理文先生のお城がっこう 歴史編 第45回 織田信長の居城(岐阜城3)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。今回のテーマは、織田信長の4番目の居城となった岐阜城(岐阜県岐阜市)についての最終回。近年の調査によると、岐阜城の山麓御殿の様子が少しずつ判明し、信長が今までとはまったく違う城を築き上げようとしたことが伺えます。では、なぜ信長がそのような城を築いたのかを考えてみましょう。

■理文先生のお城がっこう
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美濃(みの)攻略(こうりゃく)に成功し、その本拠(ほんきょ)を小牧山から稲葉山(いなばやま)へと移(うつ)し、城に入った織田信長(おだのぶなが)は、中国の周(しゅう)の文王(ぶんおう)の故事にちなんで城下を井口(いのきち)から岐阜へ、稲葉山を金華山(きんかざん)に改めました。そして、「天下布武(てんかふぶ)」の印判(いんばん)の使用を開始し、天下統一(とういつ)をめざすことを公言しました。

小牧山城(愛知県小牧市)では、巨石(きょせき)で囲(かこ)まれた新城を築いた信長でしたが、岐阜では、斎藤(さいとう)氏の居城(きょじょう)であった稲葉山城を大改修(かいしゅう)して使用しています。近年の調査(ちょうさ)によって、山麓(さんろく)御殿(ごてん)や山上部の様子が徐々(じょじょ)に判明(はんめい)し、今まで誰(だれ)も見たこともない、いくつもの池を持つ3階建ての御殿や、石垣(いしがき)で積まれた山上部に、天守の元となるような建物が建てられていたことが、ほぼ確実(かくじつ)となってきました。では、なぜ信長は、かつて誰も見たこともない城を築(きず)いたのかを考えてみたいと思います。

フロイスの見た信長と岐阜城

岐阜城(岐阜県岐阜市)を訪れたフロイスは、ぜいたくで、きらびやかに輝(かがや)き美しい山麓の御殿を築いたのは「信長が手に入れた富の多さと強大な権力(けんりょく)を示(しめ)すためと、他の戦国大名以上の力を信長がもっていることを誇(ほこ)らしげに見せつけるため」と「自分自身の心をなぐさめ、労をねぎらうことと楽しむため」だったと記録しています。

慈照寺白鶴島と東求堂
慈照寺(じしょうじ)白鶴島(はっかくとう)と東求堂(とうぐどう)(国宝)。岐阜城の庭園もこんな感じだったのでしょうか。縁側から池が見えたと記録されています

山麓に造られた御殿を、フロイスは「地上の楽園(らくえん)(苦しみのない幸せな生活ができる所のことです)」と呼(よ)び、城下に住む人々は、「信長の極楽(ごくらく)(苦しいことのない幸せな世界です)」と呼んだと記しています。山麓に造(つく)られた御殿の最大の特徴(とくちょう)は、段(だん)ごとに造られた曲輪(くるわ)に多くの庭園を造っていたことと、庭園ごとに働きやデザインが異(こと)なっていたことです。さらに、谷川から水を引き入れて、庭園から庭園へ水が流れるような工夫が凝(こ)らされていました。そして、その庭園を見下ろすように4階建と記されたぜいたくで華(はな)やかな建物がきわだって見えていました。

醍醐寺三宝院庭園
醍醐寺(だいごじ)三宝院(さんぽういん)庭園(特別史跡(しせき)・特別名勝)。慶長(けいちょう)3年(1598)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が「醍醐の花見」に際して自ら基本設計をした庭で、桃山(ももやま)時代の華やかな雰囲気(ふんいき)を伝えています。岐阜城の庭園もこのような姿だったのかもしれません

庭園は、谷川の自然の地形を生かしながら、巧(たく)みにその姿(すがた)を変え改めたもので、巨大な池や滝(たき)までもが造られていました。上洛(じょうらく)を果たした信長が、都の寺々に造られた庭園や貴族(きぞく)の邸宅(ていたく)の庭園をヒントにして造り上げた庭だと考えられます。それらの庭が、上品で美しい水の流れで繋(つな)げられていたことは、驚(おどろ)くべき構造(こうぞう)と言わざるを得(え)ません。一つひとつを見るなら、室町(むろまち)様式の伝統的(でんとうてき)な庭のようにも見えますが、居館(きょかん)を含(ふく)めた地形全体を一つの空間として見せるために利用していたようにも思えます。

二条城二の丸庭園
二条城二の丸庭園(特別名勝)。小堀遠州(こぼりえんしゅう)の代表作として挙げられる池泉(ちせん)回遊式庭園で、池泉北部は豪壮(ごうそう)な石組を主体としています。岐阜城の庭園も石組と池を主体としていたようです

もう一つの特徴で、フロイスが宮殿と呼んだ山麓の御殿の内部は、来客と対面するように設(もう)けられた部屋、儀式(ぎしき)を行う部屋、居間(いま)、信長の寝所(ねどこ)、また夫人・側室などの住まいなどがあり、それを1階、2階、3階と上下に配置してあったのです。これは、我(わ)が国では初めての試みでした。当時は、1階建ての建物がごく普通で、奥(おく)へ奥へと広がるように部屋が造られていたのです。いろいろな用途(ようと)を持つ部屋を、1階、2階、3階というように上へ上へと配置した建物は、安土城(滋賀県近江八幡市)の天主で完成を見た、それまでの物と違(ちが)い信長がいろいろ工夫して見いだした新しい方法だったのです。

慈照寺庭園
慈照寺(じしょうじ)庭園(特別名勝、特別史跡)。平地には池泉回遊式庭園、裏山(うらやま)には枯山水(かれさんすい)庭園の上下2段で構成され、池泉回遊式庭園は錦鏡池(きんきょうち)と呼ばれる池を中心に、銀閣(ぎんかく)(観音殿)(国宝)と東求堂が建てられました。元和元年(1615)に改修されて景観が大きく変わっています。信長の山麓御殿も銀閣のように池に面して建てられていました

縁側(えんがわ)(建物の縁(へり)部分に張(は)り出して設けられた板敷(じ)き状(じょう)の通路です)や周囲(しゅうい)を眺(なが)めるような場所を持つ3階建ての建物の代表と言えば、足利義満(あしかがよしみつ)が建てた金閣ですが、人が生活する空間を設けたことが大きく異なっています。天下布武を公言した信長は、「日本国王」と呼ばれた足利義満を超(こ)えようとしたのでしょうか。あえて、室町時代に見られるようになった形をした庭園や、金閣・銀閣のような建物を建て、すべてにおいてそれをしのいでその上に出たことを、まるで見せつけているようです。室町将軍(しょうぐん)家をえた存在になったことを示す目的が、岐阜築城に見え隠(かく)れします。

西本願寺飛雲閣
西本願寺(にしほんがんじ)飛雲閣(国宝)。滄浪(そうろう)池に臨(のぞ)む三重の建物で、秀吉が造営(ぞうえい)した聚楽第(じゅらくだい)にあったものを寛永(かんえい)年間(1624~44)に現在地に移建したと言われます。現存する建物で最も信長の山麓御殿に近い建物と考えられます

消えた信長

岐阜へ居城を移(うつ)し、足利義昭(よしあき)を奉じ上洛を果たし、義昭を十五代将軍職(しょく)に据(す)え、近畿(きんき)地方の中心的な場所をその支配下に置いた信長は、天皇(てんのう)と同じように人々の前から姿を消してしまいます。宣教師(せんきょうし)のフロイスは「信長の宮殿には、どんな人であろうとも城に入ってはならないと厳(きび)しく命令されていました。これは、絶対(ぜったい)に破(やぶ)ってはいけないと禁止(きんし)された行為(こうい)で、城の中に入ってもいいと認(みと)められていたのはごくわずかな人でしかなかったのです」と記録しています。信長は、ここにシャットアウトされた空間に住む政治(せいじ)を執(と)り行う人物へと変化したのです。

小牧山城の山頂(さんちょう)本丸周辺を巨大な石で囲い込(こ)んだのも、誰も入ってこられないシャットアウトされた空間を効果的(こうかてき)に見せようとした一つ前の行動だったとも考えられます。信長は、官位官職(人の身分や地位の高い低いを表す序列(じょれつ)である位(くらい)のことです)という身分ではなく、自分に許(ゆる)された者以外とは、誰とも会わないように、対面までもコントロールしたのです。これこそが信長がめざしたものではないでしょうか。「朝廷(ちょうてい)も将軍も気にする必要はない。すべては私(わたし)の言いなりだ」フロイスに言ったこの言葉が、信長の考えを一番はっきり表す言葉でした。

玄宮園、彦根城天守
玄宮園(げんきゅうえん)(名勝)と彦根(ひこね)城天守(国宝)。彦根城天守と同様に、城下から仰(あお)ぎ見られた信長の山麓御殿でしたが、誰も中へ入ることを許可されていませんでした

信長は、昔から受け継(つ)がれてきた伝統的な技術(ぎじゅつ)を利用して、今までとはまったく違う城を築き上げようとしたのです。自分の求める城に形を与(あた)えて、見えるようにしようとした結果として、昔から受け継がれてきた技術と今までとは異(こと)なる新しい技術をくっつけることで、見たこともない城が完成したのです。信長は、岐阜の地に今まで誰も見たことのない城を築くことで、室町将軍家をはるかに超えた力を持ったことを見せつけようとしたのでしょう。

小牧山は巨大な石を見せる城でした。岐阜では、巨大な石と美しいいろいろな形をした庭園と共に、4階建ての御殿が登場します。岐阜城では、見せる物に建物が加わったのです。「巨大な石と建物のセット」という、後の安土城へと引き継がれる「見せるための城」の芽生えが、岐阜で生まれたのです。やがて畿内の主だった地域(ちいき)を手に入れ、今まで以上の新しい技術を持った職人集団(しゅうだん)を使うことで、さらに発展(はってん)した安土城が出現(しゅつげん)することになるのです。

後楽園
後楽園(こうらくえん)(特別名勝)。岡山藩(はん)2代目藩主・池田綱政(つなまさ)が自ら憩いの場として築いた大庭園です。信長も、自らの憩(いこ)いの場として庭園群(ぐん)を築いたのです

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※御殿(ごてん)
城主が政治を行ったり、生活したりする建物です。政務(せいむ)や公式行事の場である「表向き」と、藩主の住まいである「奥向き」とに大きく分けられていました。

※曲輪(くるわ)
城の中で、機能(きのう)や役割(やくわり)に応(おう)じて区画された場所のことです。曲輪と呼ぶのは、おもに中世段階の城で、近世城郭(じょうかく)では「郭」や「丸」が使用されます。

※居館(きょかん)
中世段階の居館は、御家人(ごけにん)などの武士(ぶし)が住んでいた屋敷(やしき)(武装化(ぶそうか)した住居)のことです。堀ノ内(ほりのうち)・館・土居(どい)などとも呼ばれます。館の周囲に、用水を引いた方形の水堀(みずぼり)を設けたり、土塁(どるい)で囲んだりしていました。広い意味では城に含まれます。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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