理文先生のお城がっこう 城歩き編 第55回 国宝天守に行こう④姫路城そのⅠ

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。これまでの天守の構造についての解説をふまえて、全国に5つしかない国宝天守をもつ名城を1つずつピックアップして具体的に紹介します。第4弾は姫路城(兵庫県姫路市)です。姫路城の天守といえば白亜の外観が真っ先に思い浮かびますが、実はよく観察すると、角度によって異なった姿に見えるのです。その理由を、姫路城の構造に注目しながら見ていきましょう。

JR姫路(ひめじ)駅に近づくと、その北側に真っ白で堂々(どうどう)とした城の姿(すがた)が飛び込(こ)んで来ます。姫路城は、市街地の中に浮(う)かぶように堀(ほり)に囲(かこ)まれた台地の上に位置し、周囲(しゅうい)には公園が広がり、周辺に高層(こうそう)建築(けんちく)も見られず、景観まで含(ふく)め日本一の城と呼ぶに相応(ふさわ)しい姿をしています。世界文化遺産(いさん)として認定(にんてい)された我(わ)が国唯一の城であり、数多くの櫓(やぐら)・門・土塀(どべい)が当時のままの姿を留(とど)めています。こうした多くの建物や石垣(いしがき)が、互(たが)いに組み合わさって出来た美しさが、姫路城の最大の魅力(みりょく)となっています。今回は、その中心である「天守」をじっくり観察してみましょう。

姫路城天守
JR姫路駅から北へ真っすぐ伸びる大手前通りは、常に姫路城天守が正面に見えています。

城の歴史

天正5年(1577)、織田信長(おだのぶなが)より山陽・山陰地方の平定を命じられた羽柴秀吉(はしばひでよし)に対し、播磨(はりま)の黒田官兵衛(くろだかんべえ)がその拠点(きょてん)とするためにと姫路城を差し出すことを申し出ました。秀吉は、城の強化を行い、現在(げんざい)の天守が築(きず)かれている場所に三重天守、周囲を石垣で囲んで城を整備(せいび)したといわれています。姫路の地は、近くに瀬戸内海(せとないかい)が広がり、山陽道が通るなど、陸上と海上の交通の大事な場所だったからに他なりません。

慶長(けいちょう)5年(1600)の関ヶ原合戦後、この大切な場所の支配(しはい)をまかされて城主になったのは、徳川家康(とくがわいえやす)の娘(むすめ)を嫁(よめ)にもらった池田輝政(いけだてるまさ)でした。その石高(こくだか)は、52万石と並(なみ)外れて多かったため、「西国将軍(しょうぐん)」とも呼(よ)ばれました。輝政は、9年もの歳月(さいげつ)を使って秀吉が築いた城の大改修(だいかいしゅう)を実施(じっし)しました。関ヶ原の戦いの後で、西国に領地(りょうち)を与(あた)えられた外様(とざま)大名たちが、自由に行動できないようにと見張(は)るための前線基地(きち)となる城だったのです。白亜(はくあ)に輝(かがや)く外観から「白鷺(しらさぎ)城」と呼ばれ、上品な美しさと華(はな)やかな姿で有名ですが、実は戦いに備(そな)えた極めて軍事的な部分も強く、実際(じっさい)の戦闘(せんとう)に備えた準備(じゅんび)もおこたりない城だったのです。

城郭(じょうかく)の中心となる大切な所は、天守を中心に据(す)え、地形の高い所と低い所の差をうまく利用して、石垣や土塀を設(もう)けていました。東北部に偏(かたよ)っている中心部の守りを強固にするため、西側、南側へ階段(かいだん)のようにたくさん曲輪(くるわ)を設けていました。それだけでなく、石垣と土塀の配置で通路を制限(せいげん)して、重要な場所に構えた門や櫓が、至(いた)る所から側面攻撃(こうげき)が出来るような工夫を凝(こ)らしていたのです。元和(げんな)3年(1617)に池田氏に替(か)わって城主となった本多忠政(ほんだただまさ)が三の丸と西の丸に御殿(ごてん)を築き、周辺整備を行ったことによって、現在ある城の姿が出来上がったのです。

姫路城、西の丸
池田輝政が完成させた段階では、西の丸は現在のような姿ではありませんでした。現在見られる西の丸は、元和3年に城主となった本多氏によって完成しました

天守の姿

現存(げんぞん)する国内最大の五重七階の大天守(石垣を含め高さ約46m)は、東・乾(いぬい)・西小天守(こてんしゅ)を、イ・ロ・ハ・ニの4つの渡櫓(わたりやぐら)で繋(つな)いだ当時最先端(さいせんたん)をいく連立式(れんりつしき)天守です。その姿かたちを見てみましょう。

大天守正面は、二重目に巨大(きょだい)出格子窓(でごうしまど)を置いて、その上に軒(のき)唐破風(からはふ)を配したことで、風格(ふうかく)が増(ま)しています。さらに、三重目屋根に比翼入母屋破風(ひよくいりもやはふ)、四重目に千鳥破風(ちどりはふ)、最上階に軒唐破風を設け、変化を持たせています。西小天守の唐破風と華頭窓(かとうまど)が接続(せつぞく)することで上品で美しい姿が組み込まれることになり、何とも言えない味わいと美しさを生むことになったのです。天守群の美しさは、白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりごめ)の白亜の姿は言うまでもありませんが、唐破風と華頭窓という伝統(でんとう)や品位が感じられる装飾(そうしょく)の配置にも注目してください。じっくりと破風(はふ)や窓の配置に目をくばり、その上品で美しい姿を満足するまで楽しみたいですね。

姫路城、天守
姫路城天守の構造。大天守を南東隅(すみ)に置き、北側裏(うら)に東小天守、西に西小天守、さらに西北隅に乾小天守を配置し、それを渡櫓で結んだことによって、複雑(ふくざつ)な構造(こうぞう)美が生まれました

連立天守が生む美しい造形

大天守の周りに置かれた3基(き)の小天守を4つの渡櫓によって繋いでいることで、見る角度によって、まったく違(ちが)った姿を見せてくれます。様々な角度から、変化に富んだ天守群を眺(なが)めることも、姫路城を訪(おとず)れる楽しみの一つです。

正面は、大手門が位置する南から見た姿になります。ところが、明治32年(1899)に発行された『沿革考証 姫路名勝誌』では「この城は南に背(せ)を向け北に面しているので、その美しい景観は北から望むのが良い。思うに、昔は国道が城の北側にあったためであろう。」と、姫路城は北が正面と書かれています。城は、通常大手口が正面になりますので、北が正面ということはありません。それなのに、こうしたことが書かれるくらい、様々な角度から天守が美しく見えるということではないでしょうか。

それでは、東西南北から天守の姿はどう見えるのでしょうか。まずは、大手門を入った付近からの天守です。こちらが正面から見た姿で、大天守の隣(となり)に西小天守が並(なら)んで見え、手前にチの櫓、リの渡櫓が並んで見えます。正面から見た姿であり、石垣の上に建つ大天守の全景が見えますので、姫路城といえばここから見た角度の写真が最も一般的(いっぱんてき)に使用されています。ここからの写真が、姫路城のイメージと思っている人が多いのではないでしょうか。大天守の全容(ぜんよう)が見えるのもこの角度です。

姫路城、華頭窓
華頭窓を大天守ではなく西小天守に配したことで、大天守の端正(たんせい)な姿が強調されると共に、全体で品格(ひんかく)の高さを感じます。まさに、この向きこそが正面に相応しいと言えるでしょう。

次に、東から天守を見てみましょう。姫路市立美術館(びじゅつかん)付近から見た姿が、真東になります。イの渡櫓を挟(はさ)んで大天守と東小天守が並んで見えますが、正面から見たドッシリ感は影(かげ)をひそめ、スマートな姿で上に伸びています。これは、姫路城天守が東西に幅(はば)が広く、南北は狭い長方形になっているために起こる現象(げんしょう)です。

姫路城、軒唐破風
二重目屋根の大入母屋破風の上下に軒唐破風を配したことで、細身の外観に柔(やわ)らかさを持たせています。初重に出格子窓(でごうしまど)と石落しを設けたことで、下層(そう)の重厚感(じゅうこうかん)を生み出しています

それでは、こちらが正面と言う人もいる北側から眺めて見ましょう。シロトピア記念公園あたりから見た姿です。手前の左側に東小天守、右側に乾小天守があり、それを繋ぐロの渡櫓の上に、大天守の3階より上部が顔を出し、まるで連なった一つの建物のように見えます。こちら側も東西面になりますので、大天守は幅広に見えますが、その全容を見ることはできませんので、どっしりとした感じは薄(うす)くなっています。
姫路城、軒唐破風、出格子窓
長いロの渡櫓が連なる単調な外観を、初重の出格子窓と軒唐破風がアクセントとなり、さらに乾小天守、東小天守の屋根の向きの違いと破風の違いによって、変化をもたらしています

西側から天守を眺めると、手前に乾小天守、西小天守がハの渡櫓で繋がり、乾小天守が西小天守より高いのが解(わか)ります。南北面ですので、大天守はスマートで、重々しいイメージではなく、建物が連なった美しさを感じます。土塀や坂道も見え、城の高低差がよく解りますので、西の丸から眺めた姿も、よく紹介されています。

姫路城、乾小天守、西小天守
乾小天守と西小天守最上階の向きの違い、破風の大小、窓の違い、さらに大天守との重なりが生む三角形の頂点(ちょうてん)の連続がよりスマートな外観を引き立て、見事な美しさとなっています

西の丸を南側へ向かって行くと土塀越しに天守群の姿が見えてきます。天守群を斜めから見るため、どっしりとした感じと折り重なる天守と小天守・渡櫓を見ることが出来ます。そのため、よくポスターなどに使われています。

姫路城、乾小天守、西小天守
真西から見たスマートさは影を潜め、乾小天守とハの渡櫓の折れ、西小天守と大天守の重なりの違いによって、大きな広がりを感じるだけでなく、微妙に破風の位置、華頭窓の見え方が異なることで、その構成美が一層引き立つ角度です

近くから見た天守の大きさにも圧倒(あっとう)されますが、遠くから天守の姿を眺められるのも姫路城の良いところです。お城の周りをぐるっと散策(さんさく)すると、いろいろな場所で様々な角度をした天守群を見ることがでます。また、春と夏、秋と冬では、同じ場所なのにまったく違ったイメージを持つ景色が楽しめます。

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※土塀(どべい)
(ほね)組みのあるものと、ないものとがありますが、どちらも小さな屋根を葺(ふ)き、用途(ようと)に応(おう)じて狭間(さま)が切られました。骨組みのある土塀は、木材で骨組みを造って土壁の要領(ようりょう)で小舞(こまい)(竹の格子)を編(あ)んでその上に壁土を塗って仕上げています。こうした土塀は控(ひか)え柱や控え塀を伴(ともな)うことが多く、独立(どくりつ)していませんでした。骨組みのない土塀は、壁土(へきど)の中に使用済(ず)みの瓦(かわら)や小石、砂利(じゃり)などを入れて固めたものが主流です。「練塀(ねりべい)」や「太鼓塀(たいこべい)」とも呼ばれました。

※小天守(こてんしゅ・しょうてんしゅ)
天守に付属(ふぞく)する櫓のうちで、最上階が天守本体と離(はな)れて独立(どくりつ)している建物を小天守と言います。小天守は1基とは限(かぎ)りません。姫路城には3基の小天守が付設しています。

※渡櫓(わたりやぐら)
左右の石垣の上に渡(わた)して建てられた櫓のことです。または、石垣上に長く続く櫓や、櫓と天守あるいは櫓と櫓の間に建てられた接続目的の櫓のことです。

※連立式天守(れんりつしきてんしゅ)
天守・小天守・櫓を四方に配置し、渡櫓でつなぐ形式をいいます。 建物で仕切られた中庭ができるのが特徴(とくちょう)で、防備に最も優(すぐ)れた厳重(げんじゅう)な構造と言われています。

出格子窓(でごうしまど)
窓枠に、角材を縦横(たてよこ)の格子状(じょう)に組み上げた窓を格子窓と言います。中間に補強(ほきょう)用の水平材が入らずに、角材を縦方向に並べたものは、本来連子窓(れんじまど)と言いますが、現在は格子窓と呼ばれています。その格子窓を建物から突出(とっしゅつ)するように設けた窓のことを出格子窓と呼んでいます。死角を補(おぎな)ったり、横矢を掛(か)けたりする目的と共に、下部を石落しとするケースも見られます。

※破風(はふ)
切妻造(きりづまづくり)や入母屋造(いりもやづくり)の屋根の妻側(つまがわ)に見られる端部(たんぶ)のことです。破風には、入母屋破風、切妻破風、千鳥(ちどり)破風、唐(から)破風などがあります。

※唐破風(からはふ)
(のき)先の一部を丸く持ち上げて造(つく)った「軒唐破風」と、屋根自体を丸く造った「向(むかい)唐破風」とがあります。もとは神社建築に多く使用された装飾性の高い破風でした。

比翼入母屋破風(ひよくいりもやはふ)
屋根の隅棟に接続し二等辺三角形のような形をした破風で、入母屋造の屋根に付きます。この破風を二つ並べて用いた場合、比翼入母屋破風と呼びます。

※千鳥破風(ちどりはふ)
屋根の上に載(の)せた三角形の出窓で、装飾や明るさを確保するために設けられたものです。屋根の上に置くだけで、どこにでも造ることができます。2つ並べたものを「比翼(ひよく)千鳥破風」と言います。

※華頭窓(かとうまど)
鎌倉(かまくら)時代に、禅宗(ぜんしゅう)寺院の建築と共に中国から伝来したもので、上枠(わく)を火炎形(火灯曲線)または花形(花頭曲線)に造った特殊(とくしゅ)な窓のことです。

※白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりごめ)
軒下から壁(かべ)に至るまですべての露出面(表側に出ている箇所(かしょ)のことです)を漆喰で塗り固めると「総塗籠」と言い、白漆喰で塗り固めた場合は「白漆喰総塗籠」と呼んでいます。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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