理文先生のお城がっこう 城歩き編 第57回 国宝天守に行こう⑥松江城そのⅠ

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。これまでの天守の構造についての解説をふまえて、全国に5つしかない国宝天守をもつ名城を1つずつピックアップして具体的に紹介します。今回は松江城(島根県松江市)です。松江城が国宝に指定されるまでの歴史を、その価値が認められたポイントを交えて見ていきましょう。

平成27年(2015)、松江城天守は城の建築(けんちく)として、実に63年ぶりに国宝(こくほう)に指定されました。我(わ)が国に昔の形のままで残っている天守建築は、わずか12城しかありません。その中で、国宝天守は5城だけです。

松江城天守は、標高29mの亀田山(かめだやま)の最高所に位置し、天守最上層(そう)からは宍道湖(しんじこ)まで見渡(わた)すことができます。今回は、なぜ松江城天守が国宝に指定されたかをまとめていきたいと思います。

松江城天守
5番目の「国宝」に指定された松江城天守

天守の保存と重要文化財へ

江戸(えど)時代、松江城が建っていた松江の地は、出雲(いずも)地方の政治(せいじ)経済(けいざい)の中心でした。明治4年(1871)、廃藩置県(はいはんちけん)により、三の丸には松江県庁(けんちょう)が置かれましたが、同6年陸軍省広島鎮台(ちんだい)(第五軍管区)に属(ぞく)すことになります。同8年、陸軍省は古くなり役に立たなくなった天守と9基(き)の櫓(やぐら)を払(はら)い下げるために入札(にゅうさつ)(最も高い金額(きんがく)で買ってくれる人を決めるための方法です)を実施しました。この入札で、天守は180円(現在(げんざい)の価格(かかく)にするとおよそ120万円くらいです)、櫓は4~5円で落札(買い取る権利(けんり)を得ることです)されました。

松江城古写真
松江城古写真(明治8年以前)。二の丸には、御門(ごもん)、東の櫓、太鼓(たいこ)櫓、中櫓、南櫓、御月見(おつきみ)櫓等が落札されることになりました。天守以外は、明治8年に取り壊(こわ)されました(松江歴史館蔵)

だが、地元の豪商(ごうしょう)(多くの利益(りえき)を得(え)ている大商人のことです)である勝部本右衛門(かつべもとえもん)栄忠(しげただ)、景浜(かげはま)親子と、旧(きゅう)松江藩士(はんし)の高城権八(たかぎごんぱち)たちが、天守が無くなってしまうことを惜しみ、広島鎮台の関係者に「落札金額と同額を用意するので、天守だけでも残してほしい」とお願いします。軍部は、払い下げ金と同額の金180円を国に納(おさ)めてくれるなら天守をそのまま残しても良いと言ってくれました。

勝部家は、松江藩から銅山(どうざん)の経営(けいえい)を任(まか)された豪農で、7代栄忠は和歌(わか)や茶道、書画をたしなむ文化人で、8代景浜も社会文化に貢献(こうけん)する事業家でした。銅山方役人であった権八は、仕事を通して知り合いだった栄忠らに呼(よ)び掛(か)け、落札金額と同額を納めたといいます。その成果もあり、松江城天守は解体(かいたい)されることなく残されましたが、櫓などは解体されてしまいました。

その後、陸軍省は広大な規模(きぼ)の城地の維持(いじ)管理ができず、「土地荒廃(こうはい)し昔日(せきじつ)の観を失った」と記録されるほどになります。そこで、同23年、陸軍省は城地一帯を旧藩主松平家に4,500円で払い下げました。松平家は城山事務所(じむしょ)を開設(かいせつ)し、天守に番をして見守るための看守(かんしゅ)を置くだけでなく、城跡(しろあと)を公園として管理する園丁(えんちょう)を置いて、城を公園として活用していくことになります。この間、島根県知事は天守閣旧観維持会(てんしゅかくきゅうかんいじかい)を組織(そしき)し修理(しゅうり)を実施しています。

松江城古写真
松江城天守古写真(明治25年8月から明治27年6月頃)。明治27年に行われた大修繕(しゅうぜん)前の様子を撮影(さつえい)したとみられる天守の姿(すがた)です(松江歴史館蔵)

昭和2年(1927)、松平家が天守及(およ)び城地を市に寄付(きふ)、城跡は公園にすることになります。翌(よく)年、松江市は「天守登閣者心得(てんしゅとかくしゃこころえ)」と「松江市公園使用料条例及公園管理規則」を制定(せいてい)して、「城山公園」と名付け松江城跡を市民に開放し、公園の管理を始めることになりました。やがて城山公園は、二之(の)丸下ノ段を中心に、運動場や弓道場、相撲場などが整備され、椿谷(つばきだに)にはテニスコートも設(もう)けられ、園路や橋なども整備(せいび)されていくことになります。残された天守は、昭和10年(1935)に国宝保存(ほぞん)法により国宝に指定されましたが、戦後の新文化財(ざい)保護法施工(しこう)で基準(きじゅん)が変わり、昭和25年(1950)に重要文化財となったのです。

松江城山公園設計図
松江城山公園設計図(「松江市城山公園改造計画設計案」付図)昭和4年(1929)(松江市蔵)

国宝指定をめざして

重要文化財となった天守は、昭和25年(1950)6月から修理工事が開始されました(昭和の解体修理)。翌年には、松江市はすでに国に国宝指定の陳情(ちんじょう)(実現を強く求める訴(うった)えのことです)を行っています。解体修理工事は昭和30年(1955)3月に完成し、完成すると同時に松江市が国に国宝指定の陳情を再(ふたた)び行っています。これは、天守の解体修理工事が完成し、江戸時代までの姿に天守が戻(もど)ったことを判断(はんだん)しての陳情であったと思われます。その後、昭和34年(1959)に松江市議会による「国宝指定の促進(そくしん)の決議」がなされ、ここでも国に陳情がなされています。こうした陳情に対して、国からは「国宝指定に足りる新たな発見が必要」との回答がありました。

松江城、二の丸櫓群
平成12年(2000)に二の丸南櫓と土塀、翌13年に二の丸中櫓と太鼓櫓と土塀(どべい)が復元され、松江城の姿が一変しました

 それから50年後の平成21年(2009)、松江市長が松江市議会で松江城国宝化に向けての市民運動を呼び起こして盛(も)り上げる雰囲気(ふんいき)づくりをすることを提唱し、同年には「松江城を国宝にする松江市議会議員連盟」「松江城を国宝にする市民の会」が次々と新しく作られたのです。また、翌平成22年(2010)の市長選挙には国宝化運動が盛り込(こ)まれました。市民の会は平成22年(2010)1月から署名(しょめい)活動(賛成(さんせい)する人々の同意を集めることです)を開始し、4月までに12万人ほどの署名を集め、7月には市民の会を先頭に署名を文化庁長官に届(とど)け、国宝指定の陳情を行いました。この時、文化庁長官は「新たな知見が必要」であると文化庁が考えていることを改めて示したのです。

松江市は、平成22年(2010) 2月に「松江城国宝化推進室」を観光振興(かんこうしんこう)部に設置し、4月から専任(せんにん)職員(一つの任務だけを担当する人のことです)2名で活動を開始しました。5月には「松江城調査(ちょうさ)研究委員会」(西和夫委員長、委員12名)を新しく設けて、7月には第1回の調査研究委員会を松江市で開催しています。

調査委員会が注目したのは、昭和12年(1937)に松江城天守の実測(じっそく)調査を実施(じっし)した日本建築史の専門家として、多くの城の再建に携(たずさ)わったことで知られる城戸久(きどひさし)氏の記録でした。それによれば、天守4階に2枚(まい)祈祷札(きとうふだ)(繁栄(はんえい)と幸せを祈願(きがん)(願いを込めることです)したお札のことです)があり、1枚には「慶長(けいちょう)16年」(1611)と記されていたのを確認(かくにん)していることと、天守の『修理工事報告(ほうこく)書』にその大事なことが記述(きじゅつ)されていないのは、なぜだろうと不思議に思ったと書いているのです。

新知見と国宝指定

松江市は、新たな知見(見方や考え)にふさわしい価値(かち)がある情報(じょうほう)として、この祈祷札がどこにあるのかを探すとともに、懸賞金(けんしょうきん)をかけて広く全国から新しい情報を求めたのです。ところが、意外に早く祈祷札は発見されました。平成24年(2012)5月に、市史料(しりょう)編纂室(へんさんしつ)の職員が、松江城二の丸にある松江神社(明治10年(1878)の創建(そうけん)で、同32年(1899)城山に移されました)で調査していたところ、「慶長十六」などと墨(すみ)書きされた2枚の棟札(むなふだ)を発見したのです。神社は明治時代の創建で、棟札は明らかに時代が異なっていました。これこそが、市が探し求めていた松江城の祈祷札かもしれないと思ったのですが、札には肝心(かんじん)の松江城を表す文言は確認できませんでした。

報告を受けた西和夫委員長は、松江城天守の祈祷札と認められるには「祈祷札にある釘穴(くぎあな)と一致する釘穴のある柱を見つける必要がある」と回答することになります。松江城のものであることを証明(しょうめい)するために、釘穴やしみの跡(あと)などを調べながら柱に祈祷札を当てはめる作業に乗りだすと、意外に早く問題は解決しました。地階で目についた1本目の天守の柱に祈祷札を合わせてみると、ピタリとはまったのです。続いて、ちょうど向かい側に位置する同じ規模くらいの柱で、2枚目の札が一致することが確認されました。この結果、松江城天守が完成したのは「慶長16年」とはっきりと決まり、同時に文化庁が求める新知見の発見という条件(じょうけん)もクリアすることができました。市民らがどうしても果たしたいと願っていた「国宝指定」への道がこうして開けたのです。

松江城、祈祷札、鎮宅祈祷札、鎮物
再発見された祈祷札2枚(慶長16年正月吉祥日)、鎮宅祈祷札4枚、鎮物3点(祈祷札1、槍1、玉石1)が、附として国宝に指定されました(松江歴史館蔵)

翌年6月にはこの柱から祈祷札が打ち付けられていたことを示(しめ)す祈祷札の形をした白い跡を確認することができ、打ち付け位置がはっきりしました。この祈祷札は「慶長十六年在銘(ざいめい)松江城天守祈祷札」として、同年に松江市指定文化財となったのです。この他、天守に残されていた史料の調査を行い記録としてまとめ、翌年には「松江城天守鎮物(しずめもの)」、「松江城天守鎮宅祈祷札(ちんたくきとうふだ)」、平成28年(2016)には「塩札(松江城天守出土)」が松江市指定文化財に指定されることになりました。

松江城調査研究委員会はさらに調査を進め、城の構造(こうぞう)で2階分の通し柱を多く用いて、島根県安来市(やすぎし)にあった富田(とだ)の部材を一部使用していることなども突(つ)き止めました。中世から近世に向かう城の特徴(とくちょう)を証明し、松江城の歴史的価値をさらに高めた発見になったのです。こうして平成27年、遂(つい)に松江城天守は城郭(じょうかく)建築としては63年ぶりに国宝指定されました。国宝に指定されたのは松江城天守1棟と、附(つけたり) として祈祷札2枚(慶長16年正月吉祥日)、鎮宅祈祷札4枚、鎮物3点(祈祷札1、槍1、玉石1)でした。

文化庁によると、指定に至(いた)った大きな理由は、平成24年(2012)5月に「慶長十六年」と記された祈祷札2枚が再発見され、その後の研究により天守が慶長16年完成であることが明確になったこと、2階分の通し柱や包板(つつみいた)の技法を用いた特徴的な柱構造が解明され、天守建築に優(すぐ)れた技法(ぎほう)を用いた事例であることが判明したことによるとしています。包板技法は、柱の補強(ほきょう)のためとか、割(わ)れたりしている不良材を良く見せるためだとか考えられています。天守を支(ささ)える308本の柱のうち130本が包板で加工されていますので、いかに大きな木材調達が難(むず)しかったかが解(わか)ります。

松江城天守、柱群
天守2階の包板技法の柱群。表面に板を張(は)って鎹(かすがい)や鉄輪で留(と)めるという技法で、ほとんどの柱を補強しています。大型の柱材が無かったということでしょうか

今日ならったお城の用語(※は再掲)

祈祷札(きとうふだ)
神様に叶(かな)えてほしい願い(領地(りょうち)や氏族の繁栄と幸せ等)を伝え、加護(かご)が受けられるように祈って貰(もら)った時に戴(いただ)く札のことです。 お寺や神社でも呼び方が変わり、守札(まもりふだ)、神符(しんぷ)とも呼ばれます。札は紙製(せい)、木製(木札=きふだ)、金属製のものなどがあります。

鎮物(しずめもの)
地鎮祭(じちんさい)、地霊(ちれい)を鎮めるために地中に埋(う)めるもののことです。鉄の人像(にんぞう)、鏡、剣(けん)、矛(ほこ)、盾(たて)などを折櫃(おりびつ)に入れて埋める例が見られます。時代や地域、建てるものによって鎮物も異(こと)なります。

通し柱(とおしばしら)
2階以上の木造建築の柱のうち、一本で土台から軒(のき)まで通っている柱で、通常は建物の四隅(すみ)など構造上重要な位置に使われる柱のことです。

包板技法(つつみいたぎほう)
柱に使う一面だけ、あるいは二面、三面、四面の表面に板を張って鎹(かすがい)や鉄輪(かなわ)(鉄製の輪っかのことです)で留めるという技法で、柱の補強のためとか、割れたりしている不良材を良く見せるためだとか考えられています。松江城天守に多く見られます。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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