超入門! お城セミナー 第72回【武将】駿府城の天守台が一番大きかったのはどうして?

初心者向けにお城の歴史・構造・鑑賞方法を、ゼロからわかりやすく解説する「超入門! お城セミナー」。今回は、天守の土台である「天守台」について。静岡県を代表する城のひとつ、駿府城の天守台が、近年の発掘調査により日本一の大きさだったことが判明しました。でも、「日本一」が江戸城や大阪城ではないことに疑問を抱いた人も多いのでは? 今回は、駿府城に日本一の天守台が築かれた理由を解説しましょう。

駿府城、天守台
明治に埋め立てられて以来、およそ百年ぶりに日の目を見た天守台。現在は見学ゾーンが設けられ、天守台の北面・西面が見学可能だ

江戸幕府を開いた〝大御所〟徳川家康の隠居城

近年、お城業界は新発見や新しい説が相次いでいます。その中でも、耳目を集めた2大ニュースといえるのが、発掘調査によって信長時代の小牧山城(愛知県)が総石垣の城であったことがわかったことと、駿府城(静岡県)の天守台が日本一だったことが証明されたことでしょう。

2018年3月に静岡市が発表した駿府城天守台の大きさは、西辺が約68m、北辺が約41m。徳川将軍家の居城である江戸城(東京都)の天守台が西辺約45m、北辺約41mですから、それを大きく上回っているわけです(ちなみに、現在の江戸城天守台は、徳川家光時代の天守が焼失したのち、史上最大の天守を築造する予定で築かれましたが、天守は建つことなく天守台だけが残りました)。さらに2018年10月には、家康時代の天守台の下から、豊臣秀吉が家臣の中村一氏(なかむらかずうじ)に築かせた天守台や金箔瓦が発見され、城ファン注目の的となりました。

駿府城、天守台
発掘調査では大量の石材や裏込め石が発見された。天守台を復元するかどうか、どのような整備がふさわしいのか、議論が進められている

巨大城郭というと、江戸城や大阪城(大阪府)、または名古屋城(愛知県)や熊本城(熊本県)が真っ先に思い浮かぶので、駿府城が「日本一」だったことに、ピンとこなかった人もいらっしゃるかもしれません(静岡県のみなさまにはすいません)。駿府城になぜ日本一の天守台が建っていたのか?  それは戦国時代の勝者にして、江戸幕府の創設者である徳川家康の隠居城だったから。家康の隠居場所として駿府城が改修されたのは慶長12年(1607)のことで、すでに江戸幕府ができてから4年が経過しており、家康は戦国大名のトップとして絶大な権力を握っていました。

時の権力者の居城が日本一であることは、ある意味当然のことでしょう。日本一の天守台の上には、高さ33.5mを誇る当時日本一の天守がそびえ立っていました。これは同時代の江戸城天守をしのぐ高さだったといわれています(のちに3代将軍・徳川家光が築いた江戸城天守はこれを抜き、史上最大の天守となります)。

それでは次の疑問として、家康はなぜ自らの隠居場所に駿府城を選んだのでしょうか? 家康と近しかった僧侶・廓山(かくざん)和尚によると、家康自身が次の5つの理由を挙げていたそうです。

1)幼年時代を過ごしたもうひとつの故郷だから
2)富士山は見えるし、暖かくて年寄りにも過ごしやすいから
3)ご飯(お米)が美味しいから
4)西には大井川や安部川、東には箱根山がある天然の要衝だから
5)参勤交代をする大名らが立ち寄りやすいから
(『廓山和尚供奉記』より/意訳)

以上5つの理由をもう少し考察しながら、なぜ駿府城の天守と天守台が日本一のサイズになったのかを考えていきましょう。

徳川家康像
駿府城本丸跡に立つ徳川家康像。鷹狩りをこよなく愛した晩年の姿が摸されている

駿府城が日本一になった政治的事情とは?

1番目の理由「幼年時代を過ごしたもうひとつの故郷だから」は、家康の生涯に詳しくない人には少し説明が必要でしょう。三河(現在の愛知県東部)の弱小豪族の家に生まれた家康は、幼い頃から人質として織田家や今川家に預けられました。特に今川家には数え8歳から19歳までおり、人質とはいえ、人並み以上の教育を受けさせてもらっていました。家康が「もうひとつの故郷」と、望郷の念を抱くのも無理はありません。「幼少のとき見聞きしたことを、いま成長してから改めて触れるのはなかなか愉快」と廓山和尚には話していたそうです。

2番目の「富士山は見えるし、暖かくて年寄りにも過ごしやすいから」と、3番目の「ご飯(お米)が美味しいから」は、現在の感覚からも充分に納得できる理由です。温暖な気候で、海の幸をはじめ食材も豊かな静岡県は、現在でも移住先として人気の県。2018年の「移住したい県」ランキングでは、静岡県が第2位でした(ちなみに1位は長野県/ふるさと回帰支援センター調べ)。江戸幕府を開いた時点で齢60を超えていた家康が、「冬は寒いし湿気も多い江戸から駿府に移住したい!」と考えるのも、もっともなことでしょう。

駿河湾
駿府城から車で30分程度の日本平から見た富士山と駿河湾。家康は自ら、日本平と谷をはさんだ久能山に祀るよう遺言した

ここまで1〜3の理由は、家康が駿府に移住したかった個人的な理由ではありますが、駿府城の天守と天守台が日本一になった理由にはなっていません。日本一だった理由は、4と5に隠されているようです。

4番目「西には大井川や安部川、東には箱根山がある天然の要衝だから」という理由は、駿府城が地政学上重要な位置にあり、守りやすく攻めがたい立地だったことを意味します。この理由の意図を知るためには、当時の政治状況に目を向けなければなりません。

隠居城として駿府城が改修された2年前の慶長10年(1605)に、家康は息子・秀忠に将軍職を譲ります。このときまだ大阪には豊臣秀頼がおり、豊臣家は隠然たる実力と影響力を持っていました。

家康の早すぎる将軍職の譲渡は、豊臣家に対して「将軍は徳川が世襲する」という宣言だったわけですが、それだけで豊臣家の影響力がなくなるわけではありません。「もし、豊臣家と西国大名が団結して江戸を攻めたら?」という危惧もあったことでしょう。そこで、江戸城のある関東防衛のための拠点として、駿府の地に史上最大の天守を要する巨大城郭を築いたわけです。

駿河國御城圖
家康による改修では城の拡張工事も行われた。外堀が設けられたことで、三重の水堀が囲む鉄壁の防御を誇った(「駿河國御城圖」静岡県立中央図書館蔵)

そして、巨大城郭には防衛拠点となるとともに、豊臣家と西国大名に対して徳川家の実力を示し、反抗する気概を削ぐためのモニュメント的な役割もありました。それが、家康が5番目の理由としてあげた「参勤交代をする大名らが立ち寄りやすい」の真意です。

参勤交代で東海道を利用する諸大名は、駿府を通るさいに必ず日本一高い天守を仰ぎ見るわけです。秀吉の大坂城天守よりも高い駿府城天守を前に、すべての大名が驚嘆し脅威を感じたことでしょう。天守に対する驚嘆と脅威は、そのまま家康と江戸幕府に対する畏怖の念へと変わり、幕藩体制の確立に役立ちました。

駿府に日本一の天守と天守台が築かれた背景には、そのような政治的理由があったのです。家康が江戸幕府繁栄の願いを込めて築いた天守台を、一度見に行ってみてはいかがでしょうか。



執筆・写真/かみゆ歴史編集部
ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。かみゆ歴史編集部として著書・制作物多数。

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