理文先生のお城がっこう 城歩き編 第54回 国宝天守に行こう③彦根城

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。これまでの天守の構造についての解説をふまえて、全国に5つしかない国宝天守をもつ名城を1つずつピックアップして具体的に紹介します。第3弾は彦根城(滋賀県彦根市)です。徳川幕府にとって重要な城だった彦根城の歴史と、華やかで美しく飾られた天守の構造について、各階見学ポイントとともに見ていきましょう。

東山道(江戸時代の中山道(なかせんどう)とほぼ同じ道です)北国街道(彦根(ひこね)から琵琶湖(びわこ)の北東岸を北上し、長浜(ながはま)、木之元(きのもと)を経(へ)て福井県今庄(いまじょう)で北陸道と合流し福井へと通じる街道です)が交わる彦根の地は、古くから陸上を通る道だけでなく、船を利用して琵琶湖上を移動(いどう)する交通の重要な場所でした。日本一の淡水(たんすい)湖・琵琶湖が広がり、自然の景色が清らかで美しく、すばらしく眺(なが)めのよい地でもあります。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康、三人の天下人も重要な拠点(きょてん)として、この地に城(佐和山城彦根城)を築(きず)いて琵琶湖東岸地方の押(お)さえとする共に、畿内(きない)への入口を固めたのです。

佐和山城
彦根城本丸より望んだ佐和山城跡。信長・秀吉時代に重要視された山城で、交通の要衝です

城の歴史

慶長(けいちょう)6年(1601)、家康の信頼(しんらい)が厚(あつ)い徳川四天王の一人・井伊直政(いいなおまさ)が18万石をもって佐和山城へ入城します。西国に配置された諸大名(しょだいみょう)の押さえとともに都の守備(しゅび)、万が一の際(さい)には江戸へ向かう豊臣恩顧(おんこ)の軍勢(ぐんぜい)の最前線となることを想定し、琵琶湖に面した磯山(いそやま)の地に新城築城(ちくじょう)を計画しますが、実現することなく病没しました。

彦根城
最初に、佐和山から城を移そうとしたのが磯山で、琵琶湖に面していました

嫡男(ちゃくなん)直継(なおつぐ)は幼(おさな)かったため、家臣たちが話し合って、最終的に徳川家康が候補(こうほ)地の中から彦根山を選んだと言われています。江戸に向かう外様大名が最初に向かい合う城となるため、7か国12大名に手伝い普請(ぶしん)(天下普請)を命じ、幕府からも3人の公儀奉行(こうぎぶぎょう)(幕府(ばくふ)の役人です)が派遣(はけん)される程(ほど)、その築城は重要な仕事だったのです。

慶長8年(1603)築城に着手しましたが、デルタ地帯のため難(なん)工事となりました。石垣(いしがき)の石材は、佐和山、大津長浜安土城(ともに滋賀県)など廃城となった近隣(きんりん)諸城から運び込(こ)んで使用し、さらにこれらの城に残されていた建物の旧材(きゅうざい)を徹底的(てっていてき)にリサイクルすることで、3年後の同11年には主要部がほぼ完成を見ています。さらに、元和(げんな)2~8年(1616~22)、第2期工事となる増築(ぞうちくと城下拡張(かくちょう)を実施(じっし)しました。この後城下整備が行われ、寛永(かんえい)19年(1642)に全てが完成しました。第2期工事以降(いこう)は、諸大名の手伝い普請での実施ではなく、彦根藩(はん)の単独工事になります。完成まで、実に40年もの月日を要したことになります。

国宝への指定

明治11年(1878)軍事目的で築かれた各地に残る城の解体(かいたい)が決定し、彦根城天守は公売(こうばい)(国の財産(ざいさん)を売ることです)により権利(けんり)が売り渡(わた)されたのです。天守を解体するための足場が架(か)けられたちょうどその時、明治天皇(てんのう)の北陸巡幸(じゅんこう)(各地を回ることです)随行(ずいこう)(付き従(したが)うことです)した大隈重信(おおくましげのぶ)を、縣令(けんれい)(今の県知事です)籠手田安定(こてだやすさだ)が彦根城へと案内しました。解体寸前にあった見事な姿(すがた)の天守に魅入(みい)られた重信は、天皇に保存を奏上(そうじょう(意見・事情(じじょう)等を申し上げることです)したのです。重信の奏上に対し、明治天皇が同意の意思を示(しめ)したため、宮内卿(くないきょう)を通じ内大臣岩倉具視(いわくらともみ)に、建物を壊(こわ)すことを中止し保存(ほぞん)するように命じられ、貴重(きちょう)な天守が保存されることになったのです。

これを受け、旧藩主井伊直憲(いいなおのり)伯爵(はくしゃく)が、明治23年(1890)より26年にかけて、城の払(はら)い下げのために走り回り、同27年、地所建物一切の下賜(かし)(天皇から与えられることです)が決定しました。この決定により、城は再(ふたた)び、井伊家の個人(こじん)所有となったのです。昭和5、6年(1930~31)頃、国から国宝(こくほう)指定を打診(だしん)されましたが、持ち主である井伊直忠伯爵が拒絶(きょぜつ)したため、国宝指定は見送られました。同19年(1944)、城が井伊家より市に寄付され、市の所有物となりましたが戦時下であり城まで手が回る状況ではありませんでした。ポツダム宣言(せんげん)を受け入れ、敗戦国となった日本の終戦の混乱(こんらん)が収まった昭和26年(1951)、遂(つい)に国宝に指定されることとなりました。井伊家への打診から、実に20年の歳月(さいげつ)を経て、我(わ)が国4番目の国宝天守が誕生(たんじょう)したのです。

彦根城、玄宮園
4代藩主の井伊直興(なおおき)が延宝(えんぽう)5年(1677)に造営(ぞうえい)した玄宮園(げんきゅうえん)。大きな池に突(つ)き出すように建つ臨池閣(りんちかく)、鳳翔台(ほうしょうだい)が特徴的(とくちょうてき)で、池には4つの島があり、庭を形成する景色の一つとして天守を取り入れています

国宝天守の特徴

彦根藩主井伊家の歴史(れきし)を記した『井伊年譜(ねんぷ)』には、「大工棟梁(とうりょう)の浜野喜兵衛(はまのきへえ)の手により天守は京極家の大津城の殿守(でんしゅ)を移(うつ)した」とあり、天守は大津城の五重天守を移築(いちく)し、三重に改修(かいしゅう)したと考えられています。昭和32年(1957)からの解体修理によって、他の城からの転用と考えられる部材に、旧位置を示す番付や符号(ふごう)が印刻(いんこく)されており、これをもとに前身の天守を復元(ふくげん)すると、1階の平面が現在(げんざい)の彦根城天守よりやや小さく、高さは5階であったことが判明(はんめい)しました。このことから、大津城天守移築改修がほぼ確実(かくじつ)であったとされています。大津城の天守移築に関しては、関ヶ原の戦いでも落城しなかったことから、「縁起(えんぎ)が良い天守」として、家康が移築命令を出したとも言われています。

また、解体修理中に、隅木(すみぎ)(屋根の下地となって支(ささ)えるための斜材(しゃざい)のことです)から墨(すみ)で書かれた文字が発見され、慶長11年(1606)の5月下旬(げじゅん)に2階が、6月初旬に3階が組みあがったことが解(わか)りました。従って、この年に天守が完成したことが確実視(かくじつし)されています。

外から見た姿は、非常(ひじょう)に華(はな)やかなイメージで、変化に富んだ姿となっています。初重の大入母屋の上に二重の望楼(ぼうろう)部を載(の)せた形式ですが、梁行(はりゆき)に対し桁行(けたゆき)(建物を上から見た時に、建物の短辺に使われているのが「梁」、長辺に使われているのが「桁」です)が2倍近くあるため、東西と南北では、まったく異(こと)なる印象(いんしょう)を与(あた)えています。同様な構造(こうぞう)を持つのは、岡山城(岡山県岡山市)天守です。

彦根城、天守
天守東西面は、南北面に比較(ひかく)し幅(はば)が狭(せま)く、3種の破風を巧(たく)みに配してスマートな感じを与えています

破風(はふ)の配置や窓(まど)の構造が特徴的ですので、じっくり観察(かんさつ)して見てください。三重という小規模(きぼ)な天守にかかわらず、入母屋(いりもや)破風(から)破風切妻(きりづま)破風を多く用いて、しかもお互(たが)いの破風を上手に組み合わせることで一つにまとまって見えるようにしています。さらに多くの破風によって、たくさんの軒先(のきさき)ラインが出来るため、入り組んだ形に見えますが、軒唐破風が採用(さいよう)されているため、柔(やわ)らかさが強調されて、この上なく巧みで優(すぐ)れた雰囲気になっています。この多くの破風の隙間(すきま)に、格式(かくしき)の高い華頭窓(かとうまど)廻縁(まわりえん)高欄(こうらん)を設けたことで、より華やかで格調高い姿になったのです。

通常、華頭窓は最上階のみに使用される場合が多いのですが、彦根城天守では、二・三重目に計18個の華頭窓が用いられており、他に例を見ない多さとなっているのも大きな特徴です。初重には、古式な突上戸(つきあげど)を採用するだけでなく、格子(こうし)も塗籠(ぬりごめ)とせず、下見板(したみいた)との調和を持たせている所が、心憎(にく)い気配りです。それだけでなく、突上戸の位置(高さ)がずらしてあり、左右を非対称(ひたいしょう)にすることで変化に富んだ姿を強調しています。華やかで美しさを追求した工夫をよく確認(かくにん)しその姿を堪能(たんのう)してください。

彦根城、天守
天守南北面は、東西面に比較し幅が広く安定感を感じます。5か所に華頭窓を配す特徴的な姿です

天守の構造に目を向けて見ましょう。その最大の特徴は、2箇所(かしょ)に入口施設(しせつ)がある点です。続櫓(つづきやぐら)を経由(けいゆ)して、北東隅に付設(ふせつ)された付櫓(つけやぐら)の中から入るルートは、現在の見学ルートと同様です。もう一つは、現在は出口として使用されている玄関口(げんかんぐち)から天守台の石垣内に設(もう)けられた地下室を経て、1階へと入るルートになります。こちらが本来の正式な入口でした。鍵(かぎ)の手に曲がる続櫓と付櫓は、入口の防備(ぼうび)を強固にする目的を持っていました。

彦根城、天守
天守の正式な入口は「玄関」で、続櫓を経由して付櫓へと入るのは正式なルートではありませんでした。写真右側に見える木の階段は、荷物の搬入搬出用になります

それでは、続櫓から天守の中へ入っていきましょう。続櫓を入ると左手に、引き戸から外へ続く取り外し可能(かのう)な階段(かいだん)に気がつくと思います。これは、荷物の搬入出(はんにゅうしゅつ)に利用された出入口です。続櫓から付櫓へは、階段で接続(せつぞく)しています。付櫓は天守より一段低く、中二階のような役割(やくわり)を持っていたのです。ここから天守へは、また階段を登ることになるわけです。

彦根城、天守
写真左が天守に接続した玄関になります。右が続櫓へ入る入口です。玄関の扉(とびら)が「両開き」なのに対し、続櫓は「引き戸」になっており、どちらが正式か一目で解ります

彦根城、階段
続櫓から付櫓へと続く階段になります。付櫓は、天守より一段低く、中二階のような役割を持っていました。付櫓からさらに階段を上がって天守に入ることになります

彦根城、小部屋
玄関からは、鉄扉を潜(くぐ)り、階段を上がると、天守1階の入側より一段低い東側の小部屋へと通じています。この小部屋から2階へと上がる階段が設けられています。

1階は、中央に三間×三間の身舎(もや)(部屋のことです)を2つ設け、その廻(まわ)りに幅広の入側(いりがわ)(武者走(むしゃばし)り)が設けられています。突上戸の周りに配置された、縦長(たてなが)の矢狭間(さま)、三角、四角の鉄砲(てっぽう)狭間の構造もここで確(たし)かめておきましょう。東側、地階からの階段と2階への階段が設置(せっち)された部屋は一段低くなっていますが、これは1階と同じ高さにすると、地階からの階段があまりに急傾斜(きゅうけいしゃ)となるためだと思われます。2階へと上がる階段は、約60度とそれでもかなりの急傾斜です。頭上に注意しながら、しっかり手すりに摑(つか)まって登るようにしましょう。

彦根城、天守
天守の東側に付設する一段低い踊(おど)り場を兼ねた部屋です。地階からの階段と2階への階段が設置されています。玄関からは、踊り場で曲がることなくそのまま直で2階へと続いています

彦根城、天守
写真左が1階の入側(武者走り)で、右が中央に設けられた身舎(部屋)になります

2階は、三間×三間と二間×三間の2つの部屋の廻りに入側が廻る構造で、華頭窓からの採光により、かなり明るい階となっています。

彦根城、天守
写真左が2階の入側で、右が身舎になります。1階と構造は同様で、規模のみ異なります

3階は、一間半×二間と二間半×二間の2室があり、周りが武者走りとなるのは、1、2階とほぼ同様です。各階の部屋には長押(なげし)が廻っており、部屋として使用することを目的に建てられたことが判明します。慶長年間前半には、常住(じょうじゅう)ではないにしろ天守内に居住(きょじゅう)を想定していたことも考えられる仕様になっています。最上階だけあって華頭窓越(ご)しに眺望(ちょうぼう)が開け、琵琶湖や石田三成の居城であった佐和山城が一望されます。彦根城の位置関係や、湖の水運を取り込んだ造(つく)りが判明しますので、じっくりと堪能したいですね。

彦根城、天守
身舎の周りに入側が廻る構造は、各階共通します。華頭窓からの採光で明るい階です

華頭窓から、廻縁と高欄を観察すると、格式のためだけに設置した飾(かざ)りであることがよく解ります。廻縁は四周を廻っておらず、幅も狭く、当初から外に出ることを想定しない、飾りのための施設であることが、はっきりと解ります。彦根城天守は、その外観が極めて特徴的で、工夫されていることが解っていただけましたか。大隈重信が一目見て残そうとした理由が、伝わる魅力的な天守です。

彦根城、天守
下から望んだ天守。下見板は直接石垣の上から立ち上がらず、根太の上に乗っています。最下段を腰屋根状(こしやねじょう)に突出(とっしゅつ)させることで、雨水の侵入(しんにゅう)を防いでいます。下見板と突上戸を接続させることで、より黒色が下部に多く見え、安定感をもたらしています

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※破風(はふ)
切妻造(きりづまづくり)や入母屋造(いりもやづくり)の屋根の妻側(つまがわ)に見られる端部(たんぶ)のことです。破風には、入母屋破風、切妻破風、千鳥(ちどり)破風、唐(から)破風などがあります。

※入母屋破風(いりもやはふ)
入母屋造の屋根に付く破風です。屋根の隅棟(すみむね)に接続し二等辺三角形のような形をした破風です。

※唐破風(からはふ)
軒先の一部を丸く持ち上げて造った「軒(のき)唐破風」と、屋根自体を丸く造った「向(むかい)唐破風」とがあります。もとは神社建築に多く使用された装飾(そうしょく)性の高い破風でした。

※切妻破風(きりづまはふ)
切妻造の建物の屋根に必ずできる破風で、三角形をしています。三角形の屋根の端(はし)を軒先まで出っ張(ぱ)らせたもので、1階に設けられた出窓の上に付けることが多く見られます。

※華頭窓(かとうまど)
鎌倉(かまくら)時代に、禅宗(ぜんしゅう)寺院の建築とともに、中国から伝来したもので、上枠(わく)を火炎(かえん)形(火灯曲線)または、花形(花頭曲線)に造った特殊(とくしゅ)な窓のことです。

※廻縁(まわりえん)
建物の周囲(しゅうい)に廻らされた縁側(えんがわ)のことです。建物の本体の周りに短い柱を立て並(なら)べ、それで縁側の板を支えた物です。天守の最上階に用いられることが多い施設です。

※高欄(こうらん)
廻縁からの転落を防止(ぼうし)するために手すりを付けますが、高級な造りの手すりであったため、高欄とか欄干(らんかん)と呼(よ)びました。

※突上戸(つきあげど)
軽くて薄(うす)い板製(せい)の戸(板戸)を鴨居(かもい)に蝶番(ちょうつがい)または壺金(つぼがね)で取り付け、閉(と)じる時は垂(た)れ下げ、開ける時は棒(ぼう)で跳(は)ね上げて、そのまま棒で突っ張って開けておく戸のことです。

続櫓(つづきやぐら)
天守以外の櫓や城門に接続したものの櫓を「続櫓」と呼びます。長い櫓は「多門櫓」といいます。天守以外に接続した長い櫓は、多門櫓あるいは続櫓、どちらで呼んでも間違いではありません。

※付櫓(つけやぐら)
本来は天守に続く櫓のことです。附櫓とも書くこともあります。天守と接続する例が多く見られますが、渡櫓(わたりやぐら)によって接続する天守もあります。

※身舎(もや)
主要な柱に囲まれた建物の中心部分となる部屋のことです。周りには、回廊(かいろう)(入側)が廻ることが多く見られます。

※入側(いりがわ)
縁側(えんがわ)と座敷(ざしき)の間にある通路のことを指し、外部と内部をつなげるための空間です。 主に人が通るための廊下としての役割を果たしていました。 縁側と同じように扱われますが、入側自体は、外ではなく室内にあたります。

※狭間(さま)
城内から敵を攻撃(こうげき)するために、建物や塀(へい)、石垣に設けられた四角形や円形の小窓のことです。縦長は、鉄砲・弓矢両用、四角・丸・三角は鉄砲用です。

※長押(なげし)
書院造や神社やお寺に使う部材で、柱の表面に打ち付けられた横材のことです。窓の上と下に打ち付けて、見栄えを良くしました。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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