理文先生のお城がっこう 歴史編 第63回 秀吉の城15(木幡山伏見城2)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。豊臣秀吉が築いたお城の特徴について見ていくシリーズの今回は、合計4度建てられた伏見城(京都府京都市)の第三期にあたる「木幡山伏見城」を前回に続いて取り上げます。秀吉が防御を固めるために行った工夫や、木幡山伏見城が果たしていた役割などについて、城の構造を通じて見ていきましょう。

前回は、木幡山(きはたやま)を中心に慶長(けいちょう)2年(1597)に新たに築(きず)いた豊臣(とよとみ)期木幡山伏見(ふしみ)(第Ⅲ期:秀吉木幡山伏見城)の構造(こうぞう)について、近年実施(じっし)された立ち入り調査(ちょうさ)成果や絵図などから考えてみました。今回も、引き続き木幡山伏見城の特徴(とくちょう)について見ていきたいと思います。

伏見桃山の文化史
『伏見桃山の文化史』(加藤次郎 1953)より転載(てんさい)。高低差は段築石垣で対応していることも描(えが)かれています。段築は2段から4段築成になっていました

段築石垣の使用

木幡山伏見城は、南側から東側にかけて低地となるため、ここに大きな高低差が生まれます。そこで、石垣(いしがき)段築(だんちく)(じょう)に積んで対応(たいおう)しています。四の丸(増田右衛門尉(ましたうえもんのじょう)丸)の南側の清水谷では4段築成(ちくせい)、松の丸の東側が3段築成、名護屋(なごや)丸の東から南が2段築成となっています。

これは、大坂城(大阪府大阪市)本丸の3段築成の石垣と同様、一気に曲輪(くるわ)面まで石垣を積むだけの技術が、まだ完成していなかったからだと思われます。この時期には、高石垣で築くことは相当難しかったということでしょうか。段築で出来た平坦(へいたん)面を帯曲輪(おびくるわ)とするのは、大坂城と同じです。城は、本丸を中心に西に二の丸、治部少(じぶのしょう)丸、その南に三の丸が置かれ、東は北に松の丸、南に名護屋丸が配されていました。

松ノ丸段築復元想定図
「松ノ丸段築復元想定図」(中井 均「伏見城総論」『伏見城跡現状調査報告書』 2022 大阪歴史学会 より転載)

北側は、空堀(からぼり)を挟(はさ)んで西から御花畑山荘(さんそう)、徳善(とくぜん)丸(前田玄以(まえだけんい)邸)、大蔵(おおくら)丸(長束正家(なつかまさいえ)邸)を経て弾正(だんじょう)丸(浅野長政(あさのながまさ)邸)という曲輪を配置し、その北側に巨大(きょだい)な北堀を構(かま)え、防備(ぼうび)を固めています。名前のある武将(ぶしょう)たちは、城内に屋敷(やしき)地が与(あた)えられ、秀吉(ひでよし)の政治(せいじ)を支(ささ)えた官僚(かんりょう)だったのです。南側は、空堀を挟んで一段高い四の丸が置かれていました。南東下に山里丸、宇治川に繋(つな)がる巨大な舟入(ふないり)(南北約300×東西約90m)も設(もう)けられていました。

金沢城東ノ丸巽櫓台石垣
金沢城東ノ丸巽櫓(たつみやぐら)台石垣。江戸期に積まれた石垣ですが4段築成となっています。豊臣期木幡山伏見城も、高低差はこのような感じで対処していたと思われます

防御を固めるための工夫

大坂城に見られるように、秀吉は城の防御(ぼうぎょ)を固めるために機能(きのう)を強化する方策(ほうさく)を実施(じっし)してきました。それは、この伏見城にも見られます。三の丸から二の丸(西の丸)へと至(いた)る虎口(こぐち)が、もっとも強化された場所だと思われます。

複雑(ふくざつ)な折れを持つ虎口は、織豊期(しょくほうき)の特徴で、加藤清正(かとうきよまさ)の熊本城(熊本県熊本市)には数多く見られます。この構造がやがて、方形空間を持つ枡形虎口(ますがたこぐち)へと発展(はってん)していくことになります。天守だけでなく、城へ入るための門を儀礼(ぎれい)的なものにしようとした現(あらわ)れとも評価(ひょうか)できます。伏見城の石垣は一部しか残されていないため、なんとも言えませんが、門周辺に見せるための巨石(鏡石(かがみいし))を配置するのも同様の行為(こうい)として受け止められます。

もう一つ特徴的なのが、松の丸と大蔵丸(長束正家)との間の方形の出丸(でまる)です。これは、角(かく)馬出うまだし)で、東側に小曲輪が付設(ふせつ)され重ね馬出となっています。織豊の城の多くは、馬出ではなく枡形虎口を多用する傾向(けいこう)にありますが、秀吉は大坂城増強策の一環(いっかん)として馬出を採用(さいよう)しています。これも同様のコンセプトに基(もと)づく一続きのものと理解(りかい)されます。

虎口
「三の丸」から「二の丸」へ続く虎口(加藤図より拡大)

政庁としての城

伏見城は、単なる軍事施設(しせつ)だったわけではありません。豊臣政権(せいけん)の政庁(せいちょう)であり、文化施設でもありました。文化施設を代表するのが、山里丸の茶亭(ちゃてい)学問所です。ここには楼門(ろうもん)があり、内部には高楼閣(こうろうかく)と四隅(すみ)に茶室が設けられていたのです。

また、南下の舟入の西側の御茶山の南端には、大和国吉野郡(よしのぐん)の吉野にあった比蘇(ひそ)寺(奈良県大淀町)から移築(いちく)した東塔(三重塔)が建っていました。秀吉は、ここで公家や大名を招(まね)き茶会を開いたのでしょう。茶の湯は、正式の武家儀礼(ぎれい)として政治的権威(けんい)が与(あた)えられていました。秀吉は、その頂点に立とうとしていたわけです。聚楽第(じゅらくだい)(京都府京都市)で何度も茶会が催(もよお)された記録がありますし、陣城(じんじろ)石垣山城(京都府京都市)や肥前(ひぜん)名護屋城(京都府京都市)でも茶会が催されています。秀吉と茶の湯は、切っても切れない関係だったのです。なお、現在(げんざい)高台寺(こうだいじ)(京都市東山区)に残る重要文化財(ぶんかざい)の茶室「傘亭(からかさてい)」と「時雨亭(しぐれてい)」は伏見城にあったものと言われています。

高台寺、茶屋
高台寺境内に伏見城より移築されたと伝わる茶屋で、小堀遠州(こぼりえんしゅう)の作と伝わる「傘亭」。もとは「安閑窟(あんかんくつ)」と称され、その額が棟(むね)を支える束(つか)に掲(かか)げられています

高台寺、茶屋
高台寺境内に伏見城より移築されたと伝わる2階建ての茶室「時雨亭」。傘亭に比較(ひかく)すると、階上は開放的に構成され、「くど」構え(竈(かまど)のうち、後部にある煙(けむり)出しのことです)を備(そな)えています

豊臣期木幡山伏見城の城域(じょういき)の大半は、明治天皇(てんのう)の桃山陵(ももやまりょう)を中心とする桃山御料地(ごりょうち)となり、宮内庁(くないちょう)の管理のもと一般(いっぱん)の立ち入りは制限(せいげん)されています。そのため、発掘(はっくつ)調査は本丸北西の出丸とその周辺、城郭北側の縁辺(えんぺん)部に限(かぎ)られています。北堀の跡(あと)では、幅(はば)約70mを越(こ)える堀跡と石垣が確認(かくにん)されています。また、四の丸の南側に位置する場所では、堀跡の断面(だんめん)がVの字となる素掘(すぼ)りの堀が見つかりました。そのため、場所や用途(ようと)に応(おう)じて堀の形や石垣構築の使用や方法が分けられていたとも考えられています。

今日ならったお城の用語(※は再掲)

段築石垣(だんちくいしがき)
曲輪面まで、一気に石垣を積むことができない場合、途中(とちゅう)に踊(おど)り場状の帯曲輪や腰曲輪を設け、二段あるいは三段築成で積み上げた石垣のことです。

※帯曲輪(おびぐるわ)
曲輪の外側に、帯のように細長く置かれた補助的(ほじょてき)な小曲輪です。

※空堀(からぼり)
水の無い堀のことです。山城で多く用いられました。近世城郭(じょうかく)においても、重要な場所は空堀が採用されています。堀底は、通路として利用されることが多く認(みと)められます。

※舟入(ふないり)
船を止めるために設けた入江(いりえ)のことです。

※枡形虎口(ますがたこぐち)
門の内側や外側に、攻め寄(よ)せてくる敵(てき)が真っすぐ進めないようにするために設けた方形(四角形)の空いた場所のことです。近世の城では、手前に高麗門(こうらいもん)、奥(おく)に櫓門(やぐらもん)が造(つく)られるようになります。

※出丸(でまる)
城の中心的な曲輪から離(はな)れて造られた曲輪のことです。敵方の最前線で攻撃(こうげき)をしたり防(ふせ)いだりする役目がありました。出郭(でくるわ)とも言います。

※馬出(うまだし)
虎口の外側に守りを固めるためと、兵が出撃するときの拠点(きょてん)とするために築かれた曲輪のことです。外側のラインが半円形の曲線になる丸馬出(まるうまだし)と、四角形になる角馬出(かくうまだし)に大きく分けられています。角馬出の場合、石垣が築かれたものもあります。

楼門(ろうもん)
二階造りの門のことですが、特に下の階に屋根のない二階造りの門をいいます。

楼閣(ろうかく)
高層(こうそう)の立派(りっぱ)な建物のことです。たかどの、高楼(こうろう)とも言います。

次回は「秀吉の城16(京都新城1)」です

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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。