理文先生のお城がっこう 歴史編 第54回 秀吉の城6(聚楽第の造営)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。これまで豊臣秀吉が築いたお城の特徴について見てきましたが、今回は秀吉が都に築いたお城・聚楽第(京都府京都市)がテーマです。天下統一を目前に戦いに明け暮れていた秀吉は、なぜ京の都に立派なお城を築いたのでしょう? その目的を、聚楽第の歴史に注目しながら見ていきましょう。

天正13年(1585)7月、天皇(てんのう)の命令を伝える公式の文書を受けたことによって「関白(かんぱく)」になった豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、翌年(よくねん)から平安京跡地(あとち)の「内野」の地で築城(ちくじょう)工事を開始しました。『多聞院(たもんいん)日記』には「21日から内野の城の普請(ふしん)を諸国(しょこく)の大名に命じた」とあります。同年6月には作事(さくじ)のための大量の材木が、四国や東国から運搬(うんぱん)されたことも記録されています。

築城工事の最中の同14年(1586)9月には、正親町(おおぎまち)天皇より豊臣の姓(せい)を賜(たまわ)り、太政大臣(だじょうだいじん)の職務(しょくむ)に就(つ)いたことにより、豊臣政権(せいけん)が誕生(たんじょう)しました。翌15年(1587)秀吉は「内野御構(うちのおかまへ)」「内野御屋敷(おやしき)」等と呼ばれていた城館を初めて「聚楽(じゅらく)(楽しみを聚(あつむる))」と呼んでいます。同年には、いろんな場所にあった庭石や植木を強制的(きょうせいてき)に取り上げ、庭園を造(つく)り、九州平定が完了(かんりょう)したのを待って大坂城(大阪府大阪市)から聚楽第(京都府京都市)へと移(うつ)り住んだのです。今回は、聚楽第の造営(ぞうえい)から廃城(はいじょう)までの歴史(れきし)をまとめてみたいと思います。

聚楽第復元図
聚楽第復元図(作図:森島康雄)
発掘調査成果を中心にして、文献・絵画資料も用いて堀の位置を推定した図になります。本丸南堀の石垣も推定位置で見つかりました

造営の目的は

秀吉が都に聚楽第を築(きず)いたのは後陽成(ごようぜい)天皇を秀吉の私邸(してい)にお招(まね)きしもてなすためだと言われています。その願いがかなったのは同16年(1588)の春のことでした。秀吉は、天皇の前で諸大名(しょだいみょう)に秀吉を主君として仕えることを誓(ちか)わせる起請文(きしょうもん)(契約(けいやく)を交わす際(さい)、それを破(やぶ)らないことを神仏(しんぶつ)に誓う文書です)を出させたのです。これによって諸大名の上に関白秀吉が位置し支配(しはい)する体制が広く知れ渡(わた)り、豊臣政権が成立したことを誰(だれ)もが理解(りかい)したのです。

これ以後、聚楽第は関白が政治(せいじ)を行うための場所としての役目を果たすことになります。諸大名は言うまでもありませんが、ポルトガル副王、李氏朝鮮(りしちょうせん)などの外国使節との対面も聚楽第が使用されるようになります。教科書にも載(の)っている、百姓(ひゃくしょう)たちの武器(ぶき)を取り上げて百姓に専念させるための「刀狩令(かたながりれい)」もこの年に出されています。

聚楽第址
「聚楽第址(あと)(此付近大内裏及聚楽第東濠跡)」石碑(せきひ)(上京区中立売通大宮北西角)。平成21年(2009)に建立(こんりゅう)された、聚楽第の東堀(ほり)の跡(あと)に建てられた石碑になります

聚楽第址
「此付近 聚楽第址(此附近聚楽第本丸西濠跡)」の石碑。上の写真の石碑から300m西の中立売通裏門西南角にある石碑です。これら2つの石碑の間に聚楽第の主要部があったということになり、おおまかな城の広さがわかります

翌17年(1589)3月、秀吉は弟秀長(ひでなが)が改修した(よど)(淀古城、京都市伏見区)を、秀吉の子供(こども)を妊娠(にんしん)した側室の茶々(ちゃちゃ)に与え、出産をする城としました。前の年より進められていた京都の大仏殿(だいぶつでん)の建立も急ピッチで進められ、大仏の鋳造(ちゅうぞう)が始められることになります。この頃、聚楽第の門の屯所(とんしょ)(警備(けいび)兵の詰所(つめしょ))の白壁(かべ)に、秀吉の政治を批判(ひはん)する落首(らくしゅ)(匿名(とくめい)の世を批判する落書き)が書かれました。(はげ)しく怒(おこ)った秀吉は、当夜警備を担当(たんとう)していた17名の番衆(ばんしゅう)の鼻を削(そ)ぎ、耳を切り落とし、磔(はりつけ)にして処刑(しょけい)します。その後、容疑者2名が自害、それでもおさまらない秀吉は彼(かれ)らの関係者60名以上を京都六条河原(ろくじょうがわら)で磔にしたのです。

そうかと思えば聚楽第に一族・公家(くげ)・大名を集め、南二の丸馬場で「金配り」を行いました。記録により枚数(まいすう)は異(こと)なりますが、『鹿苑(ろくおん)日記』(京都鹿苑院の歴代(れきだい)僧録(そうろく)の日記)によれば、金6千枚、銀2万5千枚が分配されたと記されています。翌週には、待望の男子が誕生します。「棄(すて)」と名付けられ、やがて鶴松(つるまつ)と呼(よ)ばれるようになります。当初、母の淀殿(よどどの)(茶々)と淀城で暮らしていましたが、4ヶ月後に大坂城へと移され、秀吉の後継者(こうけいしゃ)となることを内外に示(しめ)すことになったのです。

天正18年(1590)、20万を超(こ)える軍勢(ぐんぜい)小田原城(神奈川県小田原市)を取り囲(かこ)み、小田原北条(ほうじょう)氏を降伏(こうふく)させると、引き続き奥州(おうしゅう)(ぜ)めを行い、翌年までに完全に従(したが)わせました。この合戦により、長かった戦国時代が終わりを告(つ)げ、秀吉による統一(とういつ)がなされたのです。戦いに勝って都に戻(もど)った秀吉は、聚楽第で茶会を催(もよお)し、その後有馬(ありま)温泉に湯治(とうじ)(温泉で疲(つか)れを癒(いや)すことです)に出向いています。翌19年(1591)、秀吉を補佐(ほさ)し続けて来た弟秀長が病気で亡(な)くなると、政権の中で次に権力(けんりょく)を誰が握(にぎ)るかで激しい争いになり千利休(せんのりきゅう)が切腹(せっぷく)を命じられたりしました。

聚楽第では、城の周囲に秀吉に従った諸国の大名屋敷が建てられ、聚楽第から内裏(だいり)(天皇のお住まいのことです)までが東西に連なったのです。併(あわ)せて、御土居(おどい)(敵(てき)の襲来(しゅうらい)に備(そな)えたり、鴨川(かもがわ)の氾濫(はんらん)から町を守ったりするために秀吉によって築かれた堀(ほり)と土塁(どるい)による総構(そうがまえ)のことです)(づく)りが開始され、聚楽第を中心とした「洛中惣構(らくちゅうそうがまえ)(京都を囲む土塁のことです)」が完成を見ることになります。

このうえなく、最高の状態(じょうたい)を迎(むか)えていた秀吉ですが、夏になると鶴松が3歳(さい)でこの世を去ってしまいました。秀吉は、その悲しみを振(ふ)り払(はら)うように唐(から)入り(朝鮮(ちょうせん)出兵)計画を命じ、そのための本拠地(ほんきょち)とする城として肥前(ひぜん)名護屋(なごや)(佐賀県唐津市)を建てさせました。年末には、秀吉が関白の位とともに、政治を行っていた聚楽第までも甥(おい)の秀次に譲り渡しますが、「太閤(たいこう)」として権力は持ち続けていました。

聚楽第址、御土居長坂口
御土居長坂口。現在、堀は埋(う)め立てられ土塁のみ残されています。長坂口は、千本通から丹波桑田群(たんばくわだぐん)、若狭(わかさ)に通じていました。長坂は、鷹峯(たかがみね)~京都峠(とうげ)への坂道を指します

聚楽第を譲られた秀次は、文禄(ぶんろく)年間(1592~96)に間取りの変更(へんこう)や建て替(か)えを行うとともに、北之(の)丸が新たに造られたと考えられています。しかし、文禄2年(1593)に第2子拾丸(ひろいまる)(後の秀頼(ひでより))が誕生すると、秀吉は関白秀次の娘と婚約させ、秀吉から秀次、そして秀頼へと、政権が上手く受け継(つ)いで行くようにと計画します。

そうした中、文禄4年(1595)、秀吉は突然、謀反(むほん)(君主にそむいて兵を挙げることです)の罪で、秀次を高野山(こうやさん)へ追い払い、切腹を命じます。これは、秀頼に関白を継がせるためだと、ずっと言われてきました。近年この説に対し、秀吉は秀次に高野山行きを命じてもおらず、切腹も命令していないとの説が有力なようです。秀次が自分の無実を証明(しょうめい)するために高野山へ逃(に)げ、そこで抗議(こうぎ)の切腹をしたのが真相ではないかという考えです。現職(げんしょく)の関白の切腹という前代未聞の大事件(じけん)から豊臣政権を守るために、秀次事件が考え出されたということです。

聚楽第址、石碑
「此付近聚楽第南外濠跡」の石碑。石碑が建つ松林寺(しょうりんじ)の境内(けいだい)の落ち込(こ)みは、聚楽第の遺構(いこう)としてよく紹介(しょうかい)される場所になります。門前から境内まで1.5m程(ほど)落ち込んでいます

謀反をたくらんだ関白の城ということで、聚楽第は秀吉の命で徹底的(てっていてき)に壊(こわ)されてしまいます。聚楽第とその周囲に築かれていた大名たちの屋敷の建築物の多くは、文禄元年に秀吉が隠居(いんきょ)後の住まいとするため建設を始めていた伏見(ふしみ)(指月(しげつ)京都府京都市)に移築(いちく)されたようです。豊臣政権の成立を見た聚楽第は、10年足らずで地上から完全に姿(すがた)を消してしまいました。聚楽第を壊した頃(ころ)を境にして、秀吉の勢(いきお)いが少しずつ衰(おとろ)えを見せるようになってくるのです。

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※作事(さくじ)
天守や櫓(やぐら)・城門や塀(へい)などを建てる建築工事(大工仕事)のことです。近世城郭(じょうかく)を建てる場合は、作事が築城工事の中心でした。

御土居(おどい)
豊臣秀吉が、戦乱(せんらん)で荒(あ)れ果てた京都の都市改造(かいぞう)の一環(いっかん)として外敵の来襲(らいしゅう)に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街を守る堤防として天正19年(1591)に築いた土塁です。総延長は22.5㎞にも及(およ)びます。

次回は「秀吉の城7(聚楽第の姿)」です

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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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