2023/03/15
理文先生のお城がっこう 城歩き編 第58回 国宝天守に行こう➆松江城そのⅡ
加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。これまでの天守の構造についての解説をふまえて、全国に5つしかない国宝天守をもつ名城を1つずつピックアップして具体的に紹介します。今回は松江城(島根県松江市)の後編です。江戸時代初期に築かれた天守の外観と内部構造の特徴を、見学ポイントに沿って見ていきましょう。
前回は、平成27年(2015)に城として我(わ)が国5番目に国宝(こくほう)に指定された松江城天守についてまとめました。なぜ、松江城天守が63年ぶりに国宝に指定されたかが解り(わか)ましたか。今回は、その松江城天守の特徴(とくちょう)について見ていきたいと思います。
天守は四重五階(地下一階)で、前面のほぼ中央部に入口施設(しせつ)として附櫓が付設(ふせつ)しています。大入母屋造りの二階建て建物の上に望楼部が載った姿です
天守の外観の特徴
慶長(けいちょう)16年(1611)に完成した天守は、外から見ると4重(4階建て)、内部は5階に地下1階が付く構造(こうぞう)です。高さは約30m、石垣(いしがき)の上からの高さは約22.4mで、現在(げんざい)まで江戸時代のままで残っている12天守の中で3番目の高さを誇(ほこ)っています。1階と2階が同じ大きさで、一重目屋根を庇(ひさし)のように幅(はば)を狭(せま)くし、攻(せ)め手が気付かないように二重目に石落(いしおと)しが設けられています。
大入母屋(おおいりもや)造りの一・二重目が全面板張で、望楼(ぼうろう)部と附櫓(つけやぐら)が下見板張(したみいたばり)となり、軒裏(のきうら)は附櫓を除(のぞ)き全て黒く塗(ぬ)られています。二重目の巨大(きょだい)な入母屋破風(はふ)が造(つく)り出す曲線を「千鳥(ちどり)が羽を広げた姿(すがた)」に見立て「千鳥城」の別名があります。三重目となる入母屋張出部(はりだしぶ)の中央にのみ華頭窓(かとうまど)が採用(さいよう)され、最上階の5階は内縁式(ないえんしき)(建具(たてぐ)で仕切られた内側にある縁側(えんがわ)です)で高欄(こうらん)(手摺(す)り)を巡(めぐ)らして壁(かべ)が無く、360度の展望(てんぼう)が開けています。
最上階の5階は、犬山城や高知城のように外側に廻縁(まわりえん)が廻る姿と同じ構造ですが、山陰(さんいん)の気候風土もあって、外側に仕切りを造って内側に取り込(こ)んだのです
徳川幕府(ばくふ)が各地の城持ち大名に命じて提出(ていしゅつ)させた城絵図の正保城絵図(しょうほうしろえず)である「出雲国松江城絵図」(国立公文書館蔵:重要文化財)などの古い絵図類には、現在(げんざい)の天守と異(こと)なり二重目、三重目に比翼(ひよく)千鳥破風(ちどりはふ)、四重目に唐破風(からはふ)が描(えが)かれています。2階の東面や4階の東西両面には、破風の痕跡(こんせき)と推定(すいてい)される「貫(ぬき)(柱同士(どうし)を水平方向につなぐ材です)跡(あと)」が残っているため、当初期の天守には千鳥破風や唐破風が設けられ、かなり派手(はで)な外観意匠(いしょう)であった可能性(かのうせい)が高くなっています。
「出雲国松江城絵図」(国立公文書館蔵)に描かれた松江城天守は、現在と異なり破風の多い、派手な外観をしていました
附櫓から天守に入ろう
天守の内部へと入るには、前面に設けられた附櫓を通らないといけません。附櫓の入口は地階にあたり、中に入ると、進もうとするのを石垣にさまたげられるため、右に左に折れ曲がらなくてはなりません。ここで上を見てみましょう。この通路上に見える天井が1階の床(ゆか)になります。1階から侵入(しんにゅう)者に対し、床板を外して弓や鉄砲(てっぽう)、槍(やぐら)等で頭上から攻撃(こうげき)が出来る仕掛(か)けになっています。
附櫓の石垣を割って入口を設けていました。入口は鉄製(せい)の厳重(げんじゅう)な扉(とびら)で、左右に「石落し」、上に格子窓(こうしまど)、そして数多くの蓋(ふた)付きの「狭間」が配置されていました
この通路を通って二度折れ曲がると、正面の階段(かいだん)の上に附櫓の1階への入口が見えてきます。左右には鉄砲狭間(ざま)が、階段の右側から背後(はいご)にかけて逆(ぎゃく)L字の武者走(むしゃばし)り状(じょう)のテラスが配され、側面と背後から侵入者を攻撃する工夫が見られます。ここを入ると、やっと天守の地階へと入る入口が正面に見えます。
(左)附櫓の1階への入口で、奥(おく)に天守地階への入口が見えます (右)附櫓入口に設けられた逆L字の武者走り状のテラスです。内部に入っても、前後左右から攻撃されたのです
さっそく、天守内部へと入りましょう。だが、この天守入口扉(とびら)の周囲(しゅうい)にも、再び鉄砲狭間が5個(こ)、口を開けて待ち構(かま)えているではありませんか。それだけではありません、この扉を入っても、正面には漆喰壁(しっくいかべ)が立ちはだかり、真っすぐ進めないのです。左に折れないといけません。こうして、やっと天守の地階へと入れます。附櫓から天守の地階に着くまでの通路には様々な工夫が凝(こ)らされており、天守が最終的な防御(ぼうぎょ)施設であったことを今に伝える、貴重(きちょう)な天守が松江城天守なのです。
附櫓から天守地階への入口になります。階段を上がり一度左に折れないと天守の地下には入れません。入口の周囲には「狭間」が5ヶ所設けられていました
天守地階(穴蔵(あなぐら))最大の特徴(とくちょう)は、左右の突上戸(つきあげど)から攻撃することを想定した2m四方ほどの中段(石内棚(いしうちだな))が存在(そんざい)することです。附櫓が天守中央部に位置するため、天守地階の左右は、直接(ちょくせつ)外を見渡(わた)せることになります。ここに開けられた窓から外を攻撃するためのスペースで、床面は窓の一番下の高さに揃(そろ)えられ、連子窓(れんじまど)の隙間(すきま)も他の窓より広くなっています。
外から見た石内棚(左)と、内側から見た石内棚(右)です。石内棚は、附櫓と天守地階が接続する両端(りょうたん)地階の南側に設けられています。天守に侵入してきた敵を鉄砲などで狙(ねら)うための施設です
地階には、籠城戦(ろうじょうせん)に備(そな)えた井戸も掘(ほ)られ、東北隅部(すみぶ)の塩蔵(しおぐら)をはじめ、各種の倉庫的機能(きのう)が想定されています。現在は、葺替瓦(ふきかえがわら)の置き場になっています。井戸は地階の中央部に位置し、直径約2mの自然石を積み上げた円形井戸で、深さは地階地盤より約24m(現在は約12m)、井戸の底は真砂(まさご)で埋(う)まっていたことが調査(ちょうさ)で判明(はんめい)しています。この井戸は抜(ぬ)け穴(あな)になっているとの伝説もありましたが、調査によって籠城戦に備えた飲料用の井戸であることが明らかとなったのです。また、かつては地階西南隅に、やはり籠城戦に備えた便所も残されていました。
現存天守では唯一、天守内にある井戸になります。堀尾吉晴の前の居城である浜松城の地下にも井戸が存在しています。名古屋城天守、伊賀上野城小天守などに井戸がありました
天守内部の柱を見よう
慶長5年~元和(げんな)元年(1600~15)の「 慶長の築城(ちくじょう)大盛況(せいきょう)期」真っただ中の、慶長12年に松江城の築城が始まります。全国でほぼ同時に多くの城が築(きず)かれ始めましたので、大きな柱を作る材木を手に入れるのは非常(ひじょう)に厳(きび)しかったのです。そこで、心柱(しんばしら)のような大きな柱を使わない工法を考え出したのです。
①2階分の短い長さの通し柱を使って、2階分を貫(つらぬ)く柱を交互(こうご)に配置する互入式通し柱(ごにゅしきとおしばしら)という方式
➁上階と下階の柱をずらして配置することで上からの荷重を下の柱が直接受けることなく分散する方式
この2つの方式を併用(へいよう)させることで、心柱を使うことなく巨大な天守を建てることが出来たのです。松江城の天守の柱308本の柱のうち約30%の96本が互入式通し柱でした。
松江城の二階分を貫く通し柱の位置(『松江市史』別編1「松江城」の口絵6より転載)
1階内部では、松の一本柱の周囲を厚板(あついた)で寄(よ)せ合わせて囲(かこ)み、鎹(かすがい)で留(と)め、金輪(かなわ)で巻(ま)いた寄木柱(よせきばしら)が数多く見られます。この柱は松江城では「包板(つつみいた)」と呼ばれ、柱の一面、あるいは二面、三面、四面全てに板を張(は)り、鎹や鉄輪で留めて、粗悪材や木材の破損(はそん)等を隠(かく)すとともに柱の補強(ほきょう)効果(こうか)を高めるためのものと考えられています。天守にある柱の総数(そうすう)308本のうち42%の130本がこの「包板」を使用した柱となっています。
1階内部で見られる「包板」技法の柱群、松の一本柱の周囲を厚板で寄せ合わせて囲み、鎹で留め、金輪で巻いて太くしているのが良く解ります
こうした木材の中に、堀尾吉晴(ほりおよしはる)が最初に入った月山富田(がっさんとだ)城(島根県安来市)の「富」と堀尾家の家紋(かもん)「分銅(ふんどう)紋」が融合(ゆうごう)した刻印(こくいん)が施(ほどこ)されている木材が見つかっています。これは、松江築城に際(さい)し、月山富田城から運ばれ、再(さい)利用された材と考えられています。
その他、天守内の特徴
石垣に近づく敵(てき)を鉄砲や弓矢などで攻撃するために設けられた「石落し」は、2階の四隅と東・西・北壁、附櫓の南側両隅の計9ヵ所に設けられ、下部に1mほどの隙間を設け、床板を外す構造になっています。「狭間」は天守全体で94ヶ所もあり、いずれも蓋付きで下見板張であるため、外からは存在が解りづらくなっています。二階の東西南北9ヶ所に設けられた狭間は、いずれも上から下を撃つような角度を持った変則(へんそく)的な形状で、石垣を登ってくる敵を狙おうとしたものです。4階には、城内唯一(ゆいいつ)の△形の狭間を見ることが出来ます。
天守入口の前面に設けられた、様々な防御のための施設です。天守に近づこうとする敵兵は、四方八方から攻撃を受けることになっていました
窓は、太い格子を縦(たて)に取り付けた格子窓で、外には突上戸が付いています。格子は▢ではなく、鉄砲を広角の角度で撃(う)てるように、◇型に取り付けられていました。
3階と4階には入母屋破風内部の隙間を利用して設けられた小部屋(武者隠し)が存在し、そこへ入るための階段と潜戸(くぐりど)が残されています。階段を外してしまえば、まさに隠し部屋となる構造と言われていますが、実はここから屋根に出ることが出来るのです。本来は、屋根の掃除(そうじ)とか修理(しゅうり)の際に使用するためのものでしょう。西側破風内には、かつて便所が設けられていたようで、藩主(はんしゅ)用の箱便所と言われています。
3階の入母屋破風内部の隙間を利用して設けられた小部屋と、そこに入るための階段です。隠し部屋と言われますが、修理・清掃用と考えられます
階段は幅1.6mで、火災(かさい)の際に延焼(えんしょう)をくいとめることと木材が腐(くさ)らないようにする効果を狙って厚さ約10㎝の桐(きり)の板が使用されています。1階と4階の階段開口部は、水平の引き戸を引き出すと開口部を塞(ふさ)ぐ構造になっています。戸締(じ)まりのための管理用、あるいは籠城用のものと考えられています。
鯱(しゃち)も極めて特徴的で、木彫りの銅板(どうばん)張りとなっています。瓦製の鯱より軽く、屋根にかかる荷重を減(へ)らす効果が推定されます。天守に向かって左側が雄(おす)で、荒い鱗(うろこ)が特徴です。右側が雌(めす)で、高さは雄で2.08mの高さがあります。
天守は、慶長後半の築城になりますが、極めて武骨(ぶこつ)で戦闘(せんとう)的な姿を良く残す天守です。
今日ならったお城の用語(※は再掲)
※石落(いしおと)し
天守や櫓、土塀(どべい)などに設けられた防御施設です。建物の一部を石垣から張り出させ、その下部の穴から弓や鉄砲などで攻撃しました。巨大な狭間で、通常の狭間の死角になる真下への射撃(しゃげき)が可能な施設でもあります。ここから石を落とすというのは、江戸時代の軍学によって拡散(かくさん)された考えです。
※望楼(ぼうろう)
遠くを見渡すための櫓のことです。または、高く築いた建物のことです。天守では、入母屋造の建物の上に乗る、1階から3階建ての小さな別の建物を言います。
※付櫓(つけやぐら)
本来は天守に続く櫓のこと。附櫓と書くこともあります。天守と接続する例が多く見られますが、渡櫓(わたりやぐら)によって接続する例もあります。
※下見板張(したみいたばり)
大壁造(おおかべづくり)(一般的に柱を見せないように外壁の表面を厚く塗ったものです)の仕上げ方の一つで、煤(すす)と柿渋(かきしぶ)を混ぜ合わせた墨(すみ)を塗った板を張ったもののことです。漆喰(しっくい)仕上げと比較し、風雨に強いのが長所でした。
※華頭窓(かとうまど)
鎌倉時代に、禅宗(ぜんしゅう)寺院の建築とともに中国から伝来したもので、上枠を火炎形(火灯曲線)または、花形(花頭曲線)に造った特殊(とくしゅ)な窓のことです。
※千鳥破風(ちどりはふ)
屋根の上に載せた三角形の出窓で、装飾(そうしょく)や明るさを確保するために設けられたものです。屋根の上に置くだけで、どこにでも造ることができます。2つ並べたものを「比翼千鳥破風」と言います。
※唐破風(からはふ)
軒先の一部を丸く持ち上げて造った「軒(のき)唐破風」と、屋根自体を丸く造った「向(むかい)唐破風」とがあります。もとは神社建築に多く使用された装飾性の高い破風でした。
※狭間(さま)
城内から敵を攻撃するために、建物や塀、石垣に設けられた四角形や円形の小窓のことです。縦長は鉄砲・弓矢両用、四角・丸・三角は鉄砲用です。
漆喰壁(しっくいかべ)
石灰石を焼いて水を加えた消石灰に糊(のり)やスサを加えて、水で練ったものが漆喰です。漆喰の壁は、燃えにくく防火性が高いだけでなく、湿気(しっけ)や乾燥(かんそう)を防(ふせ)ぐ効果があると言われています。
※穴蔵(あなぐら)
天守の地下に造られた地下室で、当初は出入口を兼(か)ねていました。天守相当の大型の櫓にも見られます。漆喰を塗り固めた土間あるいは石畳(いしだたみ)を用いることもありました。塩とか米とかの備蓄(びちく)倉庫として用いられたりもしました。
※石打棚(いしうちだな)
城外の敵を攻撃するなどの場合に、上に乗って応戦をする台のことです。高い場所に窓が位置する場合に設けられました。
連子窓(れんじまど)
窓枠の中間に補強用の水平材を入れずに、角材を縦方向に並(なら)べただけの窓を言います。現在は格子窓とも呼(よ)ばれています。
潜戸(くぐりど)
潜戸は、主になる門扉に付属(ふぞく)していて、高さが低く頭を下げて通る門扉のことです。城門や寺や民家の門、防火扉の小さい扉、茶室の躙(にじ)り口などに用いられることが多い扉のことです。
次回は「櫓① その起源と種類」です。
▼【連載】理文先生のお城がっこう そのほかの記事
加藤理文(かとうまさふみ)先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。