2023/01/25
逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第19回【真田信之】真田信繁の兄・信之は地味だけど功労者!
「逸話とゆかりの城で知る!戦国武将」。第19回は真田昌幸の嫡男で、真田信繁(幸村)の兄、真田信之(信幸)です。「表裏比興」とあだ名される天才策士・昌幸&ドラマにゲームに大活躍の信繁とちがい、あまりキャラクターの立っていない信之ですが、じつは真田家存続の最大の功労者なのです。
沼田城に立つ真田信之・小松姫夫婦の像。(沼田市役所観光交流課)
真田家を揺るがした沼田領有問題
真田信之は、武田家に仕えた国衆・真田昌幸の長男で、永禄9年(1566)、武田の本拠地である甲斐国甲府で生まれました。1歳下の弟、信繁(幸村)は、大坂の陣の際に真田丸で奮戦したことで有名です。
信之の初陣は、徳川軍の大群が真田の居城・上田城(長野県)を攻めた第一次上田合戦とされています(諸説あり)。武田家の滅亡後、真田家は転々と主家を変え、最終的に徳川家康に仕えることになります。家康はさっそく、沼田城(群馬県)を返すよう真田昌幸に申し出ます。当時、家康は北条氏と旧武田領をめぐる戦いの和睦交渉を行なっていましたが、その条件に沼田城の返還があったのです。しかし沼田城は、昌幸が武田勝頼の指令で攻略した城。昌幸は引き渡しを断固拒否して、上杉景勝に従属してしまいます。これに怒った家康が、上田城を攻撃したのが第一次上田合戦です。この戦いで信之は上田城からほど近い戸石城(長野県)に陣を構え善戦。戦は真田家の勝利に終わります。
同じ頃、京では豊臣秀吉が勢力を拡大していました。昌幸もこれに目をつけ、信繁を秀吉の元に送り込みます。一方、家康も秀吉から臣従を迫られ、これを承諾。すると秀吉は、昌幸に家康の与力となるよう命じ、昌幸はしぶしぶ命令に従います。このとき、徳川・真田両家の結束の証として、徳川四天王のひとり本多忠勝の娘で、家康の養女だった小松姫が、信之の正室として迎え入れられました(これも秀吉の命令だという説もあります)。
この「小松姫の婿取り」にはこんな逸話が残っています。勇猛果敢な忠勝の娘というのもあり、小松姫は気性が荒いじゃじゃ馬でした。姫の婿取りの際、忠勝は名だたる武将の男児を集め、「この中から婿を選べ」と姫に言います。すると姫は、彼らの髷を掴み、顔を観察して周っていきます。男たちは忠勝の前で萎縮してしまい、されるがままです。信之の番が来た時、信之は姫の手を扇で叩き「無礼だ」と叱ります。姫は忠勝の前でも毅然とした態度をとる信之を気に入り、二人は結ばれることになったといいます。
さらに秀吉は、せっかく守り抜いた沼田城を、北条氏に返還するよう命じます。ただし、秀吉は沼田城の支城である名胡桃(なぐるみ)城(群馬県)は真田が領有して良いと認めました。これは沼田領の約3分の1にあたる規模だったので、昌幸は応じることにしました。
しかし北条氏はこれを無視し、名胡桃城を乗っ取ります。これを機に、秀吉は小田原攻めを決意。真田家も豊臣軍の一員として、松井田城(群馬県)を攻略します。北条氏は滅び、沼田城は再び真田家のものとなりました。以来、信之は沼田城に移り前半生をこの地で過ごすこととなります。
小田原攻めのきっかけとなった名胡桃城の横堀
涙の「犬伏の別れ」が真田家存続を決定づけた
秀吉が病死すると、五大老筆頭の家康と、五奉行の石田三成の対立が激化。関ヶ原の戦いに発展します。信之は義父の本多忠勝に従い東軍に。一方弟の信繁は、三成の親友、大谷吉継の娘をめとっていた縁から、西軍につきます。真田家がどちらにつくか、昌幸・信之・信繁の3人は犬伏(栃木県)の地で夜通し話し合います。結果、信之が「東軍・西軍どちらが勝っても真田家が存続するよう、私だけ東軍に着く」と提案。信繁は抵抗しますが信之の決意は固く、家族3人はここで今生の別れとなります。
こうして迎えた関ヶ原の戦い。昌幸・信繁親子は上田城に籠城し、徳川秀忠の軍を翻弄します(第二次上田合戦)。しかし関ヶ原本戦で西軍は大敗。結果的に「犬伏の別れ」は功を奏し真田家は存続できました。
秀忠軍を追い込んだ昌幸・信繁は、斬刑の危機に陥ります。すると信之は家康に「父を殺すなら、まず私に切腹を命じてください」と懇願。その覚悟に心打たれた本多忠勝も真田父子の助命を嘆願したため、昌幸・幸村は九度山(和歌山県)への流罪に処され、命はとられずに済みました。信之は真田家の当主となり、「信幸」から「信之」に改名。以降、徳川家への忠誠を誓うのでした。
「犬伏の別れ」が行われたとされる新町薬師堂
しかし大坂の陣が起こると、信繁は九度山を脱出し、真田丸で徳川軍を撃破。再び徳川と真田の板挟みになった信之は、あらぬ疑いをかけられぬよう、病気の身を押して出陣しようとします(結局家臣に引き止められ、代わりに嫡男を戦場に送り込みます)。
その後も、真田の裏切りをでっちあげた間者を討ち取ったり、所領の岩櫃(いわびつ)城(群馬県)の城下が発展し嫉妬されると、自ら岩櫃城を破却し町を移転させたりと、徳川家に目をつけられぬよう気を使い続けました。しかしながら信之は、秀忠に松代への転封を命じられてしまいます。信之は父・昌幸から継いだ上田の地を泣く泣く離れ、松代城(海津城。長野県)へ移ります。信之が54歳の時でした。
その後、信之は91歳まで松代藩主を務めます。もはや戦国時代を知る長老がほとんどいなかったため、幕臣から「天下の飾り(将軍家を支える者)」として隠居を引き止められていたそうです。ようやく隠居できたかと思いきや、今度は信之の孫たちが家督争いを始めてしまいます。信之は老体に鞭打ちこれを収めますが、この騒動を機に体調を崩し、93歳で亡くなりました。
父・昌幸と弟・幸村が戦国武将として「自らの名」を残した陰で、信之は「真田家の名」を残すため、生涯苦心しました。その甲斐あって、真田家は明治時代まで松代藩主として存続できたのです。
信之が破却した岩櫃城。城自体が破却された理由は「一国一城令」とされている
信之の居城と攻めた城
【居城】沼田城(群馬県沼田市)
もとは北条氏の北関東支配の拠点の一つでしたが、真田昌幸が無血開城しました。昌幸が九度山に流罪となるまでは、信之が城主となり、5層の天守を建てたそうです。信之の孫にあたる信利の代に真田家は沼田領を没収されます。
沼田城の西櫓台の石段。沼田城は明治時代に廃城となるも、本丸にはこのような石垣が残っている
【居城】松代城(長野県長野市)
真田信之が松代藩に移封後、居城とした城。もとは武田氏が越後攻略の拠点としていた城で、当時は「海津城」と呼ばれていました。千曲川から引いてきた水を使った水堀で防備を固めています。現在は建物が復元されており桜の名所としても知られています。
松代城の水堀と復元された城門。真田家率いる松代藩はこの城を拠点に約300年間繁栄した
【攻めた城】松井田城(群馬県安中市)
豊臣秀吉の小田原攻めの際、真田昌幸・信之が攻めた城。このとき、真田家の名目(大将)は昌幸ではなく信之でした。城主・大道寺政繁の激しい抵抗に遭い、落城まで1ヶ月の期間を要しました。
鎌倉時代に原型がつくられた松井田城だが、大道寺政繁によって大規模な改修が行われた
執筆・写真/かみゆ歴史編集部(中村蒐)
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。主な制作物に、戦国時代を地方別に紹介・解説する『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』(朝日新聞出版)や、スタンプ帳付の子ども向けお城入門書『戦国武将が教える 最強!日本の城』など。