理文先生のお城がっこう 城歩き編 第39回 天守の歴史2

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。39回目は、前回に続いて「天守の歴史」がテーマ。織田信長が前例のない天主(天守)を造ろうとした理由と、実際に築いた天主がどのような形だったのか見ていきましょう。

前回は、記録として初めて「天守」が書かれたのはいつなのかを見てみました。それらを見ると、我(わ)が国で確実(かくじつ)に「天主」と呼ばれた建物は、織田政権(おだせいけん)によって永禄(えいろく)12年(1569)~元亀(げんき)年間(1570~73)に築(きず)かれていたことと、その城を築いた人物が、織田信長(のぶなが)だったことが解(わか)りました。今回は、なぜ信長は、今までの城に無かった「天主」を建てようとしたのか、また信長が建てようとした「天主」とはどのような建物だったのかを考えてみましょう。

織田信長と室町政権

信長が足利義昭(あしかがよしあき)を15代の将軍(しょうぐん)にすることを理由にして、都に入ったのは、永禄11年(1568)9月26日のことでした。翌12年、信長が岐阜へ帰った隙(すき)をねらった三好(みよし)三人衆(三好長慶(ながよし)の死後に三好政権を支(ささ)えて畿内(きない)で活動した三好長逸(ながやす)・三好宗渭(そうい)・岩成友通(いわなりともみち)の3人のことです)らが、義昭が宿泊(しゅくはく)場所として利用していた本圀寺(ほんこくじ)に攻(せ)め寄(よ)せたのです。この事件(じけん)の後、義昭の命を守る必要があることを身に染(し)みて強く感じた信長は、ただちに「武衛陣(ぶえいじん)」と呼(よ)ばれた斯波(しば)氏の武衛邸の跡地(13代足利義輝(よしてる)の屋敷(やしき)もここです)に、新将軍のための築城(ちくじょう)工事を開始しました。これが、最初の二条城(京都府京都市)になるわけです。

旧二条城跡
旧二条城跡(あと)は、南北が現在の烏丸丸太町(からすままるたまち)交差点辺(あた)りから下立売通りに至(いた)る付近まで、東西の一部は京都御苑(ぎょえん)の敷地(しきち)内も含(ふく)まれていたようです。現在は平安女学院の校舎(こうしゃ)が建っています

『信長公記(しんちょうこうき)』には、自らの力を諸国(しょこく)の人々に見せつけるため尾張(おわり)(愛知県の西半分)・美濃(みの)(岐阜県)・三河(みかわ)(愛知県の東半分)・近江(おうみ)(滋賀県)・伊勢(いせ)(三重県)・若狭(わかさ)(福井県の若狭湾に面した地域)・丹後(たんご)(京都府の丹後半島)・丹波(たんば)(京都府の西側)・播磨(はりま)(兵庫県)及(およ)び五畿内(現在の近畿地方中央部)14ヶ国の大名・武将(ぶしょう)たちを動員したと書かれています。京都周辺に住んでいた鍛冶職(かじしょく)(鉄製品(せいひん)などの金属(きんぞく)を加工する職人(しょくにん)のことです)・大工(だいく)製材(せいざい)業者(伐採(ばっさい)した木を角材や板材に加工したり、さらに加工して寸法(すんぽう)を調整したりして木材製品を作り出す業者です)を呼び出して集めて、金銀をちりばめた御殿(ごてん)を建てました。

また、四方に高い石垣(いしがき)を築き上げ、庭には池・流れる水・築山(人工的な山)を造(つく)ったとあります。庭は、細川殿御屋敷の藤戸石(ふじといし)(岡山県藤戸の渡(わたり)で産出されたと伝えられ、室町時代から名石として珍重(ちんちょう)され、細川氏が京都へ運び、細川氏綱邸の庭に据(す)えてありました)、慈照院(じしょういん)(銀閣寺(ぎんかくじ))から全国に知れ渡った名石の九山八海(くせんはっかい)(世界の中心にそびえるとされる須弥山(しゅみせん)を表した石のことです)、その他にも京都内外から有名な石・有名な木を集めて庭を飾(かざ)り付けたと書かれています。完成した城は、公方様御構(くぼうさまおかまい)、御構と呼ばれました。

三宝院庭園
国の特別史跡(しせき)・特別名勝となっている三宝院(さんぼういん)庭園は、慶長3年(1598)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が「醍醐(だいご)の花見」に際して自ら基本設計(きほんせっけい)をした庭で、「藤戸石」もここに移されました。旧二条城の庭園も、このような庭と推定(すいてい)されます

宣教師(せんきょうし)ルイス・フロイスは、「少なくとも2、3年はかかると思われたものを、彼(織田信長)はほとんどすべてを70日間で完成させたのです。」と、大規模(きぼ)な工事だけでなく、その工事期間の短さに驚(おどろ)いたと記録しています。短期間で完成したのは、リサイクル(資源(しげん)として再(さい)利用、あるいは再生して有効(ゆうこう)利用することです)リユース(再使用、再利用することです)による成果に他なりません。本圀寺では豪華(ごうか)な部屋が取り壊(こわ)され、それを二条新邸の御殿の中で再建することを命じたとも記録されています。庭石も、前述(ぜんじゅつ)のように、都の別の屋敷から運んできたのです。

旧二条城内堀の石垣
地下鉄烏丸線建設に伴う発掘調査(はっくつちょうさ)で検出された旧二条城内堀の石垣です。石仏(せきぶつ)や五輪塔(ごりんとう)などが多数再利用され、フロイスの記録を裏付けます(京都市文化財保護課提供)

前回触(ふ)れたように、この城に「天主」が築かれたとする記録があります。二条新邸に築かれた天主とは、どんな形状(けいじょう)の建物だったのでしょうか。室町将軍の新しい屋敷に相応(ふさわ)しい豪華絢爛(ごうかけんらん)(きらびやかに輝(かがや)き、華(はな)やかで美しい様子です)な高層(こうそう)建物と言ったら、何を思い浮(う)かべますか。おそらく多くの人は、金閣(きんかく)か銀閣を思い浮かべるのではないでしょうか。当時都で、建物の中に入ることが出来る最も高い建物は、金閣でした。入京した信長が、金閣、銀閣を訪(たず)ねた可能性(かのうせい)は非常(ひじょう)に高いと思われます。

信長の目指した「天主」とは

徹底的(てっていてき)なリサイクル・リユースによって二条新邸を短期間で築き上げた信長は、金閣・銀閣という楼閣(ろうかく)建築(けんちく)(四方を遠く広く見渡(わた)せる2階建て以上の高層建物のことです)をここに移(うつ)すことすら考えたのかもしれません。義満(よしみつ)、義政(よしまさ)という義昭と同じ室町将軍の建物なら、何もはばかることなく新しい将軍邸への移設も出来たと思われます。だが、金閣・銀閣は、義満、義政という強いイメージがあり、新邸には相応しくないと判断(はんだん)したのでしょうか。あるいは、自分がつくりあげる新しい時代を告げるための特別な建物として「天主」を選択(せんたく)したのかもしれません。

浅間神社
浅間神社(静岡県静岡市)大拝殿(おおはいでん)。文化2年(1805)起工、同11年竣工。楼閣造りで、いわゆる浅間造の代表的なものです。桁行(けたゆき)七間、梁間(はりま)四間で、切妻(きりつま)造の大型建物の上に望楼(ぼうろう)を載せた特異(とくい)な建物で、高さ25mです。江戸後期の建物ですが、このような形式の楼閣建築ものこされています

では、この時信長が築いた「天主」とは、いったいどのような建物だったのでしょうか。永禄10年(1567)、フロイスが岐阜城(岐阜県岐阜市)へ行った時に、案内された山麓(さんろく)居館(きょかん)にそのヒントがありそうです。

二条新邸とほぼ同時期に存在(そんざい)していた信長の居館は、その記録から4階建ての楼閣建築と推定されます。金閣は、3階建ての楼閣建築で、銀閣も、2階建ての楼閣建築でした。おそらく、二条新邸の「天主」も同様な建物が推定されるのです。この二条新邸の建物を「天主」と書いたのは、吉田兼見(よしだかねみ)で、元亀4年(1573)のことです。吉田兼見は、前年度に明智光秀(あけちみつひで)坂本城(滋賀県大津市)を訪れており、その時に「天主」の建設現場(げんば)を見学し、あまりのすばらしさに驚き感心したと記しています。従(したが)って、坂本城にあった建物と、二条新邸にあった建物は、兼見から見て何らかの共通点があったとしか思えません。そのため両方の建物を共に「天主」として理解(りかい)したと言うことなのでしょう。

銀閣寺
第8代将軍足利義政が鹿苑寺(ろくおんじ)の舎利殿(金閣)を模(も)して造営した楼閣建築である観音殿(かんのんでん)が銀閣です。長享3年(1489)の完成で、義政は完成を見ることなく病に倒(たお)れました

信長の岐阜城の山麓御殿

永禄10年、美濃を手中に治めた信長は、稲葉山(いなばやま)城を大改修し、岐阜城と改め、ここを居城(きょじょう)としました。同12年、フロイスは、キリスト教布教(ふきょう)を認(みと)めてもらうために、岐阜城を訪れ、信長に城内を案内され、その様子を克明(こくめい)に記録に残しています。

「ゴアにあるサバヨ(インドのゴアにあった宮殿(きゅうでん)で、このときはポルトガルのインド総督部(そうとくぶ)のことです)より大きな規模」、「地上の楽園」とフロイスが呼んだ信長の山麓居館は、その記録から、4階建てであったことが判明(はんめい)します。当時、都には足利義満が建てた3階建ての舎利殿(金閣)があり、これが中に入ることが出来る最も高い建造物でした。従って、信長の山麓御殿は、金閣を上回る当時我が国最高の高さを誇(ほこ)る建造物だったことになります。外観についての記載(きさい)はありませんが、非常に奥(おく)が広い大きな1階があり、その上に2~4階があったことと、各階に縁側(えんがわ)(建物の縁(へり)部分に張(は)り出して設けられた板敷(じ)き状(じょうの通路のことです)があったことも解ります。

岐阜城山麓御殿の跡
現在の岐阜城山麓御殿の跡です。ここに、当時我が国で最も高い4階建ての信長の権力を見せつける立派で華麗(かれい)な御殿が建っていたのです

どのような建物かは、はっきりしませんが、その姿かたちが近い建物が残っています。それが、西本願寺(にしほんがんじ)の飛雲閣(ひうんかく)で、時代的には江戸初期の建物になります。フロイスの記録から、岐阜城の山麓御殿は、金閣や銀閣のような楼閣建築を1、2階のみ住むことが出来るような御殿とし、その上に遊び楽しむための数寄屋(すきや)(和歌や茶の湯、生け花など風流を楽しむための住宅(じゅうたく)様式です)の建物を乗せていたと考えられます。岐阜城段階では、まだ安土城のような石垣の上に直接(ちょくせつ)建物を建てるという発想はなかったのか、まだ技術(ぎじゅつ)的な問題で、石垣の上に建物を建てることが出来なかったのかもしれません。しかし、御殿が奥に広がっていくのではなく、上に展開(てんかい)していくという考え方は、安土城天主に共通します。

滄浪池、聚楽第
滄浪(そうろう)池に臨む三重の建物で、聚楽第(じゅらくだい)にあったものを寛永年間(1624~44)に現在地に移建したと伝えるが確証(かくしょう)はありません。2階は歌仙(かせん)の間といい、周囲(しゅうい)に廻縁(まわりぶち)がついた姿が、岐阜城の山麓御殿のようです。3階は摘星楼(てきせいろう)とよばれています

信長は、室町将軍家の権力の象徴(しょうちょう)である金閣・銀閣を大いにしのいで、その上に出るような建物を建てることで、将軍以上の権力と経済(けいざい)力を持っていることを見せつけようとしたのです。フロイスは、「信長が手に入れた強制(きょうせい)させることができる力を示(しめ)すためと、他の戦国大名以上の力をもっていることを見せつけるため」に築いたと記し、さらに「自分の心をなぐさめ、楽しむため」に作ったと記録しています。この建物は、城下からはわずかにしか見ることが出来ませんでした。少しだけ見える華やかで美しい姿に、人々は近寄りがたさとうらやましさをこめて「信長の理想の国」と呼んだと言います。

フロイスの話を聞いた信長は、「朝廷(ちょうてい)(天皇(てんのう)のことです)も将軍も関係ない。全(すべ)ては信長の指示に従うようになっているので、私が命令したことだけを行えばよい」と言ったと記録されています。フロイスが信長と会って話をした、金閣より大きい建物こそが、後の安土城の「天主」のもとになった建物だったのです。その後、信長は明智光秀の坂本城に天主を、細川藤孝の勝龍寺(しょうりゅうじ)(京都府長岡京市)にも高層の櫓(やぐら)を、そして岐阜城の山上部にも天主を築くなどして、試みと失敗などを繰(く)り返した末に、遂(つい)に安土城天主の築城に取り掛(か)かったのです。

今日ならったお城の用語(※は再掲)

楼閣(ろうかく)
重層の建築物のことです。たかどのとか、高楼と同義(どうぎ)です。室町時代以後、禅宗(ぜんしゅう)が栄えると、中国大陸風の楼閣寺院、茶室などが出現(しゅつげん)します。金閣が好例です。

※縁側(えんがわ)=縁(えん)
我が国独特の構造(こうぞう)で、建物の縁(へり)部分に張り出して設けられた板敷き状の通路のことです。外部から直接屋内に上がる用途(ようと)ももっていました。

数寄屋(すきや)
もともと母屋とは別に建てられた小規模な茶室のことでした。派手(はで)に飾り立てず、内面を磨(みが)いて客をもてなすという茶人たちの精神性(せいしんせい)を反映(はんえい)し、質素(しっそ)ながらも洗練(せんれん)された意匠(いしょう)を取り入れたしゃれた建物の様式です。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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