超入門! お城セミナー 第55回【歴史】日本の古代にお城があった!? 謎多き「古代山城」って?

お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは古代山城(こだいさんじょう)。飛鳥〜奈良時代に出現した石垣の山城・古代山城が、なんのために造られたのか。そして、その技術はなぜ後世に受け継がれなかったのか。謎多き古代山城について解説します。


岡山県、鬼ノ城
岡山県鬼城山上に築かれた鬼ノ城。山頂全体にめぐらされた土塁と石垣は、圧巻の迫力だ

古代山城は白村江の敗戦による危機感から造られた

「石垣の城」と聞くと、江戸時代まで日本全国に築かれた、天守がそびえる近世城郭のことを思い浮かべますよね。城といえば土造りが当たり前だったころ、織田信長が総石垣の安土城(滋賀県)を築いて、見る者の度肝を抜いた…。そう、石垣の城は、安土桃山時代の安土城がパイオニアとなって普及していったはず。ところが日本には、古代にも石垣を使った城があったのです。でも、それなら安土城を見てみんながそれほど驚くこともないはずです。これは一体どういうことなのでしょうか? 

ということで今回は、古代日本に確かにあった、石垣を使った城「古代山城(こだいさんじょう)」の正体と、その歴史についてご紹介します。

古代の日本にあった石垣を使った城は、「古代山城」と呼ばれます。字のごとく、その立地は山。記録が残っていない城が多いのですが、築城は飛鳥時代から奈良時代ごろ。天智天皇や天武天皇が為政者だったころで、これが日本で初めての本格的な築城となります。


古代山城は現在日本に何城あるのか。そして古代山城が必要だった理由


現在確認されている古代山城は、28城。その分布は、九州の北部から瀬戸内海沿岸、そして近畿まで。なぜこの時代の日本の、これらの地域に本格的な城が必要だったのでしょうか?

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主な古代山城一覧。古代山城は太宰府や畿内を守るように、九州から瀬戸内を中心に築かれていた

それには、当時の朝鮮半島情勢が関係していました。7世紀頃の朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅の3か国が争っていましたが、新羅は大国の唐(中国)と組んで百済を攻め滅ぼします。百済は国を復興させるため、建国当初から友好関係が続いていた倭(日本)に援軍を頼みます。当時の天皇は斉明天皇で、摂政として政治を行っていたのは、皇太子である中大兄皇子(のちの天智天皇)。百済への援軍を決定して大軍を派遣しますが、唐・新羅の連合軍に大敗してしまいます。これが世にいう白村江(はくそんこう)の戦い(663年)。こうなると、この機に乗じて唐・新羅が倭国にも攻め入ってくるかもしれません! これを防ぐために、白村江からいっしょに撤退してきた百済の人たちの監修のもとで築かれたのが、古代山城なのです。

中大兄皇子
白村江の戦いを主導した中大兄皇子(『古今偉傑全身肖像』より/国立国会図書館蔵)

ではあらためて、古代山城の分布を見てみましょう。まず、大陸側から倭国への入口である博多湾と、大和朝廷のお役所があった太宰府を中心に、九州北部に10城以上がギュッと固まっています。この辺りには、丘と丘の間に土塁と水堀を築いて遮断線とした水城(みずき)や、小規模な小水城(しょうみずき)も築かれています。そこから、政権の本拠地である畿内までの最短航路である瀬戸内海沿岸の要所に点々とあり、畿内が終点となっています。なるほど、大陸からの侵略に備えた国防用の城だということがよくわかります。

西国、地方行政、太宰府
西国の地方行政を担った太宰府。水城や大野城などはここを守るように築かれていた。現在、太宰府跡に建物などは残っていないが、政庁跡が平面復元されている

古代山城のうち、『日本書紀』などの公的な歴史書に記載があるものを「朝鮮式山城(ちょうせんしきさんじょう)」、記載がないものを「神籠石系山城(こうごいしけいさんじょう)」と呼んで区別しています。神籠石とは、もともとは神が宿る巨石や磐座(いわくら)などを指すものですが、神籠石系山城が発見された当初、城郭説と霊的な聖域を区別する霊域説で論争となった経緯があり、この呼び名はその名残のようなもの。城の造りはどちらも同じだそうです。


シンプルな縄張と堅固な版築土塁・石垣が特徴

では、その構造を見てみましょう。中世の山城は、たくさんの曲輪を備えた複雑な縄張になっていますが、古代山城は山上にドンと大きな曲輪をひとつ設けて、その周囲をぐるりと囲んだシンプルな縄張になっています。周囲を囲んだ城壁は、土塁が主体。こちらも、臨時的な施設だった中世山城のやや大ざっぱな土塁とは違い、板などで囲んだ枠の中に土を詰め、たたいて突き固めることを繰り返した、版築土塁(はんちくどるい)だったようです。

鬼ノ城、城門
復元された鬼ノ城の城門。版築の基礎上に櫓を備えた堅固なつくりだ

ではどこに問題の石垣が使われていたのかというと、やはりこの城壁部分。国防の最前線である対馬の金田城(かなたのき・かねだじょう/長崎県)は全体が高石垣造りですし、太宰府を守る大野城(おおののき・おおのじょう/福岡県)も、「百間石垣」など高石垣が多用されています。鬼ノ城(きのじょう/岡山県)も、絶壁に連なる大迫力の屏風状の石垣が特徴。

大野城、百間石垣
大野城の百間石垣。総延長は約180mで、近世城郭にも劣らない規模である

城によって石垣が占める割合はさまざまですが、土塁が主体のものでも、塁線の谷の部分では水を逃がす水門付きの石垣を高く積んでいることが多いようです。また、屋嶋城(やしまのき・やしまじょう/香川県)のように城門の周りが威圧的な石垣でガッチリ固められている城もあります。いずれにしても高さが5m以上のものも多く、「石積み」と呼ぶような小規模なイメージではない、立派な石垣を備えていました。石材の加工具合や目地の通し方もさまざまで上記の3城は、自然石を積んだ野面積に似ていますし、加工した平たい切石を、横目地を通して積んだ石垣も多いようです。

大野城、大石垣
古代山城の石垣を近くから見てみると、石の形をある程度揃え、横目地を通して積んでいることが分かる。写真は大野城大石垣

結局、唐や新羅が実際に倭国に攻め入る事態までにはなりませんでした。そもそも古代山城は、大和政権が地方の支配を固めるための「国府」の準備段階の施設だったのでは?という意見もあるそうですが、いずれにしてもその必要性が徐々に薄れていき、ついに平安時代にはほとんどが廃城となってしまいました。寺社などに形を変えて利用されたのは良い方で、山中に埋もれて忘れ去られてしまった城もたくさんありました。同時に、せっかく朝鮮半島から伝わったこれほどの石積技術も城造りに継承されることはなく、この後近世まで、高石垣で囲まれた城が誕生することはありませんでした。

お城ブームに乗って、近年各地の古代山城もどんどん整備されています。400年前の城や石垣でもあれほど感動するのに、古代山城の遺構は、なんと1300年前のもの! これだけでも見に行ってみる価値が大いにありますが、ARや歴史講座を通じて積極的に城の魅力を発信している城も増えています。ぜひ一度足を運んでみてください!

神籠石系山城、屋嶋城
神籠石系山城のひとつ・屋嶋城では、2007年から2012年にかけて城壁の修復が行われた。ARアプリも配信されており、利用すると当時の城の様子をよりリアルに体感することができる


執筆・写真/かみゆ歴史編集部
ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。かみゆ歴史編集部として著書・制作物多数。

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