理文先生のお城がっこう 歴史編 第43回 織田信長の居城(岐阜城1)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。今回のテーマは、織田信長の4番目の居城となった岐阜城(岐阜県岐阜市)について。美濃を支配していよいよ天下統一に取りかかった信長が、その足がかりとなる岐阜城をどのように造ったのか見ていきましょう。

永禄(えいろく)10年(1567)、美濃(みの)三人衆(しゅう)(戦国時代に美濃(岐阜県)の西部を支配(しはい)していた国人領主(りょうしゅ)たちを指す名称(めいしょう)です)と呼(よ)ばれた斎藤(さいとう)家重臣の稲葉一鉄(いなばいってつ)、安藤守就(あんどうもりなり)、氏家直元(うじいえなおもと)(卜全(ぼくぜん))が、斎藤家を裏(うら)切ってひそかに織田家に通じることを申し入れてきました。信長は、すぐさま美濃へと侵攻(しんこう)、稲葉山(いなばやま)山塊(さんかい)に連なる南西端(たん)に位置する瑞竜寺(ずいりょうじ)山から城下の井口(いのくち)まで攻(せ)め入り、火を放ちました。稲葉山城の四方を取り囲(かこ)むと、美濃衆が降伏(こうふく)、美濃国主の斎藤龍興(さいとうたつおき)は長良川(ながらがわ)を下り、伊勢(いせ)長島(三重県桑名市)へと落ち伸びて行きました。弘治(こうじ)2年(1556)、(しゅうと)(妻の父です)である斎藤道三(どうさん)が亡くなった後、何度も美濃へ攻め入りますが、その都度跳(は)ね返されてきました。ところが、美濃三人衆が斎藤家を裏切ると、わずか半月で美濃の国を攻め取ってしまったのです。

岐阜城
岐阜城遠景。信長は、小牧(こまき)山から見える稲葉山を手中に治めることを常(つね)に目指していたのです

稲葉山城へと入った信長は、「天下布武(てんかふぶ)」の四文字を印文(いんぶん)とする印判状(いんぱんじょう)(はんこを押(お)した書状(しょじょう)のことです)の使用を開始します。「武力(ぶりょく)によって天下(日本)を治める」という意味を持つ印文は、政秀寺(せいしゅうじ)(信長が家臣の平手政秀(ひらてまさひで)を弔(とむら)うために建てたお寺です)開山(かいさん)(初めてお寺を造(つく)った僧(そう)のことです)となった臨済(りんざいしゅう)妙心寺(みょうしんじ)(は)の禅僧(ぜんそう)沢彦宗恩(たくげんそうおん)進言(しんげん)(目上の人に対して意見を申し述(の)べることです)したと言われています。併(あわ)せて、(しゅう)(殷(いん)を倒した中国の王朝です)の文王(ぶんおう)(姫昌(きしょう))が岐山(ぎざん)から始まって天下をとったという故事(こじ)(昔から伝えられてきたいわれのある事柄(ことがら)のことです)を手本にして、城下(じょうか)の名を井口から岐阜(ぎふ)へと改めました。10年の間、常に心にかけて強く望んでいた美濃一国を自分の物にした信長は、武力によって天下を統一(とういつ)することを広く世間一般(いっぱん)に表明したのです。

岐阜城山頂
山頂(さんちょう)からは伊吹(いぶき)山、鈴鹿山脈(すずかさんみゃく)が望まれ、都はすぐ側だと実感できます

発掘された山麓御殿

美濃を攻め取るための戦で、城下を焼き払(はら)ってしまった信長は、すぐさま城下町をもう一度作り直すことと、岐阜での活動の中心となる城を築(きず)き上げました。小牧山では、新たな城と城下町を見事に造り上げましたが、岐阜ではどうだったのでしょう。これまで実施(じっし)された発掘(はっくつ)調査(ちょうさ)成果や、残された文献(ぶんけん)記録から「信長の岐阜城」の姿を考えてみたいと思います。

昭和59年(1984)千畳敷(せんじょうじき)と呼ばれる信長の山麓居館(さんろくきょかん)推定(すいてい)地で、初の発掘調査が開始され、その後数度の調査が実施されました。平成19年度から本格的(ほんかくてき)な山麓居館部の調査が再開(さいかい)され、平成29年度まで10年間に渡(わた)って山麓居館の全容(ぜんよう)解明(かいめい)のための調査が実施されました。そこで、平成29年度の調査までで判明(はんめい)した発掘調査成果をまとめてみたいと思います。

岐阜城、山麓御殿
信長の山麓御殿は、30mの高低差の中に、いくつかの曲輪を階段状に設(もう)け、そこに屋敷や庭園が広がっていたことが解りました

信長が生活の中心として居住していた山麓居館最大の特徴(とくちょう)は、金華山(きんかざん)から流れる槻谷(けやきだに)の谷川を上手に利用して、谷川の左右の岸を階段状(かいだんじょう)に整形して、平らで広い場所として、そこに大小さまざまな屋敷(やしき)などを造り上げたことです。中央部を流れる谷川の左右には、巨大(きょだい)な石を積み上げて、谷川が増水(ぞうすい)しても水が屋敷地に入ってこないようにしました。また、高低差による自然の滝(たき)はそのまま残し、谷川の流れを含(ふく)めて、屋敷の背後(はいご)の景色として取り込(こ)んだのです。

岐阜城、沢
槻谷を流れる沢(さわ)は、現在(げんざい)もきれいな水が流れ出、滝を形作っています

金華山を形成していた岩盤(がんばん)は、自然の美しさを損(そこ)なわないように整備(せいび)し、谷川を流れる水を屋敷の中に引き込んで、いくつもの池がある庭園を設けたのです。

山麓部の最も下の低い段に設けられた曲輪(くるわ)から、最も高い上の段(最も奥(おく)にあたります)の曲輪までの高低差は30m近くもあります。信長は、各曲輪の間に生まれたこの高低差を利用し、庭園から庭園へと水を流し、山麓部の全体を一つの見せるための空間として利用していたのです。

alt
庭園の借景となった岩。この岩の2カ所(→部分)から常に水が流れ落ちるようにしてありました

小牧山城(愛知県小牧市)で使用された巨大な石は、信長の居館を区切るためと、居館まで続く折れ曲がった通路の両側に配置されていました。また、人頭代の石材を積み上げた石垣(いしがき)も用いられています。居館の中心となる御殿(ごてん)の屋根に飾られていたと推定される金箔瓦(きんぱくがわら)も出土しています。金箔瓦は、大棟(おおむね)(屋根の頂上の水平部分のことです)を飾(かざ)る瓦に限定(げんてい)して用いていたようで、その文様は菊花文(きっかもん)と牡丹文(ぼたんもん)の2種類です。確実(かくじつ)に信長の御殿に使われた瓦という確(たし)かな証拠(しょうこ)はありませんが、仮に信長段階に使用された瓦だとしたら、我(わ)が国で最も古い金箔瓦で、安土城(滋賀県近江八幡市)より先に使われた、非常(ひじょう)に重要な瓦になります。

岐阜城、巨石
御殿に向かう通路の左右には、小牧山で使用されたような巨石が配置されていました

岐阜城、金箔飾り瓦
復元された金箔飾り瓦。左が菊花文、右が牡丹文です(岐阜市教育委員会提供)

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※山麓居館(さんろくきょかん)
山城の存在する山の麓(ふもと)に設けられた城主の邸宅です。普段(ふだん)は、ここが対面や生活の中心でした。戦闘(せんとう)行為(こうい)が予想された場合に、山上部に居を移(うつ)すことになります。戦国後期になると、平時はふもと、有事は山上ではなく、利便性の観点から、ふもとと山上部の二ヵ所の屋敷地を営(いとな)むケースも増(ふ)えることになります。

※曲輪(くるわ)
城の中で、機能(きのう)や役割(やくわり)に応(おう)じて区画された場所のことです。曲輪と呼ぶのは、おもに中世段階の城で、近世城郭(じょうかく)では「郭」や「丸」が使用されます。

金箔瓦(きんぱくがわら)
軒丸(のきまる)瓦、軒平(のきひら)瓦、飾り瓦などの文様部に、漆(うるし)を接着剤(せっちゃくざい)として金箔を貼(は)った瓦のことです。織田信長の安土城で最初に使用が始まったと考えられています。


お城がっこうのその他の記事はこちら

加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

関連書籍・商品など