光秀は天正3年(1575)6月の時点で信長から丹波攻めの大将を命じられたが、本連載の前回のところでみたように8月には越前攻めに向かっており、実際に動き出すのは少しあとのことになる。
『信長公記』に、越前平定後の9月2日に柴田勝家が越前8郡を与えられたとあるのに続けて、「惟任日向守直に丹波へ相働くべきの旨に候」とある。そして同年11月に入り、光秀は兵を率いて但馬の竹田から丹波の氷上郡に攻め入り、荻野直正(赤井悪右衛門)の拠る黒井城(兵庫県丹波市春日町)を攻めはじめている。
こちらの記事は会員限定です。
城びと会員登録(無料)をすると
続きをお読みいただけます。