【続日本100名城・龍岡城(長野県)】大政奉還の年に完成した『もう一つの五稜郭』

日本には、函館五稜郭のほかにもう一つ五稜郭があるのをご存知でしょうか? 長野県佐久市にある龍岡城五稜郭(別名:龍岡城、田野口陣屋)は、大政奉還をおこなった慶応3年(1867)に完成した西洋式の城。日本赤十字社のもととなる博愛社を設立した旧龍岡藩主・松平乗謨(のりかた)が築きました。日本にいながらヨーロッパ流の築城技術が楽しめるなんて、なんだかお得! 日本人が築いた稜堡式(りょうほしき)の城とは、どのような城なのでしょうか。

星形の城って一体なに?

龍岡城
田口城から見た龍岡城の全景。龍岡城の一辺の長さは145m〜150m。函館五稜郭の一辺の長さは297mなので、函館五稜郭のだいたい4分の1の大きさとなる

「稜堡式」とは15〜17世紀にヨーロッパで発展した城。龍岡城のような星形の稜堡は、17世紀にフランスのヴォーバン元帥によって考案された城をモデルにしているといわれています。なお、星形=稜堡式というわけではなく、突出部(稜堡)が4ヶ所や5ヶ所、6ヶ所…それ以上と形はさまざまです。

龍岡城、稜堡
稜堡間の面(カーテン)から見る、稜堡の側面(フランク)部分と稜堡の正面(フェイス)部分。死角がなく丸見えだ

稜堡式は小銃ではなく大砲戦を意識した城で、突端部に砲台を設けることにより十字砲火を可能にする構造となっています。城内は天守や櫓のような標的となる高い建物をなくし、また万が一大砲が当たっても衝撃を吸収できるよう、石垣の中や上に厚みのある土の層を設けているのが特徴です。

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龍岡五稜郭は未完成だった!?

日本にある星形の城といえば、北海道の函館五稜郭が有名ですね。幕末に西洋式の築城技術を取り入れ築かれた城で、この頃には四稜郭(函館市)や戸切地陣屋(へきりちじんや・北斗市)など「稜堡式」の城が誕生しました。そんな西洋式の城に刺激を受けた人物が、松平乗謨です。

龍岡城、松平乗謨胸像
龍岡城大手門跡にある大給恒(松平乗謨)胸像。日本赤十字社のもととなった博愛社を設立した人物(写真提供:にのまるさん)

大給松平家は徳川家康の5代前に分家した家系にあたり、乗謨は三河と佐久を領した奥殿藩の11代目藩主。わずか14歳で藩のトップとなり、幼い頃から蘭学やフランス語を学んで、火砲や築城術を心得ました。その才能を見出され、幕府の要職を任された乗謨。28歳の時には老中格も経験しています。老中はだいたい5万石以上の譜代大名の中から選ばれるのが通常で、1万6000石の小藩から抜擢されるのはまさに異例の登用だったのです。

話は戻り文久2年(1862)、参勤交代制度が緩和され、家臣たちが国に滞在する期間が長くなりました。このタイミングで三河から佐久へ本拠地の移転を申し出て、「田野口藩(のちに龍岡藩に改める)」を立藩。無城大名だった大給松平家は城を持つことができなかったため、新しい「陣屋」の建設を幕府に願い出たのです。

龍岡城、石垣
西面は堀が未完成であるがゆえに、すぐ近くで石垣を鑑賞できるスポットに!

乗謨自ら設計を行い、元治元年(1864)3月に着工した龍岡城は、慶応3年(1867)4月に完成しました。しかし、西面・南西面の堀は未完成のままで、さらには準備されていた瓦も使用せず建物は板葺きのままだったとか。これらのことから、龍岡城は実質未完成だったと考える説もあります。

ちなみに龍岡城は星形の内側の「内城」と外側の「外城」に分かれており、内城には御殿建物や火薬庫が、外城には藩士の屋敷などが建てられていました。

西洋技術を取り入れた石垣の特徴「刎ね出し石垣」

龍岡城、刎ね出し石垣
刎ね出し石垣。砲台が置かれていたのはここ西側の稜堡のみであった

星形の構造から西洋っぽさを感じられる龍岡城ですが、実は石垣からも西洋式の特徴が見てとれます。堀底から立ち上がった石垣は、天端部分の石が突き出していますね。この張り出した石垣は「刎(は)ね出し」といい、日本100名城・続日本100名城では五稜郭や人吉城(熊本県)、品川台場(東京都)などでも見ることができます。これまでの日本の城では見られなかった石の積み方で、登ってきた敵兵を刎ね返す「武者返し」の効果があるのです!

龍岡城の石垣は、伊那高遠藩が西洋式築城石工を養成していると聞きつけ、彼らを招き3年という時間をかけて積み上げました。石材は、千曲川東岸「お滝の山」などの近隣の山から採れる佐久石(溶結凝灰岩)を使用。約60名の石工職人が携わったそうです。

龍岡城、石垣
(左)布積み、(右)亀甲積み

石垣をよく観察してみましょう。自然石を積んだ野面積みや目地を揃えて切石を積んだ布積み、五角形・六角形の石を積む亀甲積みなども見られ、表情も豊かで飽きることがありませんよ!

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ここが面白い!アンマッチな和式の枡形虎口

龍岡城には城好きがキュンとなってしまうポイントがあります。

龍岡城、枡形門跡

こちらは、大手門跡から徒歩5分の場所にある枡形門跡。西の入口にあたるこの門は、日本の城ではお馴染みの枡形虎口なのです! 

西洋の築城技術をふんだんに散りばめた龍岡城の中に、なぜか和式の技術を取り入れる。まるでフレンチのコース料理の中に、梅干しのおにぎりが登場するような違和感です。これがたまらなく愛おしい! 龍岡城の中心部から少し遠い場所にあるため見逃しがちですが、ぜひ足を運んで欲しいポイントです。

龍岡城大手門跡から北方に5分ほど歩くと到着する。少し遠いので見逃しがち

龍岡城の終焉と、残った唯一の遺構「お台所」

龍岡城が完成した慶応3年(1867)、15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上し徳川の世は幕を閉じました(大政奉還)。乗謨も陸軍総裁・老中格を辞任。大給恒(おぎゅう ゆずる)と名を改め新政府に従う意思を表明します。龍岡城着工からほんのわずかな期間で世の中がガラッと変わったのですから、乗謨もきっと龍岡城の建設どころではなかったでしょう。

この翌年には戊辰戦争がはじまり、龍岡藩にも官軍から出陣命令がでて北越戦争に参加しています。まさに激動の幕末の歴史に翻弄された城だったのですね!

龍岡城、御台所
お台所は横10間・縦7間半の大きさ。当時建っていた場所よりも西に移動している

明治4年(1871)の廃藩後は、一部の建物は競売にかけられ地元の人々によって移築・再利用されました。城門は成田山薬師寺や個人邸宅の通用門へ、大広間は時宗寺の本堂へ、そしてお台所は学校の校舎として使用申請が認められ新たな道を歩んでいきます。

佐久市教育委員会文化振興課文化財事務所にお願いするとお台所の内部見学ができたのですが(2週間前までの事前予約。原則、20名以上の団体)、2021年7月現在はコロナウイルス対策のため一時見合わせの状態となっています。

「五稜郭であいの館」に立ち寄ってみよう!

龍岡城、五稜郭であいの館
中では龍岡城五稜郭保存会の方がおもてなしをしてくれる

大手門跡目の前にある五稜郭であいの館は、龍岡城に関連する史料や遺物が展示されたスポット! 特に模型はわかりやすいので一見の価値ありです。石垣を築いた石工職人の道具や城跡に開校した学校の歴史に関する展示。さらには、お土産や御城印なども販売しています。龍岡城の全容がわかるリーフレットも置いてあるので、散策前に手に入れるとベストですよ。

龍岡城の基本情報
住所:長野県佐久市田口3000-1ほか
電話番号:0267-63-5321(佐久市教育委員会文化振興課文化財事務所)
アクセス:JR「臼田駅」より徒歩約20分ほど

五稜郭であいの館の基本情報
住所:長野県佐久市田口2975-1
電話番号:0267-82-0230
開館時間:9:30~16:00
休館日:火曜日、年末年始

※コロナウイルス感染症拡大防止の観点から、であいの館は休館中で、開館再開は未定です。そのため、お土産、御城印の購入もできません。

いなもとかおり
 執筆・写真/いなもと かおり
 お城マニア&観光ライター
 年間120城を巡る城マニア。國學院大學文学部史学科古代史専攻卒。19歳の時に、会津若松城に一目惚れしてから城の虜となる。訪城数は600ほど。国内旅行業務取扱管理者、日本城郭検定1級、温泉ソムリエ、夜景鑑賞士2級の資格をもつ。城めぐりの楽しみ方を伝えるべく、テレビやラジオにも出演中。