理文先生のお城がっこう 城歩き編 第56回 国宝天守に行こう⑤姫路城そのⅡ

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。これまでの天守の構造についての解説をふまえて、全国に5つしかない国宝天守をもつ名城を一城ずつピックアップして具体的に紹介します。今回も前回に引き続いて姫路城(兵庫県姫路市)です。前回は外観を中心に天守の特徴を見ていきましたが、今回は各階ごとに内部の構造を見学ポイントも交えて詳しく説明します。

現存(げんぞん)する国内最大の五重七階の大天守(だいてんしゅ)(石垣(いしがき)を含(ふく)め高さ約46m)は、東・乾(いぬい)・西小天守を、イ・ロ・ハ・ニの4つの渡櫓(わたりやぐら)で繋(つな)いだ当時最先端(さいせんたん)をいく連立式(れんりつしき)天守です。4つの渡櫓を付属(ふぞく)させたことで、見る角度によって、まったく違(ちが)った姿(すがた)を見せてくれます。様々な角度から、変化に富んだ天守群を眺(なが)めることも、姫路城(兵庫県姫路市)(おとず)れる楽しみの一つだとわかったでしょうか。今回は、大天守の内部を見ていきたいと思います。

正面から見た天守群

もう一度、詳(くわ)しく外観の美しさの秘密(ひみつ)に迫(せま)ってみましょう。大天守正面は、二重目に巨大(きょだい)出格子窓(でごうしまど)軒唐破風(のきからはふ)を設(もう)けることで、風格(ふうかく)のあるどっしりとした感じが増しました。さらに、三重目屋根に比翼千鳥破風(ひよくちどりはふ)、四重目に千鳥破風、最上階に軒唐破風を設け、変化を持たせることで、華(はな)やかな雰囲気(ふんいき)を生み出すことに成功したのです。それだけではありません。唐破風と華頭窓(かとうまど)で飾られた西小天守が接続(せつぞく)することで優雅(ゆうが)さまでもが組み込(こ)まれることになり、さまざまな形が混(ま)じりあって、一層(いっそう)美しさを引き出すようになったのです。

姫路城、天守
この白亜(はくあ)の姿こそが、姫路城最大の魅力(みりょく)です。三重目屋根に比翼千鳥破風、四重目に千鳥破風を置くことで、三角形の頂点(ちょうてん)を上部に集め、それを唐破風で和らげています

当然のことですが、天守群を美しく見せている最大の要因(よういん)は、軒下(のきした)から壁(かべ)に至(いた)るまで表側に出ている箇所(かしょ)のすべてを漆喰(しっくい)で塗(ぬ)り固めた柔(やわ)らかな白い姿であることは言うまでもありません。それに、伝統(でんとう)や品位が感じられる唐破風と華頭窓の使い方にあります。じっくりと、破風や窓(まど)の配置に目をくばり、その優雅な姿をじっくり鑑賞(かんしょう)してください。また、天守の下から屋根裏(うら)を仰(あお)ぎ見ると、三角形に塗り込められた連続する方杖(ほうずえ)によって支えられていることが解(わか)ります。この方杖も、独自の美しさを造(つく)り出すことに役立っていますが、見落としがちですので、よく探してみてください。

姫路城、天守
白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりごめ)の屋根裏は、非常に変化に富んでいます。中でも、三角形の方杖がアクセントを生んでいます。袴腰型石落しの開口部が見えることが、アクセントになっています

石落(おと)しの形にも注意してみてください。袴腰型(はかまごしがた)と呼(よ)ばれ、階の中央部に石落しの開口部があります。通常(つうじょう)の石落しは、石垣(いしがき)とほぼ平行になる箇所に開口部がついています。ところが、姫路城は、大部分が壁面(へきめん)中央部に開口部があるのです。中央で止めることで、変化が生まれ、独自(どくじ)の美しさを生み出すことに成功した例です。

国宝と重要文化財(旧国宝)

国宝(こくほう)に指定されているのは、大天守、西小天守、乾小天守、東小天守、イ・ロ・ハ・ニの渡櫓で、それぞれを単独(たんどく)の一件として指定されているため、数としては5件(けん)で8棟(むね)になります。

重要文化財(ざい)(旧国宝)は、イの渡櫓等の「櫓」が27棟、菱(ひし)の門等「城門」が15棟、との四門東方土塀(とのしもんとうほうどべい)等の「土塀」が32棟の合計74棟を数え、我(わ)が国で最も多い国宝・重要文化財をかかえる建造物になります。現在(げんざい)の文化財保護(ほご)法下の中で、特に天守群が日本の城の中でも極めて貴重(きちょう)で価値(かち)が高いという判断(はんだん)がなされて、5件が国宝に指定されたのです。国宝と重要文化財に差があるわけではなく、重要文化財指定の姫路城建築(けんちく)群の中で、天守群が最も城の特徴(とくちょう)を示(しめ)す象徴(しょうちょう)であるため国宝指定を受けたと理解(りかい)するのが良いと思います。

昭和6年(1931)の旧の文化財保護法の下での国宝に指定された理由を抜粋(ばっすい)してみたいと思います。天守群は、「五重の大天守及(およ)び三重の小天守を渡櫓を以(も)って連結し、高き石垣の上に建っている。形勢雄大(けいせいゆうだい)にして結構(けっこう)また壮麗(そうれい)、実に現存天守中最も完備(かんび)し、最も傑出(けっしゅつ)せるものの一つである。」とのことで、他の建築群は、「大小の櫓、渡櫓、門より土塀に至るまで、割合(わりあい)によく保存(ほぞん)され、我が国における城郭(じょうかく)建築の制度を徴すべき現存唯一(ゆいいつ)の代表的実例となっている。」とされ、姫路城が我が国の城郭建築本来の姿を最も留(とど)める城であったための指定であったことが解ります。

天守内部の構造

天守への通路は、西側乾小天守の下にある水一門から始まり、二、三、四と通り、水五門が連立天守の入口となっています。そして、水六門を抜(ぬ)けると大天守の中に入れるという非常(ひじょう)に厳重(げんじゅう)な構造(こうぞう)となっています。特に、水五門は渡櫓の下の部分を開口した造りで、柱も扉(とびら)も全てに鉄の板が張(は)られており頑丈(がんじょう)で、頭の上には塵落(ちりおとし)(石落しの別称(べっしょう)です)が配され、門に入ろうとする敵(てき)に備(そな)えています。

姫路城、天守、水五門
「水五門」は、下部の扉部分をすべて鉄板張りとする厳重な構えです。天守に至るまで、様々な工夫を凝(こ)らした門が待ち構え、敵兵の侵攻(しんこう)に備えていました

地階は、中庭に面して多くの窓を開け、鉄砲(てっぽう)を撃(う)った後の煙(けむ)り出し用の高窓まで設けていますが、自然に光が入って来るには窓が小さく薄(うす)暗い階になっています。籠城(ろうじょう)戦に備え、「流し台」と6個の雪隠(せっちん)(トイレです)が設けられてもいます。

姫路城、天守、流し台、雪隠
左が「流し台」、右が「雪隠」です。籠城戦のための備えと言われていますが、雪隠が使用された形跡(けいせき)は無かったそうです

扉はいずれも厳重で、土製(せい)の防火用の扉と鉄板張の扉の二重構造と成っていますので、しっかりと確認してみてください。

姫路城、天守、防火扉
天守への入口を固める門は、外側が鉄板張り、内側が土壁の防火扉です。分厚(ぶあつ)い頑丈(がんじょう)な扉で、侵入者が簡単に入れないようにすると共に、防火(ぼうか)対策(たいさく)も兼(か)ねた扉でした

1階と2階は、ほぼ同じ構造で周囲に幅(はば)二間の入側(いりがわ)(武者(むしゃ)走り)を設けることで、窓側の容易(ようい)な移動(いどう)を可能(かのう)にしています。

姫路城、天守、武者走り
1・2階に設けられた幅二間(約3.6m)の入側(武者走り)は、非常に広く容易な移動が可能でした。また、壁面の「武具掛け」には、常に鉄砲や槍が常備され、素早(すばや)い対応(たいおう)が可能でした

入側の内側には、鉄砲や槍(やり)を掛(か)け並べるための武具掛けや、火縄(ひなわ)や火薬を吊(つ)るしたと思われる竹釘(くぎ)やL字の釘が上部横木に打ち付けられています。鉄砲掛けは天守全体で605挺(ちょう)分を数え、鉄砲を使用した後のこもった煙を抜(ぬ)くための高窓も129箇所に配されていました。1階から2階の渡櫓へと続く扉も二重構造の厳重な構えで、閂(かんぬき)によって閉(と)ざされています。高窓や、竹釘やL字の釘は頭の上にあるため、割と見落としがちです。よく探してみると意外にあちこちにあり、その多さに気付くはずです。

姫路城、天守、武具掛け
「武具掛け」と上部の「L字の釘」

姫路城、天守、武具掛け
本来、武具掛けには写真のように鉄砲や槍が常備されており、上部のL字の釘や竹釘には、すぐに鉄砲が使用できるように火縄や火薬を吊るしていたと考えられています

3階は、最も天井までの階高(かいだか)が高く、大入母屋(おおいりもや)屋根の上に乗る望楼(ぼうろう)部となるため平面規模(きぼ)は小さくなります。南面の中央部と北面の入側の全体を中2階とし、武者走りを設置(せっち)しています。東西の大千鳥破風の屋根裏部分には、隙間(すきま)を利用した部屋を設け、万が一の時の武者隠(かく)しと言われていますが、明かりを取るための機能(きのう)も持っていました。階高の高さを利用し、様々な中2階が各所に配されており、極めて変化に富んだ階となっています。

姫路城、天守、三階
3階は、1・2階と比較し、極めて天井が高くなっています。また、格子(こうし)が内陣(ないじん)を取り囲(かこ)み、その中央に2本の心柱があります。武者隠しや石内棚など、防衛上の工夫も多い階です

4階は、望楼部ですが入母屋屋根の上に出る階となり非常に明るい階です。床(ゆか)面と窓の位置に高低差があるため、「石打棚(いしうちだな)」と呼ばれる武者台(むしゃだい)が四方に配されています。南北面の比翼千鳥破風内部は、採光(さいこう)のための格子窓が開けられており、ここからの光によって内部の明るさが増しています。

姫路城、天守、4階
4階は、窓の位置が高すぎて外が見えないため、これを補(おぎな)うために東西南北の四面に石打棚(階段付きの高台)が設けられています。また、武者走りがなくなりひとつの広間となっています

5階は、最上階に至る前の前室的な部分で、4階までと異(こと)なり戦闘(せんとう)的な特徴(とくちょう)は見られません。最上階は、四周に入側を設けた一室のみの構造で、身舎(もや)(部屋のことです)は一段(だん)高くなっています。金具類も装飾(そうしょく)が施(ほどこ)され、細い木材を平行に渡した棹縁天井(さおぶちてんじょう)となっており、全体的に座敷(ざしき)風の趣(おもむき)を持った階となっています。

姫路城、天守、最上階
大天守は最上階のみ書院風に造られており、内陣の床面の方が少し高く、天井が設けられています。廻縁(まわりえん)はありませんが、室内に取り入れられているタイプといっていいかもしれません。周囲を囲む廻縁は、南側と東西側は広く、北側のみ狭(せま)くなっています

また、近代になってこの場所に移された長壁(おさかべ)神社が鎮座(ちんざ)しています。姫路刑部(おさかべ)大神は延喜式(えんぎしき)に、富姫神は播磨国大小明神社記(はりまこくだいしょうみょうじんじゃき)に記され、古代より姫山に鎮座された由緒ある地主神です。池田輝政(いけだてるまさ)が、城内の「との三門」の高台に祀(まつ)り、歴代城主は手厚く祀り続けてきました。寛延(かんえん)元年(1748)松平明矩(まつだいらあきのり)の時に、名前が長壁神社に改められました。

姫路城、天守、長壁神社
長壁神社は、播磨総社境内(けいだい)、旧城下町の立町、この大天守最上階の3か所に鎮座しています。城の搦手(からめて)道にあたる「との一門」虎口(こぐち)の裏手(城の鬼門(きもん))に長壁神社がもともとあった場所を示す石碑(せきひ)が建てられています。最上階に祀られたのは、明治12年(1879)のことです。

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※渡櫓(わたりやぐら)
左右の石垣の上に渡して建てられた櫓のことです。または、石垣上に長く続く櫓や、櫓と天守あるいは櫓と櫓の間に建てられた接続目的の櫓のことです。

※連立式天守(れんりつしきてんしゅ)
天守・小天守・櫓を四方に配置し、渡櫓でつなぐ形式をいいます。 建物で仕切られた中庭ができるのが特徴で、防備に最も優(すぐ)れた厳重な構造と言われています。

出格子窓(でごうしまど)
窓枠(わく)に、角材を縦横(たてよこ)の格子状(じょう)に組み上げた窓を格子窓と言います。中間に補強(ほきょう)用の水平材が入らずに、角材を縦方向に並(なら)べたものは、本来連子窓(れんじまど)と言いますが、現在は格子窓と呼ばれています。その格子窓を建物から突出(とっしゅつ)するように設けた窓のことを出格子窓とよんでいます。死角を補ったり、横矢を掛(か)けたりする目的と共に、下部を石落しとするケースも見られます。

※唐破風(からはふ)
軒先の一部を丸く持ち上げて造った「軒(のき)唐破風」と、屋根自体を丸く造った「向(むかい)唐破風」とがあります。もとは神社建築に多く使用された装飾性の高い破風でした。

※比翼千鳥破風(ひよくちどりはふ)
屋根の上に載せた三角形の出窓で、装飾や明るさを確保するために設けられたものです。屋根の上に置くだけで、どこにでも造ることができます。2つ並べたものを「比翼千鳥破風」と言います。

※華頭窓(かとうまど)
鎌倉(かまくら)時代に、禅宗(ぜんしゅう)寺院の建築とともに中国から伝来したもので、上枠を火炎形(火灯曲線)または、花形(花頭曲線)に造った特殊(とくしゅ)な窓のことです。

方杖(ほうづえ)
垂直(すいちょく)材と水平材がつくる隅の部分を固めるために材の中間から中間を斜(なな)めに入れられる部材のことです。

袴腰型石落(はかまごしがたいしおとし)
石落しの一種で、その形状が衣服の袴の後ろの腰にあたる部分の袴腰、または寺院建築の鐘楼(しょうろう)や鼓楼(ころう)の下部の末広がりの袴腰に似(に)ているため、袴腰型と呼ばれています。

塵落(ちりおとし)
石落しの別称です。天守や櫓、土塀などに設けられた防御施設です。建物の一部を石垣から張り出させ、その下部の穴から弓や鉄砲などで攻撃(こうげき)しました

※入側(いりがわ)
縁側(えんがわ)と座敷の間にある通路のことを指し、外部と内部をつなげるための空間です。 主に人が通るための廊下(ろうか)としての役割(やくわり)を果たしていました。 縁側と同じように扱(あつか)われますが、入側自体は外ではなく室内にあたります。

※石打棚(いしうちだな)
城外の敵を攻撃するなどの場合に、上に乗って応戦をする台のことです。高い場所に窓が位置する場合に設けられました。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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