2022/01/24
超入門! お城セミナー 第122回【歴史】源平合戦ではどんな「お城」が合戦の舞台になったの?
初心者向けにお城の歴史・構造・鑑賞方法を、ゼロからわかりやすく解説する「超入門! お城セミナー」。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも描かれる源平合戦では、どんなお城で戦いが行われたのでしょうか。戦国時代の城とはまったく異なる、平安〜鎌倉時代の城の姿を紹介しましょう。
源平合戦では源氏と平氏の宿命の対決が繰り広げられた。写真は壇ノ浦を望む地に立つ源義経と平知盛の像(下関市みもすそ川公園)
平安〜鎌倉時代に城はなかった?
2022年のNHK大河ドラマは『鎌倉殿の13人』。執権・北条義時を主人公に、源頼朝が源平合戦に勝利し、承久の乱で幕府軍が朝廷を下した時代が舞台となります。大河ドラマで源平合戦が取り上げられるのは、松山ケンイチが主人公を務めた『平清盛』から10年ぶり、執権北条氏が主役となるのは、鎌倉時代中期のモンゴル襲来が描かれた『北条時宗』以来21年ぶりのことです。
源平合戦というと、源義経が急崖を駆け下りて平氏の本拠を奇襲した一の谷の戦いや、同じく義経が八艘(はっそう)飛びの活躍で平氏軍にトドメを刺した壇ノ浦の戦いなどの名シーンは多くの方がご存知のことでしょう。それでは、源平合戦で攻防があった城はどこでしょうか? この質問に答えられる人は、ほとんどいないはず。それもそのはず、源平合戦では戦国時代の小田原城攻めや大坂の陣のような籠城戦は、ほとんど起こっていないのです。
それはなぜか?
答え:源平合戦が行われた平安時代末期には、「城」がなかったから。
「城」がまったくなかったというのは、ちょっと語弊がありますね。源平合戦の時代には、軍事拠点であり大名の居城でもあった戦国時代のような「城」はなく、「城の形態が違った」というのが正しい回答でしょうか。
戦国時代を思い浮かべてみると、城は土塁や水堀や石垣でがっちりと防備された「軍事的な防御拠点」であり、また、大名が居住し政治を行う「日常的な拠点」でもありました。こうした日常的な拠点であり軍事的な拠点を城が兼ねるようになったのは、戦国時代の、それも中期以降のこと。それ以前は、武士の「日常的な拠点」はあっても、それがイコール「軍事的な防御拠点」ではなかったのです。従来、鎌倉時代の武士の館(「方形館」と呼ばれるもの)は堀や塀が巡っていたと考えられてきましたが、最近の研究でそれは間違いだったと否定されつつあります。鎌倉時代の方形館と思われてきた堀などは、戦国時代の平城の遺構だったというのです。
前回のお城セミナー(第121回:源頼朝が幕府を開いた鎌倉が「お城」だったって本当!?)で、「鎌倉城」と言われていても人工的な防御施設はなかったことを解説しましたが、それは鎌倉に限った話しではありません。当時、「有事に備えて堀や土塁を築いて防御を固めておこう」なんて意識はほとんどなかったようです。
屋島城のある頂上付近から屋島の戦いの主戦場を望む。平氏は古代山城である屋島城を軍事拠点として利用することはなかった
急ごしらえでつくられたお城の正体とは?
源平合戦の時代には、軍事拠点となる居城はなかったのだから籠城戦もなかった、という説明をしてきましたが、そうは言っても守るべき都市や武士たちが集まる拠点はあったわけで、そこでの戦いは勃発します。都市や拠点を「いざ守ろう!」となったときは、臨時的な防御施設を急ごしらえで築きました。
この急ごしらえの防御に用いられたのが逆茂木(さかもぎ)です。逆茂木とは、切り倒した木々の葉っぱを落とし、枝を相手側に向けて並べたバリケードのこと。そんなので敵が防げるの?と思うかもしれませんが、古くは弥生時代から第二次世界大戦に至るまで利用された超有効な守り方でした。(逆茂木の強力さは「第57回:知られざる、お城防御の最強兵器とは?」を参照)
また、支え棒をした楯を何個も横に並べて障害とすることもあったようです。楯を並べたバリケードを「掻楯(かいだて)」とか「垣楯(かきだて)」なんて呼びます。ほかにも、臨時的な堀を築いたり、橋を落としたりすることもあったようです。いずれも街道などを遮断して、敵の進軍を阻むような防御施設でした。
街道を封鎖するために築かれたバリケードの様子。こうした防御施設が「城」と認識されていた(イラスト=渡辺信吾[ウエイド])
倒木による擬似的な逆茂木。枝がまとわりつき容易に乗り越えることができない
一の谷の戦いで源義経らは平氏の本拠地である福原を攻めました。福原には東西を貫くように山陽道が走っており、東西の入り口には木戸と簡易な櫓(矢倉)が建てられていたと考えられます。源氏軍の進軍を聞いた平氏は、この木戸の前面に逆茂木や楯で何重ものバリケードを築き、山陽道をシャットダウンしていたことでしょう。こうした臨時的な防御施設こそ、源平合戦における「城」だったのです。臨時的な防御は後世に遺構が残ることがないので、当時の姿をイメージするのは難しいですね。
ただ、堀や土塁などの遺構が現在にも残る鎌倉初期の「城」があります。それが、福島県国見町に残る阿津賀志山(あつかしやま)防塁です。東北に独立した勢力を持っていた奥州藤原氏が、源頼朝軍の侵攻を防ぐために築いた陣地で、幅15mの2重の堀と土塁が約3kmにもわたって続くような大規模なものでした。阿津賀志山防塁は土木工事をともなっていましたが、街道を遮断する障壁という点では逆茂木や楯を用いたバリケードと同じ発想です。これも源平合戦の「城」のかたちでした。
奥州藤原氏が築いた防塁。阿津賀志山(厚樫山)の中腹から阿武隈川にかけて2重の堀が横断している
阿津賀志山防塁の遺構。大規模なバリケードだったが源頼朝軍の北上を防ぐことはできなかった
このようなバリケードが有効だったのは、源平合戦は騎馬武者による一騎討ちがほとんどだったからです。騎馬が単体で突撃してくるわけですから、逆茂木や盾で進路を制限してしまえば、相手の行動を大きく封じることができました。そのための施設が、源平合戦の時代における「城」だったわけです。時代は下り戦国時代に入って、歩兵(足軽)が主力となり、集団戦が行われるようなってから、「城」の目的と構造は大きく変わっていきます。
以上見てきたように、源平合戦における「城」は街道を封鎖するバリケードや敵を迎え撃つための陣地を指しているのであり、決して戦国時代のような立派な城郭をイメージしてはいけません。このことを頭に入れて源平合戦を描いたドラマを視聴すると、より深く楽しめるかもしれませんね。
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執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。最近は中世関連の制作物を多数手がける。主な媒体に『キーパーソンと時代の流れで一気にわかる鎌倉・室町時代』(本郷和人監修/朝日新聞出版)、『面白すぎる! 鎌倉・室町』(中央公論新社)、『鎌倉幕府と執権北条氏の謎99』(中丸満著/イースト・プレス)、『執権 北条義時』(近藤成一著/三笠書房)、『鎌倉草創 東国武士たちの革命戦争』(西股総生著/ワン・パブリッシング)、『鎌倉殿の13人 THE MOOK』(東京ニュース通信社)など。