籠城戦で敵を撃退した戦いを検証する|小和田哲男 第8回 小田原城の戦い

戦国時代の武将たちの戦略の一つとして、お城に立て籠もる「籠城戦」がありました。籠城戦というと、敵の攻撃を耐え続けた末に籠城側が最終的に敗れてしまうイメージがありますが、実際はどうだったのか? ドラマの時代考証などを担当されている小和田哲男先生が、籠城側が敵を撃退した戦いを通じて、その戦略を紐解きます。第8回のテーマは、後北条氏が上杉謙信と武田信玄をそれぞれ迎え撃った「小田原城の戦い」。関東屈指の猛将たちはなぜ小田原城を攻略できなかったのか? 豊臣秀吉による小田原城攻めとの違いに注目しながら見ていきましょう。

上杉謙信の小田原城攻め

戦国大名北条氏は、鎌倉時代の執権北条氏と区別して後北条氏ともよばれている。その初代が伊勢宗瑞(そうずい)、通称北条早雲である。ちなみに、苗字を伊勢から北条に変えるのは2代目氏綱からである。

伊勢宗瑞による小田原城(神奈川県)奪取の年次について、従来は明応4年(1495)とされていたが、近年の研究で、同9年(1500)のことと考えられている。以来、3代氏康、4代氏政、5代氏直と、5代にわたって小田原城を居城とし、「関八州国家」とよばれる強大な大名領国を形成していた。

その間、永禄4年(1561)には上杉謙信の小田原城攻め、同12年(1569)には武田信玄の小田原城攻めを受けるが、2度とも撃退に成功し、最後、豊臣秀吉の小田原城攻めで、天正18年(1590)降伏し、戦国大名としての北条氏は滅亡する。そこで、まず、上杉謙信の小田原城攻めをどう撃退したのかをみておこう。

近世小田原城本丸
近世小田原城の本丸

永禄2年(1559)12月23日、3代氏康は子の氏政に家督を譲っている。これは、同年、領国全体が飢饉状態に陥ったことへの責任を取ったものといわれている。当主を新しくし、いわば領民に「世直し」を期待させる施策である。そのため、家督を譲り、隠居の身であるが、実質的な権限はまだ氏康が握っていた。

そのような関東の状況をみて動き出したのが上杉謙信である。氏康によって逐(お)われていた関東管領上杉憲政を復帰させるべく、翌3年(1560)9月から関東への侵攻をはじめている。その動きに、北条方だった岩付(いわつき)城主の太田資正や忍(おし)城主の成田長泰らが上杉方に転じたため、北条氏の勢力圏は武蔵中部まで後退する形となったのである。

そして、いよいよ翌4年(1561)、謙信は自ら8000の越後軍を率い、それに関東諸将の軍と合わせ、2月に鎌倉に入り、ついで北条氏の本拠小田原城に攻めかかった。3月13日から城攻めがはじまり、上杉軍は小田原城の四門(よつもん)の一つ、蓮池門に迫ったが、そこを抜くことはできなかった。謙信は大磯に本陣を置き、1ヵ月近く攻撃を続けさせたが、それ以上の城攻めをあきらめ撤退している。

これは、このあとの武田軍とも共通するが、上杉軍は兵農未分離で、これ以上の長期滞陣が難しかったからである。それにしても、城門を破られなかったわけで、小田原城が要害堅固だったことが勝因だったことになる。

ちなみに、このあと、城を落とすことができなかった謙信は、鎌倉の鶴岡八幡宮の社前で、上杉憲政から名跡を継承し、関東管領に就任している。それまでの長尾景虎から上杉政虎(のち、輝虎、さらに出家して謙信)になるのはこのときのことである。

武田信玄の小田原攻め

北条氏と武田氏は「甲相駿三国同盟」で固く結ばれていた。武田信玄の娘黄梅院が北条氏政に嫁いでいたが、永禄11年(1568)12月に、信玄が駿河に攻め込み、今川氏真を駿河から逐ったことに反発し、敵対関係となった。北条氏康の娘が今川氏真に嫁いでいたからである。

そして、ついに翌12年(1569)9月、信玄は北条領の武蔵に攻め入っている。はじめ、小田原城の支城鉢形城(埼玉県)を攻め、ついで同じく支城の滝山城(東京都)を攻めている。鉢形城も滝山城も落とさないまま、10月1日から本城の小田原城攻めにかかっている。

信玄は風祭(かざまつり)に本陣を置き、内藤昌豊の部隊に小田原城を攻めさせているが、主戦場となったのは、先の上杉謙信のときと同じく蓮池門だった。ということは、このころの小田原城の大手門が蓮池門だったということである。蓮池とよばれる堀の前面に設けられた門で、近世小田原城の三の丸と城下の境にあたる幸田口門のあたりと推定されている。

小田原城、幸田口門跡
近世小田原城の幸田口門跡。戦国時代はこのあたりに蓮池門大手門)があったとされる

しかし、信玄もそこを突破することができず、4日まで攻めたところであきらめ、撤退しているのである。籠城戦で敵を撃退した戦いということにはなるが、どうも信玄の場合は、本格的な城攻めだったとは思えない。

このあと、撤退する武田軍と、それを追う北条軍との間にくり広げられたのが10月6日の三増(みませ)峠(神奈川県愛甲郡愛川町・相模原市津久井町)の戦いである。

豊臣秀吉の小田原城攻め

戦国を代表する名将といってよい上杉謙信および武田信玄を、小田原城に拠って撃退したことは城の有用性というか有効性を端的に物語るものである。ただ、そのことが裏目に出てしまったこともみておく必要がある。

天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めにあたり、北条氏政・氏直父子は小田原城に籠城し、豊臣の大軍を迎え撃つことになった。氏政・氏直父子が秀吉に対抗した理由の一つに、二人が小田原城を過信していたからではなかったかと私は考えている。「上杉謙信・武田信玄にも攻め落とされなかった」ということで、「秀吉も」と考えた可能性はないだろうか。

謙信・信玄にしても、その軍勢は兵農未分離だった。だからこそ、長期の滞陣ができず、兵を引いたわけであるが、北条側は、豊臣軍も同じようなものと考えていたのではなかったろうか。

実は、北条軍は、この秀吉の小田原攻めのときはまだ兵農未分離が基本だったのである。氏政・氏直も、豊臣軍が大軍で攻め寄せてくることは知っていたはずである。21万とも22万ともいわれる数までは正確につかんではいなかったと思われるが、「大軍であればあるほど兵站(へいたん)が続かなくなり、撤退するはず」という甘い読みがあったのかもしれない。

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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
   『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
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