天正3年(1575)5月の三河長篠・設楽原(したらがはら)の戦いには光秀は出陣していない。信長は武田勝頼を破ると6月17日に岐阜城に凱旋したが、兵を少し休ませただけで8月12日には早くも越前に向けて出陣している。
越前は朝倉氏が滅亡したあと、朝倉氏遺臣の前波(まえば)吉継が桂田(かつらだ)長俊と名を変え、信長から越前守護代として支配を任されていたが、長俊の横暴さがエスカレートしたことで、不満をもつ者が増え、同じ信長の寝返り組の一人で府中城将となっていた富田長繁との争いがはじまった。
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