理文先生のお城がっこう 歴史編 第44回 織田信長の居城(岐阜城2)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。今回のテーマは前回に続き、織田信長の4番目の居城となった岐阜城(岐阜県岐阜市)について。信長は山の上にどのような城を築いたのでしょう? 近年の発掘調査で分かってきた当時の姿を見ていきましょう。

■理文先生のお城がっこう
前回「織田信長の居城(岐阜城1)」はこちら

永禄(えいろく)12年(1569)キリスト教の教えを一般(いっぱん)に広め伝えることを許(ゆる)してもらうために、イエズス会宣教師(せんきょうし)ルイス・フロイスが岐阜城へ織田信長(おだのぶなが)を訪ねました。その時、山の麓(ふもと)にあった岐阜城の御殿(ごてん)、山の上にあった城までも案内され、細かいところまでその姿(すがた)を記録に残しています。

「信長の御殿は、金華山(きんかざん)の麓に位置し、その山頂(さんちょう)に本城がありました」とあり、キリスト教の教えを広める許可(朱印状(しゅいんじょう))を手に入れたフロイスは、別れの挨拶(あいさつ)のために信長の元を訪(おとず)れます。すると、山の上の城を見せたいので出発を2日延期(えんき)するように言われ、日を改め、柴田勝家(しばたかついえ)の案内で山の上の城に登ることになりました。フロイスは、その時の様子も克明(こくめい)に記録しています。

岐阜城
岐阜城山麓部と山上部(岐阜市教育委員会提供)

岐阜市では、平成31年(2019)より山の上にあった城の発掘調査(はっくつちょうさ)を始めて、織田信長が住んでいた頃(ころ)の城の建物の跡(あと)や石垣(いしがき)などの遺構(いこう)も確認(かくにん)され、岐阜城の山の上にあった城の様子が少しずつ分かってきています。

記録に残る「山上の城」

「山の上の城は、高く険(けわ)しい地にあるため、登るのはとても辛(つら)くて苦労をしました。途中(とちゅう)には、大きな入口のある堡塁(ほるい)(砦(とりで)曲輪(くるわ))があり、その上で若者15~20名が交替(こうたい)して見張(みは)りをしていました。上の城は、入口を入ると2~3の広い座敷(ざしき)(お客をもてなすための部屋)があり、信長に従(したが)うことになった国々の息子100名以上がいました。ここから先は、誰(だれ)であろうと中へは入れません。そこは、信長の夫人と侍女(じじょ)(夫人に従える女性たち)たちや子息(信忠(のぶただ)と信雄(のぶかつ))のみが住むためだけの空間でした」と、フロイスは記録し、次に「御殿(の縁側(えんがわ))からは、美濃(みの)と尾張(おわり)の大部分を見渡(わた)すことができます。建物の中は、非常(ひじょう)にぜいたくに造(つく)られた座敷(ざしき)があって、すべて障壁画(しょうへきが)( 襖 (ふすま) ・ 衝立(ついたて)などに描(えが)いた絵)で飾(かざ)られ、中には千本以上の弓矢が置かれていました」と、御殿の中の様子を説明しています。

これ以上詳(くわ)しい説明は無く、山上に二階建て以上の天守のような建物があったかは記録されていません。

岐阜城
山上部から見た名古屋方面。小牧山、名古屋城まで見ることが出来ます。フロイスや山科言継もこの景色を見てその絶景をたたえています

同年、『言継卿記(ときつぐきょうき)』を著した権大納言(ごんだいなごん)の山科言継(やましなときつぐ)が、信長から山の上の城の見物を許され、七曲道(ななまがりみち)から登り、山の上の建物でもてなされています。言継は、山の上にあった建物等の様子を記録してはいませんが、その眺(なが)めは「言葉に尽(つ)くせない程(ほど)の絶景(ぜっけい)」と、フロイスの記録と一致(いっち)します。注目されるのは、フロイスが記録していない「上之権現(かみのごんげん)」と呼(よ)ばれる権現堂(ごんげんどう)(権現様を祀(まつ)る社(やしろ)の存在(そんざい)が記されていることです。山の上には、生活する場所だけでなく、「上之権現」を祀(まつ)る宗教施設があったことになります。

山上部の発掘調査

山上部が築(きず)かれた金華山(標高329m)は、全山チャート(堆積岩(たいせきがん)の一種)の険しい山で、切り立った崖(がけ)がいたるところで見られます。信長・信忠が城主となった後も、三男・信孝(のぶたか)、池田元助(もとすけ)・輝政(てるまさ)、豊臣秀勝(とよとみひでかつ)、織田秀信(おだひでのぶ)と城主が交替(こうたい)し、関ヶ原合戦に先だって行われた戦闘(せんとう)の舞台(ぶたい)となり落城しています。その後廃城(はいじょう)となり、壊(こわ)されてしまったようです。

山上部は、馬の背(せ)のような狭(せま)い岩石で構成(こうせい)された地形ですから、大がかりな工事で曲輪を広げるようにしてまで城を築いたとは考えられません。永禄年間(1558~70)段階(だんかい)では、石垣をしっかりと崩(くず)れないように積み上げて、曲輪を広げるようなことはできませんでした。従って、中心となる場所に行くまでの尾根の上にいくつもの砦を設(もう)け、山全体を使って城を造っていたと思われます。

山上部で、建物を建てるだけの広さを持つ場所は、①現天守周辺②上台所③太鼓櫓(たいこやぐら)の3ヶ所だけです。門は、①一ノ門②二ノ門③裏(うら)門の3ヵ所が確認されています。こうしたことから考えて、山の上の城の範囲は、七曲道と百曲道の合流地点の「追分(おいわけ)」の南西の曲輪(煙硝蔵(えんしょうくら)跡)から裏門までの尾根の上を利用して築かれていたとするのが適切(てきせつ)な考えだと思われます。元禄(げんろく)期(1688~1704)に描かれたと考えられている「稲葉城趾之図(いなばじょうしのず)」(伊奈波神社所蔵)でも、石垣が描かれているのはほぼこの間でしかありません。

稲葉城趾之図
「稲葉城趾之図」(伊奈波神社所蔵)。江戸初期の絵図で、克明に石垣が描かれています。発掘調査結果と合致することもあり、かなり正確な絵図と評価されています

発掘調査は、①裏門周辺➁二ノ門の前面➂一ノ門④天守台で実際(じっさい)に行われており、斎藤道三(さいとうどうさん)が城主であった頃(ころ)と、信長が城主だった頃の遺構を見つけ出しています。

裏門周辺の調査では、信長が城主だった時の巨大(きょだい)な石の列や石垣、斎藤道三が築いたと考えられる石垣が確認されました。「稲葉城趾之図」に描かれている石垣と同じ位置から見つかっています。水の手道沿いに信長時代の巨大な石の列(石材9石)を見つけ出し、その石の中で最大の石材は長さ140㎝×高さ160㎝、また隅角(ぐうかく、すみかど)部に残されていた信長の時代の2段分の石垣(石材の長さ80㎝×高さ30㎝)も見つけ出されています。

鼻高(はなたか)方面では、残っていた道三の時代の石垣2~3段分を見つけ出しました。見つかった石垣は、長さ180㎝、高さ90㎝程で、そこに使用されていた石材は長さ20~50㎝、高さ15~30㎝と小型(こがた)の石材でした。

裏門にも、巨石を用いた石垣が検出(けんしゅつ)され、信長時代の山の上の城の範囲(はんい)が一ノ門~裏門の間であったことがほぼ確実(かくじつ)な状況(じょうきょう)になったわけです。また、山の上にも道三時代の石垣が残されていることと、信長がそれを上手に取り込(こ)んで利用しながら新しい石垣を築き上げたこともわかってきたのです。

岐阜城、裏門周辺の復元想像図
裏門周辺の復元想像図(岐阜市教育委員会提供)

二ノ門周辺では、「稲葉城趾之図」に描かれている信長時代の石垣が確認されました。石垣に使用されていた石材は比較的(ひかくてき)大きく、石材の間に丁寧(ていねい)間詰石(まづめいし)を入れて積み上げている様子が(わか)りました。これは、山麓(さんろく)の居館(きょかん)の石垣とも共通する特徴(とくちょう)です。

以前から、一ノ門には巨石が使用されていることが解っていました。発掘調査によって、一ノ門が岩盤(がんばん)の高まりの周りに石垣と巨石による石垣を組み合わせてコーナー部分を造り出していたことが判明(はんめい)しました。これは、16世紀前半に美濃国守護(しゅご)の土岐(とき)氏によって築かれた大桑(おおが)(岐阜県山県(やまがた)市)の岩門跡と極めた似(に)た構造(こうぞう)になります。このことからも、当初ここに斎藤道三が門を築き、その後、岐阜城を奪(うば)った信長が門を改修(かいしゅう)して瓦葺(かわらぶ)きにしたことがはっきりしたのです。また、門を入った後のルートも変更(へんこう)したことが、ほぼ間違いないことも確(たし)かめられました。一ノ門跡の柱を載せた礎石(そせき)を据(す)え付けた痕(あと)と焼土(しょうど)や赤く変色した痕跡(こんせき)から、この門が関ヶ原合戦に先だって行われた戦闘(せんとう)による火災(かさい)で焼け崩(くず)れた可能性(かのうせい)が高まりました。

岐阜城、二ノ門跡、一ノ門跡
二ノ門跡(左)と一ノ門跡の現況(げんきょう)。共に見せるための巨石を利用した虎口(こぐち)になっています

天守台(てんしゅだい)周辺の調査では、天守台の石垣が上下2段で造られていることが解りました。石垣は、信長が岐阜城へ入った後の特徴を示しています。裏込(うらご)め石は、天守台石垣の基礎(きそ)を兼(か)ねていることから考えると、信長期の時代に同時に築かれた可能性が高いことが解ったのです。また、現在の天守が載(の)っている石垣の基礎部分でも、一部で戦国時代の石垣を確認しました。

岐阜城、二段の石垣
発掘調査によって、信長期と考えられる二段の石垣が検出されました

天守台周辺調査で軒丸瓦(のきまるがわら)軒平瓦(のきひらがわら)が出土しています。軒丸瓦は文様(もんよう)の特徴が、信長が築かせた明智光秀(あけちみつひで)坂本城跡(滋賀県大津市)や、細川藤孝(ほそかわふじたか)勝龍寺(しょうりゅうじ)跡(京都府長岡京市)などで見つかっている瓦の文様とほぼ同じ系統(けいとう)です。

フロイスや山科言継の記録や、発掘調査の成果等から、安土城より前に岐阜城の山の上に天守が存在した可能性が高まりました。その天守は、永禄12年(1569)段階には無く、瓦の文様等から元亀(げんき)年間(1570~73)に築かれたと考えられます。信長は、岐阜城において安土城の試作(しさく)(試しに作ってみること)をしていた可能性が考えられるのです。

岐阜城、復興天守
現在の復興天守。このような天守が安土城より早く建っていた可能性が高まりました

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※御殿(ごてん)
城主が政治(せいじ)を行ったり、生活したりする建物です。政務(せいむ)や公式行事の場である「表向き」と、藩主(はんしゅ)の住まいである「奥(おく)向き」とに大きく分けられていました。

※曲輪(くるわ)
城の中で、機能(きのう)や役割(やくわり)に応(おう)じて区画された場所のことです。曲輪と呼ぶのは、おもに中世段階の城で、近世城郭(じょうかく)では「郭」や「丸」が使用されます。

廃城(はいじょう)
城が城として使われなくなることを言います。

※隅角部(すみかどぶ、ぐうかくぶ)
石垣が他の石垣と接して形成される角部(壁面(へきめん)が折れ曲がっている部分)のことです。曲輪側に対して外側に折れている隅角を「出隅」(ですみ)と言い、内側に折れている隅角を「入隅」(いりすみ)と言います。

※間詰石(まづめいし)
石材と石材の隙間(すきま)を埋(う)めるために詰められた石のことです。古い段階では、自然石を使っていましたが、割石(わりいし)や隙間に合わせて加工された石材が使われるようになっていきます。

天守台(てんしゅだい)
天守を建てるための石垣の台座(だいざ)のことです。

※裏込め石(うらごめいし)
石垣内部の排水(はいすい)を円滑(えんかつ)に行う役目を持って、石垣の裏側に詰められた小石(栗石(くりいし))のことです。古くは自然石が用いられていましたが、後に石垣を形よくはめ込むために割った残りの割れ石が用いられるようになります。裏込が不十分だと、大雨の時など石垣が崩壊(ほうかい)してしまう恐(おそ)れがあります。雨水は小石同士(どうし)の隙間を流れて石垣下に排水され、水圧(すいあつ)で石垣が崩壊するのを防(ふせ)ぐ役目を持っていたのです。

軒丸瓦(のきまるがわら)
丸瓦の先端に文様の入った円板状(じょう)の瓦当部(がとうぶ)をつけた瓦で、 鐙(あぶみ )瓦・巴(ともえ)瓦ともいいます。

軒平瓦(のきひらがわら)
平瓦の先端に横長でそりのある飾板(かざりいた)をつけた瓦です。軒丸瓦とセットで、軒先の先端を飾りました。

次回は「織田信長の居城(岐阜城3)」です。

お城がっこうのその他の記事はこちら

加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。


関連書籍・商品など