萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第37回 高松城 瀬戸内海に面した、タイが泳ぐ海城

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。37回目の今回は、日本三大海城の一つに数えられる高松城(香川県)。瀬戸内海を望む月見櫓などの現存建造物や、海水が引き込まれている堀など、海城ならではの見どころに注目していきましょう。


高松城
現在は埋め立てられているが、かつては海に面していた

今治城、中津城と並ぶ「日本三大海城」の一つ

高松城は瀬戸内海に面して築かれた海城です。江戸時代初期や末期の絵図を見ると、高松城の北側には瀬戸内海が迫り、城は完全に瀬戸内海に面していました。高松築港駅の脇にある玉藻公園の西入口を入ったところが二の丸で、その東側に三の丸、北の丸、東の丸が並んでいました。本丸は二の丸南側にあり、これらの東・西・南面を内堀が囲み、内側の外側を同心円状に中堀と外堀が囲む構造でした。

内堀と中堀には、水門を通じて海水が引き込まれています。そのため、現在でも堀を覗き込めば、タイが悠々と泳いでいるのが見えます。本丸へは、二の丸からかけられた鞘橋が唯一の経路で、本丸東端には三重四階地下一階の勇壮な天守が建っていました。

高松城、鞘橋
復元された鞘橋。天守台も復元されている

海に面した3棟の現存建造物

高松城は、天正15年(1587)に讃岐一国の領主となった生駒親正により翌年から築かれました。立地を考えると、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)を見越して、瀬戸内海の航路を抑える役割を担っていたのでしょう。

現在の姿へと改修したのは、寛永19年(1642)に12万石で入った松平頼重です。譜代大名により、瀬戸内海航路を押さえる城と城下町として改変され発展したのです。頼重は天守を改築し、北ノ丸・東ノ丸を新造。さらに2代・頼常により延宝4年(1676)に月見櫓(着見櫓)、延宝5年(1677)に艮櫓(うしとらやぐら)が建造されました。この頃、桜の馬場南側にあった大手門が桜の馬場東側に新造された東御門へ移ったとみられます。元禄13年(1700)に三の丸御殿が完成した後は、大きな改変はされなかったようです。

現在は、4棟の建造物が残っています。特徴的なのが、瀬戸内海に面した月見櫓・渡櫓・水手御門の3棟。かつて海城だった頃の面影を残す、高松城ならではの建造物です。北の丸の最北端にある三重三階の月見櫓は、「着見櫓」が本来の名とされる、つまり船の出入りを監視する櫓でした。水手御門は海に向かって開いた門で、藩主はここから小舟に乗船して瀬戸内海に出た後、沖に停泊する御座船に乗り換えて参勤交代などに出かけたといわれます。

高松城、月見櫓、渡櫓、水手御門
月見櫓・渡櫓・水手御門。かつてはここまで海が迫っていた

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。