2021/07/16
理文先生のお城がっこう 城歩き編 第38回 天守の歴史1
加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。38回目は、お城のシンボルである天守の歴史がテーマ。天守を最初に築いたのは誰か? なぜこういう姿になったのか? そうした素朴な疑問について、天守の歴史を通じて迫ります。
「天守(てんしゅ)」と言えば多くの人は、姫路(ひめじ)城(兵庫県姫路市)天守のような「高い石垣の上に立つ、多くの破風(はふ)に飾(かざ)られた真っ白な巨大(きょだい)な建物」をイメージするのではではないでしょうか。それでは、この天守と言う建物は、いつ誰(だれ)によって、なぜこういう姿(すがた)かたちで全国のあちこちに築(きず)かれ、城のシンボルになったのでしょうか。
姫路城天守群。誰もが思い浮かべる代表的な天守の姿です。このような姿かたちになったのはいつからで、最初の天守はどんな姿だったのでしょう
天守は、その城の中心的な建物で、城の顔そのものです。戦後、多くの城で鉄筋(てっきん)コンクリート(RC)造(づく)りの天守が建てられたのも、天守が城のシンボルとして認(みと)められていたためです。天守が数多く建てられるようになったのは、織田信長・豊臣秀吉による全国統一(とういつ)の過程(かてい)の中でした。今回は、天守がいつどのように誕生(たんじょう)したのかという「天守の歴史(れきし)」について、考えてみたいと思います。
天守・殿守・殿主・天主
戦国時代や江戸(えど)時代の記録では、「天守」はどんな漢字で書かれていたのでしょうか。現在(げんざい)の「天守」という漢字になったのは江戸時代以降(いこう)のことになります。それ以前については、「殿守」「殿主」「天主」などの文字が用いられていました。どの漢字を使っていても、「てんしゅ」と読んでいました。現在どこでも使われている「天守閣(てんしゅかく)」という呼(よ)び方は、江戸時代の終わりから明治時代頃(ごろ)に使われるようになった用語で、学術(がくじゅつ)用語は「天守」が用いられています。
ではどのような建物が「てんしゅ」で、初めて建てられたのはいつなのでしょうか。これについては、いろいろな意見があって、これが一番正しいのではないかという決め手はまだありません。
我が国最古級の天守と言われている犬山城(左)と丸岡城(右)は、共に入母屋造(いりもやづくり)の建物の上に、望楼(ぼうろう)を載(の)せた形式です。最初の天守も、こんな姿だったのでしょうか
それでは、「てんしゅ」という名前の起こりについての主な主張を見てみましょう。
・儒教(じゅきょう)(中国の「孔子(こうし)」の思想を基礎(きそ)とした教えです)や仏教(ぶっきょう)(インドの「釈迦(しゃか)」を開祖(かいそ)とする宗教(しゅうきょう)です)のような宗教的な世界観の頂点(ちょうてん)を「天」として捉(とら)え、その世界における建物が「天主」だと説明しています。
・天下は「天」で、「天下の主将(しゅしょう)(全軍を指揮(しき)する大将のことです)」「天下を守衛(しゅえい)(見張(は)り、守ることです)する」人の住む所になるので「天主」「天守」と呼ばれたと考えています。
・キリスト教の神を天主(デオ・デウス)と呼んでいたため、その神を内部に祭った場所であったから「天主」と呼んだとしています。
・「殿主」という言葉は、当時の惣領(そうりょう)の居館(きょかん)である主殿(守殿)を守る建物という意味で「殿主」「殿守」と呼ばれ、それが後に「殿」の文字が「天」に変わったために「天主」と呼ばれるようになったと言われます。
これ以外にも、様々な見解(けんかい)が示(しめ)されていますが、主なものを取り上げてみました。どの意見を見ても、決め手に欠けると言わざるをえません。それだけ、「天守」という言葉が、何に由来するのか、いつから使用され始めたのか、意味や文字の形がどのように変化したのかなどについては解(わか)っていないということです。
天守の初見
今まで、生島宗竹(いくしまそうちく)が天文19年(1550)に著(あらわ)した『細川両家記(ほそかわりょうけき)』(上巻)の永正17年(1520)の条(じょう)に「我等(われら)二人は此城(このしろ)の中にて腹(はら)切らんと、四方の城戸(きど)をさし、家々へ火をかけ、天守にて腹切りぬ」(私(わたし)たち二人は、この城の中で切腹(せっぷく)しようと、城戸を閉(と)ざして火を掛(か)け、天守にて切腹した)とあるため、これが文献の上での「天守」という言葉が最初に使用された事例だとされてきました。なお、此城とは伊丹(いたみ)城(兵庫県伊丹市)のことで、二人とは城主細川但馬守(ほそかわたじまのかみ)と野間豊前守(のまぶぜんのかみ)のことになります。
この天守の記載(きさい)について、安土城(滋賀県近江八幡市)の復元で著名な内藤昌(ないとうあきら)氏が後の世につくられた写本(書き写された本のことです)類を比(くら)べながら、それぞれの違(ちが)いや特徴(とくちょう)を明確(めいかく)にして、それが正しいのか考えまとめています。すると、江戸後期以降の写本で「天守」とされていて、享和(きょうわ)2年(1802)の写本に「しゅてん」として記してはいますが、欄(らん)の外に「てんしゅナルベシ」と朱書(しゅがき)で補記(ほき)(補(おぎな)って書き足すことです)していることを指摘(してき)し、江戸期の誤写(ごしゃ)(写し間違えることです)であると断じています。
楽田城は犬山城と小牧山城の間に位置し、小牧(こまき)・長久手(ながくて)合戦では、秀吉方の前線基地(きち)となりました。当初、堀秀政が入りますが、その後秀吉の陣(じん)にも利用されたと言われます。大正期までは遺構(いこう)が残っていたようです。その後、小学校用地となり、現在(げんざい)は「楽田城址」の石碑(せきひ)が建つのみです
また、『遺老物語(いろうものがたり)』の『永禄以来出来初之事(えいろくいらいできはじめのこと)』に、永禄元年(1558)の春「尾州(びしゅう)楽田(がくでん)之城(愛知県犬山市)」に高さ二間余(よ)の壇(だん)を築き、その上に五間七間の矢倉(やぐら)を建て、中央に八畳(じょう)の二階座敷(ざしき)をこしらえて、これを「殿守(でんしゅ)」と称したと記しています。この二階座敷には八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と愛宕権現(あたごごんげん)を勧請(かんじょう)(神仏(しんぶつ)の分身を他の地に移(うつ)して祭ることです)し、「かり弓手たて(盾)等をも縁通りに多く掛置」とあり、周囲(しゅうい)に縁(えん)を廻(まわ)し、ここに盾(たて)を置いて弓を射(い)かけられるようにしておいたとあるのです。『遺老物語』自体が、享保18年(1733)の刊行(かんこう)であり、その描写(びょうしゃ)も櫓(やぐら)の中央に縁を設(もう)けた望楼(ぼうろう)をあげた形式とするなど、余(あま)りに出き過(す)ぎで、これも後世の想像(そうぞう)としか思えません。両者ともに、江戸期に入って、初めての天守がどのような姿かたちであったかを調べて、まとめたに過ぎないとするのが妥当(だとう)ではないでしょうか。
確実に「天主」と記されたのは『兼見卿記(かねみきょうき)』(京都吉田神社の神主(かんぬし)で公卿(くぎょう)の吉田兼見が記した日記です)の元亀(げんき)3年(1572)12月24日の記事で
明智見廻の為、坂本に下向、杉原十帖、包丁刀一、持参了、城中天主作事以下悉く披見也、驚目了
宣教師(せんきょうし)のルイス・フロイスも「明智は(中略)坂本と呼ばれる地に、邸宅(ていたく)と城砦(じょうさい)を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗(ごうそうかれい)(大きく立派(りっぱ)なうえ華(はな)やかで美しいことです)なもので、信長が安土山に建てたものに次(つぎ)この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。」と『日本史』に記しています。フロイス自身が見た城の中での感想ではありますが、安土城と比較(ひかく)することが出来るほど、立派な建物だったということでしょうか。
また、同じく『兼見卿記』の元亀4年(1573)4月21日に
(二条城)御普請、召連人足祇候了、天主壁之義也、二方請取、今日急出来了
とあります。織田信長が永禄(えいろく)12年(1569)に将軍義昭(よしあき)のために造営(ぞうえい)した二条城(京都府京都市)に「天主」が存在(そんざい)していたことが判明(はんめい)します。『信長公記』にも、二条城造営の記載(きさい)がありますが、こちらでは「天主」への言及(げんきゅう)はありません。
坂本城推定(すいてい)復元(ふくげん)イラスト(考証:中井均/作図:香川元太郎)
安土城に次、天下に名をはせた明智光秀の居城(きょじょう)で、天守が存在したことが各種記録から確実な状況(じょうきょう)です。元亀年間に製作(せいさく)された可能性(かのうせい)が高い瓦(かわら)も出土しています
こうして見ると、我(わ)が国で確実(かくじつ)に「天主」と呼ばれた建物は、織田政権(せいけん)によって永禄12年~元亀年間(1570~73)に築かれていたことが判明します。築城主体者は、いずれも織田信長でした。では、なぜ信長は、今までの城に無かった「天主」を建てようとしたのでしょうか、また信長が建てようとした「天主」とはどのような建物だったのでしょうか。現在、確実な意味で、我々が「天守」と認識する建物の初現(しょげん)は、安土城天主としてほぼ間違いありません。だが、この安土城天主が登場する前に、すでに天主が建てられていたのです。しかも、いずれも信長本人の関与(かんよ)があってです。
では、なぜ信長は城中に今までなかった「天主」を建てようとしたのでしょうか。次回は、初めて建てられた天守とはどのような建物だったのかを考えてみたいと思います。
織田信長が永禄12年(1569)に将軍義昭のために造営した二条城は、地上には残されていません。昭和49年(1974)~55年(1980)まで行われた京都市営地下鉄烏丸(からすま)線建設事前発掘(はっくつ)調査(ちょうさ)で、京都御苑(ぎょえん)の西から旧二条城の石垣が発見され、調査後に二条城と京都御苑に移築(いちく)保存(ほぞん)されました
今日ならったお城の用語(※は再掲)
天守(てんしゅ)
近世大名の居城の中心建物で、通常(つうじょう)最大規模(きぼ)、高さを持つ建物のことです。安土城天主のみ「天主」と命名したため「天主」と表記しますが、他は「天守」が用いられます。
破風(はふ)
切妻造(きりづまづくり)や入母屋造(いりもやづくり)の屋根の妻側(つまがわ)に見られる端部のことです。破風には、入母屋破風、切妻破風、千鳥(ちどり)破風、唐(から)破風などがあります。
天守閣(てんしゅかく)
江戸時代後期に、庶民(しょみん)の間でいいならわされた正式ではない呼び方です。明治以降は「天守閣」と呼ばれることが多くなります。学術(がくじゅつ)用語は「天守」が用いられます。
入母屋造(いりもやづくり)
屋根の形式の一つです。寄棟造(よせむねづくり)の上に切妻造(きりづまづくり)を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついて出来たものです。天守や櫓の最上階に見られる屋根のことです。
望楼(ぼうろう)
遠くを見渡(わた)すためのやぐらのことです。または、高く築いた建物のことです。
次回は「天守の歴史2」です。
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加藤理文(かとうまさふみ)先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。