれていた城館を初めて「聚楽(じゅらく)(楽しみを聚(あつむる))」と呼んでいます。同年には、いろんな場所にあった庭石や植木を強制的(きょうせいてき)に取り上げ、庭園を造(つく)り、九州平定が完了(かんりょう)したのを待って大坂城(大阪府大阪市)から聚楽第(京都府京都市)へと移(うつ)り住んだのです。今回は、聚楽第の造営(ぞうえい)から廃城(はいじょう)までの歴史(れきし)をまとめてみたいと思います。
聚楽第復元図(作図:森島康雄)
発掘調査成果を中心にして、文献・絵画資料も用いて堀の位置を推定した図になります。本丸南堀の石垣も推定位置で見つかりました
造営の目的は
秀吉が都に聚楽第を築(きず)いたのは、後陽成(ごようぜい)天皇を秀吉の私邸(してい)にお招(まね)きしもてなすためだと言われています。その願いがかなったのは同16年(1588)の春のことでした。秀吉は、天皇の前で諸大名(しょだいみょう)に秀吉を主君として仕えることを誓(ちか)わせる起請文(きしょうもん)(契約(けいやく)を交わす際(さい)、それを破(やぶ)らないことを神仏(しんぶつ)に誓う文書です)を出させたのです。これによって諸大名の上に関白秀吉が位置し支配(しはい)する体制が広く知れ渡(わた)り、豊臣政権が成立したことを誰(だれ)もが理解(りかい)したのです。
これ以後、聚楽第は関白が政治(せいじ)を行うための場所としての役目を果たすことになります。諸大名は言うまでもありませんが、ポルトガル副王、李氏朝鮮(りしちょうせん)などの外国使節との対面も聚楽第が使用されるようになります。教科書にも載(の)っている、百姓(ひゃくしょう)たちの武器(ぶき)を取り上げて百姓に専念させるための「刀狩令(かたながりれい)」もこの年に出されています。
「聚楽第址(あと)(此付近大内裏及聚楽第東濠跡)」石碑(せきひ)(上京区中立売通大宮北西角)。平成21年(2009)に建立(こんりゅう)された、聚楽第の東堀(ほり)の跡(あと)に建てられた石碑になります
「此付近 聚楽第址(此附近聚楽第本丸西濠跡)」の石碑。上の写真の石碑から300m西の中立売通裏門西南角にある石碑です。これら2つの石碑の間に聚楽第の主要部があったということになり、おおまかな城の広さがわかります
翌17年(1589)3月、秀吉は弟秀長(ひでなが)が改修した淀(よど)城(淀古城、京都市伏見区)を、秀吉の子供(こども)を妊娠(にんしん)した側室の茶々(ちゃちゃ)に与え、出産をする城としました。前の年より進められていた京都の大仏殿(だいぶつでん)の建立も急ピッチで進められ、大仏の鋳造(ちゅうぞう)が始められることになります。この頃、聚楽第の門の屯所(とんしょ)(警備(けいび)兵の詰所(つめしょ))の白壁(かべ)に、秀吉の政治を批判(ひはん)する落首(らくしゅ)(匿名(とくめい)の世を批判する落書き)が書かれました。激(はげ)しく怒(おこ)った秀吉は、当夜警備を担当(たんとう)していた17名の番衆(ばんしゅう)の鼻を削(そ)ぎ、耳を切り落とし、磔(はりつけ)にして処刑(しょけい)します。その後、容疑者2名が自害、それでもおさまらない秀吉は彼(かれ)らの関係者60名以上を京都六条河原(ろくじょうがわら)で磔にしたのです。
そうかと思えば聚楽第に一族・公家(くげ)・大名を集め、南二の丸馬場で「金配り」を行いました。記録により枚数(まいすう)は異(こと)なりますが、『鹿苑(ろくおん)日記』(京都鹿苑院の歴代(れきだい)僧録(そうろく)の日記)によれば、金6千枚、銀2万5千枚が分配されたと記されています。翌週には、待望の男子が誕生します。「棄(すて)」と名付けられ、やがて鶴松(つるまつ)と呼(よ)ばれるようになります。当初、母の淀殿(よどどの)(茶々)と淀城で暮らしていましたが、4ヶ月後に大坂城へと移され、秀吉の後継者(こうけいしゃ)となることを内外に示(しめ)すことになったのです。
天正18年(1590)、20万を超(こ)える軍勢(ぐんぜい)で小田原城(神奈川県小田原市)を取り囲(かこ)み、小田原北条(ほうじょう)氏を降伏(こうふく)させると、引き続き奥州(おうしゅう)攻(ぜ)めを行い、翌年までに完全に従(したが)わせました。この合戦により、長かった戦国時代が終わりを告(つ)げ、秀吉による統一(とういつ)がなされたのです。戦いに勝って都に戻(もど)った秀吉は、聚楽第で茶会を催(もよお)し、その後有馬(ありま)温泉に湯治(とうじ)(温泉で疲(つか)れを癒(いや)すことです)に出向いています。翌19年(1591)、秀吉を補佐(ほさ)し続けて来た弟秀長が病気で亡(な)くなると、政権の中で次に権力(けんりょく)を誰が握(にぎ)るかで激しい争いになり、千利休(せんのりきゅう)が切腹(せっぷく)を命じられたりしました。
聚楽第では、城の周囲に秀吉に従った諸国の大名屋敷が建てられ、聚楽第から内裏(だいり)(天皇のお住まいのことです)までが東西に連なったのです。併(あわ)せて、御土居(おどい)(敵(てき)の襲来(しゅうらい)に備(そな)えたり、鴨川(かもがわ)の氾濫(はんらん)から町を守ったりするために秀吉によって築かれた堀(ほり)と土塁(どるい)による総構(そうがまえ)のことです)造(づく)りが開始され、聚楽第を中心とした「洛中惣構(らくちゅうそうがまえ)(京都を囲む土塁のことです)」が完成を見ることになります。
このうえなく、最高の状態(じょうたい)を迎(むか)えていた秀吉ですが、夏になると鶴松が3歳(さい)でこの世を去ってしまいました。秀吉は、その悲しみを振(ふ)り払(はら)うように唐(から)入り(朝鮮(ちょうせん)出兵)計画を命じ、そのための本拠地(ほんきょち)とする城として肥前(ひぜん)名護屋(なごや)城(佐賀県唐津市)を建てさせました。年末には、秀吉が関白の位とともに、政治を行っていた聚楽第までも甥(おい)の秀次に譲り渡しますが、「太閤(たいこう)」として権力は持ち続けていました。
御土居長坂口。現在、堀は埋(う)め立てられ土塁のみ残されています。長坂口は、千本通から丹波桑田群(たんばくわだぐん)、若狭(わかさ)に通じていました。長坂は、鷹峯(たかがみね)~京都峠(とうげ)への坂道を指します
聚楽第を譲られた秀次は、文禄(ぶんろく)年間(1592~96)に間取りの変更(へんこう)や建て替(か)えを行うとともに、北之(の)丸が新たに造られたと考えられています。しかし、文禄2年(1593)に第2子拾丸(ひろいまる)(後の秀頼(ひでより))が誕生すると、秀吉は関白秀次の娘と婚約させ、秀吉から秀次、そして秀頼へと、政権が上手く受け継(つ)いで行くようにと計画します。
そうした中、文禄4年(1595)、秀吉は突然、謀反(むほん)(君主にそむいて兵を挙げることです)の罪で、秀次を高野山(こうやさん)へ追い払い、切腹を命じます。これは、秀頼に関白を継がせるためだと、ずっと言われてきました。近年この説に対し、秀吉は秀次に高野山行きを命じてもおらず、切腹も命令していないとの説が有力なようです。秀次が自分の無実を証明(しょうめい)するために高野山へ逃(に)げ、そこで抗議(こうぎ)の切腹をしたのが真相ではないかという考えです。現職(げんしょく)の関白の切腹という前代未聞の大事件(じけん)から豊臣政権を守るために、秀次事件が考え出されたということです。
「此付近聚楽第南外濠跡」の石碑。石碑が建つ松林寺(しょうりんじ)の境内(けいだい)の落ち込(こ)みは、聚楽第の遺構(いこう)としてよく紹介(しょうかい)される場所になります。門前から境内まで1.5m程(ほど)落ち込んでいます
謀反をたくらんだ関白の城ということで、聚楽第は秀吉の命で徹底的(てっていてき)に壊(こわ)されてしまいます。聚楽第とその周囲に築かれていた大名たちの屋敷の建築(物の多くは、文禄元年に秀吉が隠居(いんきょ)後の住まいとするため建設を始めていた伏見(ふしみ)城(指月(しげつ)、京都府京都市)に移築(いちく)されたようです。豊臣政権の成立を見た聚楽第は、10年足らずで地上から完全に姿(すがた)を消してしまいました。聚楽第を壊した頃(ころ)を境にして、秀吉の勢(いきお)いが少しずつ衰(おとろ)えを見せるようになってくるのです。
今日ならったお城の用語(※は再掲)
※作事(さくじ)
天守や櫓(やぐら)・城門や塀(へい)などを建てる建築工事(大工仕事)のことです。近世城郭(じょうかく)を建てる場合は、作事が築城工事の中心でした。
御土居(おどい)
豊臣秀吉が、戦乱(せんらん)で荒(あ)れ果てた京都の都市改造(かいぞう)の一環(いっかん)として外敵の来襲(らいしゅう)に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街を守る堤防として、天正19年(1591)に築いた土塁です。総延長は22.5㎞にも及(およ)びます。
次回は「秀吉の城7(聚楽第の姿)」です。
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加藤理文(かとうまさふみ)先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。