2019/12/17
戦国時代最後の戦い「大坂の陣」とは ③夏の陣
徳川軍(江戸幕府)と豊臣軍が雌雄を決して激突した、戦国時代最後の戦いとして知られる大坂の陣。今回から3回にわたって、戦いの背景や2度の合戦の全貌を、歴史研究家の小和田泰経先生が解説します。第3回は、豊臣軍の意地を懸けた最後の合戦「大坂夏の陣」に迫ります。
大坂城退去か徹底抗戦か──秀頼が選んだ道は?
慶長20年(1615)正月、和睦の条件に従い、大坂城の堀を埋めた徳川軍は撤退しました。堀を埋められた大坂城の防御力は著しく衰えており、いわば裸城も同然となったわけです。ただ、豊臣方としては、堀を埋められたことに対しては、あまり深刻に考えていなかったようです。ほとぼりが冷めたら、掘り返せばよいとの判断だったのでしょう。実際、徳川軍が去った直後から、二の丸や三の丸の堀を掘り起こし、城門・櫓の修復をはじめたのでした。
もちろん、これは和睦の条件に違約するものでしたから、徳川家康が認めるはずもありません。家康は豊臣秀頼に対し、
・大坂城内にいる牢人をすべて追放する
・大坂城を退去して大和または伊勢に移る
のどちらかを選ぶように伝えました。恩賞目当てに大坂城に入った牢人を、一戦もしないうちに追放することは現実的に難しかったことでしょう。ただ、秀頼自身が大坂城から退去するという選択肢は、とりうるものだったはずです。そして、大坂城から退去していれば、徳川政権下の一大名として生き残ることはできたにちがいありません。
徳川時代の天守台の上に復興された大坂城天守
秀頼の母淀殿や側近の大野治長らは、大坂城の退去に同意しました。しかし、長宗我部盛親・毛利勝永・仙石秀範ら牢人衆は、徳川方に徹底抗戦することを訴えたのです。結局、秀頼も牢人衆に押されて、徹底抗戦することを決めました。
豊臣方が徹底抗戦を貫いたのは、秀頼の母淀殿が名誉を重んじたためであると説明されることも少なくありません。しかし、実際のところ、大坂城内において徳川方との一戦を望んでいたのは、牢人衆だけだったのではないでしょうか。牢人衆は、関ヶ原の戦いで敗北したことにより改易され、大名としての地位を失っていました。秀頼が家康に勝てば、大名として返り咲くこともできたわけです。もっと言えば、家康を倒さない限り、大名に復帰することはかないませんでした。秀頼は、そうした野心をもつ牢人衆にうまくのせられてしまったことになります。
徳川方が集結した二条城
圧倒的な軍勢差を前に豊臣軍が取った作戦
家康の提案に対して豊臣方が拒否を通告したことにより、再戦は不可避となりました。 4月22日、京都の二条城に終結した徳川方は、約15万5000の軍勢を二手にわけ、京都から京街道を南下する河内路と、奈良から西に向かう大和路で進軍させることを決めました。河内路方面軍は藤堂高虎・井伊直孝らを先鋒とし、一方の大和路方面軍は、水野勝成らを先鋒としています。
これに対し、豊臣方は、徹底抗戦するといっても、本丸の堀しかない大坂城に籠城するわけにはいきません。そこで、大和・河内まで打って出て、大坂城に接近する徳川方を迎え撃つ作戦にでたのです。
豊臣方が緒戦で攻略した大和郡山城
大和には、大野治長の弟治房が向かいました。大野治房率いる豊臣軍は、4月27日、筒井定慶が守る大和郡山城(奈良県)を攻略しています。しかし、その直後、水野勝成らを先鋒とする徳川軍が奈良に侵攻してきたため、大坂城に撤収しました。
進撃してくる徳川方の大和方面軍に対して、豊臣方は5月6日の早朝を期して河内の道明寺で迎撃しようとしました。しかし、後藤基次が着陣したころ、濃霧により真田信繁・毛利勝永らが遅延したため、後藤基次が討ち死にしてしまいます。結局、豊臣方は、いったん誉田まで兵を退くことを余儀なくされました。
この誉田で、真田信繁や毛利勝永が豊臣方に合流し、豊臣勢の後方を衝こうとしていた伊達政宗の隊を道明寺まで押し戻しています。しかし、そのころ、八尾・若江では、木村重成と長宗我部盛親が、東高野街道を道明寺に向けて南下する河内方面軍の先鋒藤堂高虎・井伊直孝の軍勢を迎え撃ったものの、敗退していました。そのため、誉田の戦いに勝利した真田信繁・毛利勝永も、敗残兵を収容しながら大坂城に向けて撤退したのです。
真田信繁が本陣とした茶臼山
豊臣軍の意地を懸けた最終決戦
その後、徳川軍が大坂城周辺まで進出したことにより、翌5月7日、最終決戦が行われることになりました。豊臣方も、この日の未明までに全軍を城外に配置しています。大坂城の南西に位置する天王寺口には真田信繁・毛利勝永・大野治長、大坂城の南東に位置する岡山口には大野治房らが守ることになりました。
これに対し、徳川方では、家康が天王寺口、子の秀忠が岡山口に布陣しています。徳川方では、前日に豊臣方と交戦した諸隊をはずしたため、天王寺口の先鋒は本多忠朝、岡山口の先鋒は前田利常と決められました。
徳川軍が豊臣軍に攻撃をかけたのは正午ころのことでした。当初、背水の陣を布いた豊臣方が優勢で、天王寺口では、徳川方の先鋒を務めた本多忠朝が毛利勝永に猛攻されて壊滅し、本多忠朝自身が討ち死にしているほどです。さらに、毛利勝永は家康の本陣にむけて突撃し、これをみた茶臼山に布陣していた真田信繁も松平忠直を撃破し、家康の本陣をめがけて突撃しました。このため、一時は家康も自刃を覚悟したといいます。岡山口でも豊臣方の主将大野治房が弟治胤らを率いて秀忠の本陣を急襲したため、秀忠も自ら鑓をとって戦うところだったといいます。
真田信繁が討ち取られた場所とされる安居神社
しかし、軍勢の差はいかんともしがたく、徐々に豊臣方は追い詰められていきました。3時間にわたる激戦の末、豊臣方は真田信繁が討死するなどし、毛利勝永の指揮により全軍が大坂城に総退却します。しかし、本丸の堀だけでは、守りきれるわけがありません。徳川軍が殺到したことで、大坂城は深夜には落城しました。この夏の陣で、豊臣方では2万前後の城兵が戦死したといいます。
翌5月8日、秀頼は母の淀殿や側近とともに自害して果てました。享年23。その後、秀頼の子で8歳の国松潜伏していたところを捕縛され、京都の六条河原で斬首されています。ここに、豊臣家は滅亡しました。
徳川時代の大坂城内に建てられている秀頼・淀殿ら自刃の地碑
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小和田泰経(おわだやすつね)
静岡英和学院大学講師
歴史研究家
1972年生。國學院大學大学院 文学研究科博士課程後期退学。専門は日本中世史。
著書『家康と茶屋四郎次郎』(静岡新聞社、2007年)
『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』(新紀元社、2010年)
『兵法 勝ち残るための戦略と戦術』(新紀元社、2011年)
『天空の城を行く』(平凡社、2015年)ほか多数。