超入門! お城セミナー 超入門!お城セミナーまとめ【歴史編 Vol.4】

初心者向けにゼロからわかりやすく解説する「超入門!お城セミナー」。私たちが現在当たり前のように見ているお城は、果たして何のために造られ、どのように使われていたのか? そうした改めて問われると答えに困ってしまう「お城の歴史」を紐解く記事をまとめましたので、ぜひ参考にしてください。

“日本初の近世城郭”安土城ってどんな城だったの?

天下統一を進める織田信長がその拠点として築いたのが安土城(滋賀県)。高石垣・金箔瓦・天守の3要素を兼ね備えるとして日本初の城とされていますが、本能寺の変後に本丸が焼失したため、どんな姿だったかは判明していません。

そんな謎に包​まれた安土城の実像を紐解くカギとなるのが、同じ時代に造られた城の数々。石垣も天守も源流となる建造物が存在し、安土城以前に信長が築いた岐阜城(岐阜県)にも近世城郭を志向した跡が見られます。いわば、理想の城を造るために試行錯誤を繰り返し、その集大成となったのが安土城だったのです。

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琵琶湖の内湖である西湖に面した安土城。水上交通の要所に築かれた安土城は、山全体を石垣で囲まれ、天守や御殿を備えた豪壮な城だった(イラスト=香川元太郎)

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第104回【歴史】安土城は本当に日本初の近世城郭だったの?

信長の代わりに“天守が建つ城”を全国に広めたのは誰?

安土城というそれまで存在しなかった“天守が建つ城”を生み出した信長ですが、その完成からわずか3年後、本能寺の変で命を落としてしまったため、自ら天守を全国に広めることはできませんでした。

しかし、その後全国各地に築かれた城で今もその姿が見られるものほとんどは近世城郭ですよね。では、信長が創出した近世城郭は、どのように全国に広まったのでしょうか? そのキーマンこそ、信長の天下統一の野望を受け継いだ豊臣秀吉です。

大坂城天守
秀吉が築いた大坂城天守は安土城よりも一回り大きく、諸大名へのインパクトは絶大だった。現在の天守は昭和初期に再建されたもの

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第109回【歴史】天守が建つ城は、いつ、どのように全国に広がったの?

天守の階段が急勾配なのは何のため?

天守の醍醐味と言えば、見晴らしの良い最上階から眺める絶景! その最上階までたどり着くには階段を登る必要がありますが、現存天守や木造復元天守の階段は現代家屋と比べて階段の勾配が急で、一段一段も高い…。体力的にもキツイし、なかには恐怖心を感じる人もいることでしょう。

では、どうして天守の階段はこんなに急なのか? 敵に攻めにくくさせるため? その理由を理解するには、天守が何のための建物だったのかを知る必要があります。

天守内の階段
天守内の階段は傾斜がきつい上に幅も狭いので、しばしば渋滞の原因となる。写真は彦根城(滋賀県)天守

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第101回【歴史】天守の階段はなんであんなに急勾配なの?

学問で戦の理論を極めれば、難攻不落の城を造ることはできる?

権威のシンボルであり軍事拠点でもある城は、戦のない泰平の世となった江戸時代になってからも造られました。そしてその中には、戦国時代の戦の方法を理論的に体系化した「軍学」という学問を駆使して縄張された城もいくつかあります。

でも、本当の戦を経験していない軍学者が考えた理論に基づいた城は、実際の合戦で役に立つのか? そんな素朴な疑問を解決すべく、全国にある「軍学の城」の構造と歴史に注目してみましょう。

赤穂城大手門と大手櫓
赤穂城大手門と大手櫓(復元)。『忠臣蔵』で有名な赤穂城は、山鹿流軍学者・近藤正純が縄張をひいた「軍学の城」であった

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第92回【歴史】戦術研究の第一人者でも、難攻不落の城を造れるとは限らない!?

城跡が地中から発掘されるのはなぜ?

駿府城(静岡県)の天守台跡から豊臣秀吉が家臣に築かせたとみられる天守台の石垣などが見つかったり、また、京都御苑内から秀吉の“幻の城”と呼ばれる京都新城(京都府)の石垣と堀跡が見つかるなど、発掘調査による城の新発見が近年相次いでいます。

でも、こうしたニュースが流れるたびに「かつては堂々とそびえていた巨大な城が、なぜ土に埋もれているのか」と疑問に思う人もいるのでは? 遺構や遺物が地中に埋もれてしまうのは、自然的、そして人為的な要因があります。

岐阜城山麓居館跡
岐阜城山麓居館跡の発掘現場の様子。織田信長の居館跡かどうか、調査をもとに議論が進んでいる。近年、全国的に城跡の発掘調査が盛んだ

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第96回【歴史】令和の時代に城跡が「新発見」される理由とは?

日本式の城郭が国外にも存在する!その理由は?

軍事と政治の拠点として全国に数万もあったとされる日本の城。海に囲まれた日本では、攻めてくる敵として想定されていたのはほとんどが日本国内の勢力でしたが、実は外敵に対抗するため“日本人が造った日本の城”が、なんと日本国外にあったのです。その名は「倭城」!

では、なぜ国外に日本式の城が築かれたのか。その背景には、豊臣秀吉が行った文禄・慶長の役が大きく関係しています。また、倭城に使われた技術は、文禄・慶長の役後の日本の城郭にも大きな影響を与えたのです。

泗川城
慶長の役で築かれた泗川城(しせんじょう・サチョンウェソン/慶尚南道泗川市)。島津軍が明・朝鮮連合軍と戦った泗川の戦いの舞台で、城門が復元されている

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第102回【歴史】国外にも日本人が造った城があるって本当?

▼今回紹介した記事はこちら
第92回【歴史】戦術研究の第一人者でも、難攻不落の城を造れるとは限らない!?
第96回【歴史】令和の時代に城跡が「新発見」される理由とは?
第101回【歴史】天守の階段はなんであんなに急勾配なの?
第102回【歴史】国外にも日本人が造った城があるって本当?
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第109回【歴史】天守が建つ城は、いつ、どのように全国に広がったの?

執筆/城びと編集部

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