豊臣秀吉が北条氏を滅ぼした「小田原合戦」。聞いたことはあるけれど、正直「小田原攻め」がどういうものかわかっていない!”という方のために、小和田泰経先生に「小田原攻め」がどういう背景で、どういう経緯で進んだ戦いだったのか、解説していただきます!
小田原合戦(小田原攻め)とは
小田原合戦というのは、ざっくり言うと、関白として天下人となった豊臣秀吉が、服属を拒否した小田原城の北条氏を攻め滅ぼした戦いです。このとき、秀吉は全国の大名に出兵を命じ、21万とも22万ともいわれるほどの大軍を動員していました。対する北条氏は5万6000余の軍勢しか動員できなかったとみられます。しかし、小田原城は、かつて上杉謙信や武田信玄の攻撃もはねつけた難攻不落の堅城でした。そのため、秀吉は、天正17年(1589)11月に宣戦を布告をしてから翌天正18年(1590)7月に北条氏を降伏させるまで、半年以上にわたる戦いを余儀なくされることになるのです。
豊臣秀吉に対する服属を拒否した北条氏
小田原城攻略の伝説をモチーフとした小田原駅前にある伊勢盛時(北条早雲)の銅像
四国の長宗我部元親と九州の島津義久を服属させた関白の豊臣秀吉が、次の標的に定めたのは関東の北条氏でした。しかし、北条氏は、秀吉に服属しようとはしません。というのも、北条氏は徳川家康や伊達政宗と同盟関係を結んでいたこともあり、秀吉に対抗できると考えていたからです。この当時、北条氏の領国は、本城の
小田原城がある相模のほか、武蔵・下総・上野・伊豆に及び、さらには上総・下野・駿河・甲斐・常陸の一部にまで及んでおり、まさに関東の覇者と呼んで差し支えない大大名でした。
北条氏は、もともとの姓は伊勢氏といい、初代の伊勢盛時(北条早雲)が甥にあたる駿河の戦国大名今川氏親の支援をうけながら伊豆を平定し、ついには相模の小田原城を攻略したことに始まっています。このとき、盛時は牛の角に松明をつけて小田原城を攻略したといいますが、それは伝説にすぎません。それはともかく、2代氏綱のときには姓を北条に改めて武蔵に進出し、3代氏康のときには上野から下野に勢威を及ぼすまでになりました。秀吉と衝突するようになったころ、当主は5代目の氏直でしたが、氏直の父にあたる4代目の氏政が「御隠居様」として実権を握り、秀吉への服属を拒否していたのです。
小田原高校に残る戦国時代の小田原城に築かれた土塁
秀吉としても、最初から北条氏を攻め滅ぼそうとしていたわけではありません。秀吉は、まず、氏政・氏直父子どちらかの上洛を求めていました。氏政自身も、関白として政権を握った秀吉の権力を知らなかったわけではないのでしょう。秀吉への徹底抗戦を貫こうとしていたわけではなく、天正16年(1588)8月、氏政は弟の氏規を上洛させています。最終的に服属するにしても、できるだけ有利な条件を引きだそうとしていたのかもしれません。もちろん、秀吉が求めていたのは、あくまで氏政・氏直父子の上洛でしたので、氏規が上洛しただけでは、根本的な解決にはなりませんでした。
ネックとなったのは「沼田問題」
氏政・氏直父子が上洛に応じなかったのは、いわゆる「沼田問題」が解決していなかったからです。天正10年(1582)に本能寺の変で織田信長が横死したあと、武田氏の遺領であった甲斐・信濃・上野で混乱があり、このとき、北条氏政と徳川家康は実際に戦うことになりました。しかし決着はつかず、北条氏が上野、徳川氏が甲斐・信濃を領国とすることで和睦したのです。しかし、徳川家康に従っていた真田昌幸が、信濃の上田から上野の沼田にかけて領有していたことから、問題がおこります。氏政は、真田氏に沼田の明け渡しを求めますが、真田氏は「墳墓の地」であると称し、拒絶していたのです。これが「沼田問題」であり、秀吉の裁定に委ねられることになりました。
秀吉は、真田昌幸が上野に持つ所領のうち、
名胡桃城を含む3分の1を真田領とし、
沼田城を含む3分の2を北条領としたうえで、昌幸の失った分の替え地を家康が与えるという裁定をしました。こののち氏政は、上洛に向けての準備を始めており、この裁定に不満は抱きつつも、秀吉に従う決意を固めていたようです。ところが、天正17年(1589)10月23日、沼田城の北条勢が名胡桃城の真田勢を攻め、城を奪うという事件がおきてしまいます。真田氏による挑発ないし謀略があったのかもしれませんが、いずれにせよ、この一件を聞かされた秀吉は、11月24日付で北条氏に対する宣戦布告状を発し、小田原城を攻めることを決めました。
小田原城西北に残る惣構の巨大な堀切
一方、そのころ北条氏の側では、秀吉との平和的な解決に向けて交渉を進めながら、戦いになったときのことも想定して戦闘の準備もしていました。つまり、和戦両様の構えでいたわけです。たとえば、秀吉が東海道から攻めてくるとみて、小田原に通じる箱根路に
山中城、足柄路に
足柄城を築かせていました。さらに、これらの城が突破された場合のことを考え、小田原城の城下を囲む惣構も構築しており、その総延長は9kmに及んでいます。小田原城は、かつて上杉謙信や武田信玄を撃退したこともある難攻不落の名城でしたから、氏政としては、何か月も籠城することができるという自信があったのかもしれません。北条氏だけでも、5万6000余の軍勢を動員できたとみられています。これに、伊達政宗や徳川家康が加われば、秀吉に対抗することは十分に可能だったことでしょう。
小田原開城
秀吉が自ら京都の聚楽第を出陣したのは、天正18年(1590)3月1日のことでした。軍勢の総数は、21万とも22万ともいいます。3月29日、山中城はわずか1日で落城し、翌4月1日、足柄城は戦わずに攻略されました。こうして、いとも簡単に、小田原城は秀吉の軍勢に包囲されてしまうことになったのです。もちろん、秀吉も、小田原城が簡単に落城すると考えていたわけではありません。だからこそ、小田原城を見下ろす笠懸山に陣城を築き、兵糧攻めを始めたのです。この城は、石垣と天守を擁する本格的な近世城郭で、後世、
石垣山城とよばれることになりました。
小田原駅近くに残る北条氏政・氏照兄弟の墓
この間、東山道(中山道)からは、前田利家が率いる別働隊が進軍してきており、上野から武蔵へと侵入してきました。伊達政宗は秀吉に服属し、すでに秀吉に服属していた徳川家康が秀吉に反旗を翻す様子もみられません。領国内の支城が各個撃破されていくなか、ついに7月5日、氏直は秀吉に降伏しました。7月11日には、主戦派とみなされた氏政と氏照が城下の医師田村安栖の屋敷で切腹しています。そして、当主であった氏直は、一命を助けられ、氏規ら300余人とともに高野山へ追放されました。初代早雲から5代100年にわたって関東に覇を唱えた戦国大名北条氏は、ここに滅亡したのです。
北条氏直が豊臣秀吉に降伏し、小田原城が開城したのが、天正18年(1590)7月5日。
城びとでは、2018年7月6日(金)に、小和田泰経先生といなもとかおりさんによる「小田原攻め」のトーク&ワークショップイベントを開催しました!当日は、小和田先生が「小田原攻め」について、詳しく解説。いなもとさんからの質問もはさみながら、楽しく学び、その後は、「どうしたら北条が勝てたのか?」みんなで一緒に妄想を繰り広げました!
小和田泰経(おわだやすつね)
静岡英和学院大学講師
歴史研究家
1972年生。國學院大學大学院 文学研究科博士課程後期退学。専門は日本中世史。
著書『家康と茶屋四郎次郎』(静岡新聞社、2007年)
『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』(新紀元社、2010年)
『兵法 勝ち残るための戦略と戦術』(新紀元社、2011年)
『別冊太陽 歴史ムック〈徹底的に歩く〉織田信長天下布武の足跡』(小和田哲男共著、平凡社、2012年)ほか多数。