2021/11/04
都道府県のお城シリーズ 【香川県のお城】灯台の代わりになったお城も!?四国と本州を結ぶ交通の要衝にあるのはどんなお城?
四国と本州を結ぶ海上交通の要衝の香川県。三大海城の一つである高松城(高松市)はもちろん、海城でもあり山城でもある引田城(東かがわ市)や、現存12天守の一つで見事な高石垣を有する丸亀城(丸亀市)など見ごたえ十二分なお城がそろっています。『日本書紀』にその名が登場する古代山城・屋島城(高松市)があるのも香川県!各城の見どころをぎゅぎゅっと凝縮してご紹介します。
香川県にあるお城は?
瀬戸内海の東側にある香川県は海を挟んで本州に近く、四国と本州を結ぶ海上交通の要衝として今日まで栄えています。海岸沿いには、戦国時代から江戸時代にかけて、たくさんお城が築かれました。中には、今から1350年くらい前にも築かれたものもあります。同時に、瀬戸内を行き来する船乗りにとって、城は灯台の役割も果たしていました。今回は、船乗りを魅了したかもしれない香川県内の日本100名城・続日本100名城+αをみていきます。
高松城(高松市・日本100名城)
現存する月見櫓(着到櫓)、奥から続櫓・南水ノ手門・渡櫓。奥の道路を挟んで、海が広がります
築城前の高松は「野原」という地名で、瀬戸内海を挟んで本州に近い事から港町として栄えていました。四国平定の後、讃岐に入った生駒親正(いこまちかまさ)が天正16年(1588)に新たな居城として築いたのが高松城です。生駒家は後に御家騒動が起こり幕府により改易となりましたが、新たに入った松平頼重・頼常親子によって、城は大幅に改修が加えられ現在の姿になりました。松平家は譜代大名であると同時に長崎警備の重役を幕府から任ぜられていました。そのため、瀬戸内海沿いにある高松城を航路の抑えとして、海を強く意識した縄張りになったのかもしれません。
天守は地階も含む3層5階で最上階が下の階より張り出した「南蛮造り」という特異な構造でした。建物は現存していませんが、ケンブリッジ大学が所蔵している取り壊される直前に撮られた写真に、その雄姿が映し出されています。天守以外にも城には櫓や城門がたくさん建っていました。2代藩主松平頼常が築いた月見櫓と艮櫓(うしとらやぐら)は、それぞれ異なる外観が見られます。
月見櫓は1重目の屋根に切妻造と側面に唐破風が飾られています。さらに、窓の上下には黒色のライン(長押)があり、外装が豪壮に見えます。この櫓は別名・着見櫓と呼ばれ、城内においても一番海側に位置していました。櫓のそばには海へ直接出ることができる城門があり、この櫓は付近を航行する船の監視の役割もあります。一方で艮櫓は外観の飾りが少ないのに対し、1重目に櫓にしては大き過ぎる千鳥破風や石落としが見られ、重厚な雰囲気を漂わせています。
現在三の丸跡には、同場所に約2倍の規模であった御殿「披雲閣」が大正期に再建され披雲閣(ひうんかく)が大正期に再建され、各種イベントに利用されています。そして今年、2021年より、城の南側にあり戦時中の戦災により焼失した桜御門の復元工事が本格化しました。まもなくもう一つ城門が復活しそうです。
▼高松城に関する記事はほかにも!
・萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第37回 高松城 瀬戸内海に面した、タイが泳ぐ海城(https://shirobito.jp/article/1206)
所在地: 香川県高松市玉藻町2-1
アクセス:JR高松駅から徒歩で3分
楽しみ方:内濠から天守を眺められる城舟(じょうせん)体験ができます。※冬期12月~2月の3か月間は運休。
引田城(東かがわ市・続日本100名城)
写真:ぴーかるさん
讃岐で一番東の端にある引田は阿波との国境に接しており、国や海上や陸上交通を守る上で重要な拠点でした。引田城は、戦国時代に豪族の四宮氏による築城が始まりと伝えられます。矢野氏を経て、本能寺の変以降に漫画『センゴク』(宮下英樹 講談社)の主人公としても知られる、仙石秀久が入ります。しかし秀久は天正14年(1586)、豊臣秀吉の命により大友氏の援軍として上陸した豊後戸次川(大分県)において、島津軍の目の前で逃走してしまいました。秀吉の怒りを買った秀久は高野山へ追放になります。次に讃岐一国を任された生駒親正が城に入り、入り、ほどなくして聖通寺城(綾歌郡宇多津町)に居城を移しますが、元和元年(1615)の一国一城令まで引田城は使われました。
播磨灘に突き出た半島に築かれた引田城は、2つの大きな南北の尾根に曲輪が展開しています。間に挟まれた谷には、城内の生活用水を確保するための施設が整えられていました。現在も、その水の手と思われる場所に「化粧池」が残されてあります。
南側の尾根にある天守台は阿波がある東に向けられ、また引田の港が一望できる事から、この城がいかに東の守りを意識していたかがわかります。
城の北側の曲輪、「北の郭」と呼ばれる区画には石垣が残されています。この石垣は上下2段で自然の石を加工せずそのまま積み上げた野面積みと呼ばれる技法で築かれたものです。このうち北二の丸跡の石垣はおそらく秀久や親正がいた頃に築かれたと考えられ、石垣の形式として県内最古クラスに分類されます。
元和の一国一城令によって城は廃城になりましたが、その後も引田は港町と醤油業で栄え、現在も町のあちこちに古い町並みが残り、その面影をとどめています。
▼引田城に関する記事はほかにも!
・【続日本100名城・引田城】織豊時代の石垣と化粧池が残る断崖絶壁の海城(https://shirobito.jp/article/764)
所在地:香川県東かがわ市引田
アクセス:JR引田駅より徒歩20分
楽しみ方:往時の雰囲気が漂う情緒たっぷりな城下町も必見です。
丸亀城(丸亀市・日本100名城)
丸亀城跡に残る天守と高さ20mを越す高石垣
丸亀城の歴史は高松城を築城した生駒親正が、亀山を領国の西の抑えとして、山に支城を整備したのを始まりとしています。築城は、当初岩山だったのを石垣で全体を覆う程の大工事でした。城は元和の一国一城令により一旦は廃城になりましたが、肥後天草から山崎家治が入った寛永20年(1643)から再建に着手、さらに後から入って来た京極高知(きょうごくたかかず)によって完成します。
丸亀城の特徴は何といっても、石垣の美しさ!しかも最も高い所で21mもあります。現在残る石垣の殆どは、山崎氏~京極氏にかけて築かれました。技法は熊本城にも見られる最初勾配が緩く、上に行くほどきつくなる「扇の勾配」と呼ばれる技法です。また、一部には生駒氏が当初築城した時期の石垣も残っており、幅広い時期の石垣を見る事ができます。
この美しい石垣は、平成30年(2018)の豪雨により、二の丸南西側が大規模に崩壊しました。現在も復旧工事が進められています。早く元通りの高く美しい石垣を再び見たいものです。
山頂には、3重3階の天守が現存しています。この天守は建物内にある棟札から、京極氏によって万治3年(1651)に建てられた四国最古の建物であることがわかります。現存12天守の一つ。建物は高さ約15m。外観は城下町が広がる北側に向いて最上層の窓には格子、1重目に石落としや各層の屋根に破風がつけられ重厚に見えます。反対に城下から見えない部分では、飾りが殆ど使われていません。また通常城下に対して、最上層の三角の入母屋屋根を見せないのですが、ここでは敢えて見せることで、城下から天守を見た時に大きく見せようと工夫した事がわかります。
麓の三の丸には、丸亀市立資料館があり丸亀藩の歴史を伝えています。かつて丸亀は金毘羅宮の入り口として参詣客で賑わっていました。現在周辺は海岸が埋め立てられるなど景観が失われつつありますが、一部に武家屋敷など城下町の名残をとどめています。
▼丸亀城に関する記事はほかにも!
・現存12天守に登閣しよう 【丸亀城】瀬戸内を守る海城(https://shirobito.jp/article/572)
所在地:香川県丸亀市一番丁
アクセス:JR丸亀駅から徒歩約10分
楽しみ方:城内にある丸亀市立資料館では、丸亀城や城下町、歴代藩主に関する絵図や古文書などを見ることができます。
屋嶋城(高松市)
写真:まっつんさん
源平合戦の舞台となった屋嶋は、島の頂上が平らで台形のフォルムをしていることから、高松のシンボルとなっています。その屋島には、源平合戦や戦国時代よりはるか昔に、城が築かれていたのです。
天智2年(663)、今の韓国で白村江の戦いが起こりました。この戦いで日本軍は、百済と共に唐・新羅と戦うことになります。結果日本は大敗、百済は滅亡という散々なものでした。次に唐・新羅が日本へ攻めてくる事を恐れた朝廷は、亡命してきた百済の技術者を招いて瀬戸内海沿いや九州北部に城を築きました(古代朝鮮式山城)。屋島には『日本書紀』によると、天智6年(667)に「屋嶋城(やしまのき)を築いた」とあります。
城は古くから文献には出てくるもの、存在自体は不明でした。近年の研究や発掘調査では、大規模な土塁や石積が見つかっており、その実態が解明されつつあります。
屋島城は、北と南にある2つの大きな山を使って、南北5km×東西3kmにわたって展開しました。このうち現在遺構として確認されているのは南側の標高100mにある浦生地区です。この時代の城は範囲も広く普段我々が目にするお城ともイメージが異なりますが、江戸時代の城と共通する箇所がいくつもあります。
まずは、高い石積み。特に懸門(けんもん)とよばれる城門は、入口の段差が約2.5mあります。通常は段差のところにはしごをかけ、イザとなったらはしごを外したと考えられています。屋島城には、城門が2カ所設けられていました。現在、発掘調査により南側の城門付近が復元されています。
次に城門を越えた所にある、甕城(おうじょう)と呼ばれるしかけです。これは敵がまっすぐ進ませないように、カギ状に通路を曲げたものです。
このように、普段私達が目にする城跡と比べて異なっていますが、石積みや枡形状の通路など、よく見ると戦国から江戸時代のお城に似ている箇所がいたるところに見えます。まさに屋島城をはじめ古代山城は、日本のお城造りの原点ともいえるのではないでしょうか。
▼屋島城に関する記事はほかにも!
・超入門! お城セミナー 第55回【歴史】日本の古代にお城があった!? 謎多き「古代山城」って?(https://shirobito.jp/article/700)
所在地:香川県高松市屋島東町屋島山上
アクセス:JR屋島駅又は琴電屋島駅から屋島山上までシャトルバスあり
楽しみ方:事前に無料アプリ「甦る屋嶋城」をスマートフォンやタブレット端末にダウンロードしておくと、最新技術でよみがえった屋島城を現地で楽しむことができます。
執筆・高松城および丸亀城の写真/井川 藍太郎(いかわ らんたろう)
四国出身九州在住の城郭ライター。本名で『歴史群像』戦国の城シリーズや各種雑誌で論文等を執筆。ブログ「藍太郎が行く!」(https://ameblo.jp/irantaro)。