理文先生のお城がっこう 歴史編 第42回 織田信長の居城(小牧山城2)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。今回のテーマも前回に続き、織田信長が清洲城の次に拠点を移した小牧山城(愛知県小牧山市)について。2004年から始められた発掘調査によってわかった、かつての小牧山城の姿について見ていきましょう。

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【理文先生のお城がっこう】歴史編 第41回 織田信長の居城(小牧山城1)

永禄6年(1563)、織田信長は清洲(きよす)から小牧山(こまきやま)へと居城(きょじょう)を移(うつ)しました。その後、わずか4年で美濃(みの)攻略(こうりゃく)に成功したため、今度は岐阜へと移り住むことになります。そのため、小牧の城は美濃攻(ぜ)めの糸口とするための(とりで)のような様子の城だと、後の世の人たちに言われてしまいます。しかし、小牧市教育委員会の発掘(はっくつ)調査(ちょうさ)によって、それまでの小牧山城のイメージがガラッと変わってしまいました。今回は、発掘調査でわかった城の姿(すがた)について見ていきたいと思います。小牧山城では、現在(げんざい)も発掘調査が継続(けいぞく)していますので、また新たな発見があるかもしれません。新聞発表など、注目しておきましょう。

小牧山山頂(主郭)周辺模式図
小牧山山頂(主郭)周辺模式図(作画:平手 卓氏)
「史跡小牧山主郭地区 第11次発掘調査 現地説明会資料」より転載

三段の石垣で囲まれた主郭

2004年度から続く山頂(さんちょう)付近の発掘調査で、信長が築(きず)いたと考えられる石垣(いしがき)が次々と見つかりました。とりあえず、現在(げんざい)(2020年度)までの成果をまとめてみましょう。

まずは、小牧山の山頂部の主郭(しゅかく)を取り囲むように段築(だんちく)(階段(かいだん)のように斜面(しゃめん)を形成することです)(じょう)に築かれた三段の石垣(上段・中段・下段)が確認(かくにん)されました。石垣を支(ささ)える基礎(きそ)となる根石(ねいし)付近を中心に、当時のままの形で残っていました。残された石垣は、直角より大きい角度になる入隅(いりすみ)(凹になっている角)・出隅(ですみ)(凸になっている角)を繰(く)り返しながら主郭を取り囲(かこ)んでいます。

石垣に使われていた石材は小牧山にあるチャート(堆積岩(たいせきがん)の一種)を中心に、一部に他の場所から運び込(こ)まれた花崗岩(かこうがん)・川原石も見られます。石材はすべてが自然の石で、割(わ)ったり欠いたりするような加工の痕(あと)は認(みと)められません。積み方は、自然石を積みあげた「野面積(のづらづみ)」で、石と石の接合(せつごう)部は水平に通る部分が多く、隅角(ぐうかく・すみかど)は「算木積(さんぎづみ)」になっていません。山を形作っていた岩盤(がんばん)を、壁(かべ)のように削(けず)って切り立てて、石垣の面と併用(へいよう)している部分も見られます。

小牧山城、石垣
最上段に積まれた石垣。後の世に抜(ぬ)き取られてしまってはいますが、元の位置に残っていた非常(ひじょう)に大きな巨石(きょせき)が確認(かくにん)されています

最も上段に積まれた石垣は、一つの石で2t以上の巨大な石を用いた石垣で、地形に沿(そ)って緩(ゆる)やかに折れ曲がりを繰り返しながら、主郭を取り囲んでいました。石垣の高さは2.5~3.8mほどと推定(すいてい)されます。中でも、北西側斜面の台形に張(は)り出した部分の石垣は、他の斜面よりも格段(かくだん)に大きな石材を用い、ここが主郭で最も高い3.8mの石垣となります。張り出し部の正面が、斎藤(さいとう)氏の居城の稲葉山(いなばやま)城(岐阜県岐阜市)になり、何か深い意味がありそうな配置になっています。方形の張り出しは、搦手(からめて)口南脇にも認められますので、都合2ヵ所が突出(とっしゅつ)していたことになります。

中段の石垣は、上段の石垣とほぼ並行(へいこう)して築かれ、上段の石垣の下の部分に合わせて2m程(ほど)の平らになる部分を造(つく)って、張り出させています。石材は、上段石垣よりはかなり小ぶりで50cm程の自然の石を利用して積み上げ、その高さは1.5mほどが推定されています。一部は、石垣とはならないで、基盤の岩盤を石垣に見えるように削り込んで、石垣と併用している箇所(かしょ)も認められています。上部の平らになる部分の一部に玉砂利(じゃり)が敷(し)かれている箇所が残っているため、平らな所は主郭を廻(まわ)る通路として利用されていたと考えられています。

下段の石垣は、初めは急斜面となる北~北東斜面のみに積まれただけと思われていましたが、その後の調査で途切(とぎ)れる部分はあるものの、ほぼ全周を廻っていたことがわかりました。石材は小ぶりで30~50cm程のものがほとんどを占め、小牧山にある自然石(堆積岩)と、他の場所から持ち込まれた花崗岩・川原石も多く含まれています。

隅角の積み方は、この上なく未熟(みじゅく)で、確(たし)かに隅だと確認するのも難(むずか)しいくらいです。また、高さも1m前後と低く、腰巻(こしまき)石垣と呼ばれる土塁(どるい)の下部だけを石垣にした状態(じょうたい)になっていました。

小牧山城、石垣模型
3段の石垣模型(もけい)(小牧市教育委員会蔵)。最上段の石は、非常に大きな石を用い、3段目は腰巻状になっています

2カ所の虎口と登城路

虎口(こぐち)は、主郭南側虎口が大手(おおて)口、東側が搦手口と、2ヵ所で確認されています。大手口は、桝形(ますがた)状の方形の平らになる面が存在(そんざい)していました。平坦(へいたん)な面は、向かって左側と正面が巨石を利用した石垣で、左南端(たん)に直方体の花崗岩巨石(1.7~2m四方、推定約23t)が位置しています。右側は、石垣は残ってはいませんでしたが、石垣の背後(はいご)の裏(うら)込め石が残り、ここも石垣であったことが確実です。大手口は、三方を石垣で囲い込まれた四角形の空間を持つ構造だったのです。東側の搦手虎口は、主郭が東側に方形に張り出す北面の石垣を、搦手口の左側を規制(きせい)する石垣として利用していました。この石垣に沿って、一部側溝(そっこう)(排水路)と推定される石組が伴(ともな)い、礎石(そせき)が確認されました。この礎石は、門礎石と考えられ、主郭で初めて確認された建物遺構(いこう)になります。

小牧山城、大手口模型
大手口模型(小牧市教育委員会蔵)。三方を石垣に囲まれた枡形状の虎口です

大手口も搦手口も、そこに至(いた)る通路は上段・中段石垣と垂直(すいちょく)にぶつかり、そのまま直線で虎口に入る「平入り虎口」でした。

大手口へと至る登城路は、中腹(ちゅうふく)から山頂に至る場所では、折れ曲がりを繰り返す、俗(ぞく)に「七曲り」と呼(よ)ばれるような道筋(みちすじ)で、その道幅は6~7mと幅広(はばひろ)でした。登城路に沿った壁は、上半分が石垣、下が岩盤を人工的に削って組み合わせ、そそり立つように見せていたようです。路面は、砂礫(されき)を用いた舗装(ほそう)の部分もあり、高度な技術(ぎじゅつ)を用いていたことも判明(はんめい)しました。

小牧山城、大手への登城路の推定模式図
調査で判明した大手への登城路の推定模式図(作画:平手 卓氏)
「史跡小牧山主郭地区 第12次発掘調査 現地説明会資料」より転載

小牧山城、登城路
大手口へと至る登城路。登城路に沿った壁は、上半分が石垣、下が岩盤を人工的に削って組み合わせてありました

主郭の南下の平坦面で、周囲(しゅうい)に玉石(たまいし)を敷き詰めた礎石(そせき)建物が確認され、そこから高級な茶器(ちゃき)や青磁(せいじ)(中国製の青緑色の磁器)も出土したことから、信長かあるいは奥方、一族などという近い関係の人たちが酒を飲んだり遊んだり、歌や踊(おど)りを楽しんだりするための施設(しせつ)が考えられています。

また、山頂近くに最大3mの幅で玉石を敷いた場所と立石(たていし)などが確認され、庭園の跡(あと)とも推定されています。

小牧山城、礎石建物
周囲に玉石を敷き詰めた礎石建物

今後さらに調査が進むと、小牧山城から、何が岐阜城(岐阜県岐阜市)や安土城(滋賀県近江八幡市)へと受け継(つ)がれ、何が新しく加わったのかがわかってくると思われます。

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※居城(きょじょう)
領主(りょうしゅ)が日常(にちじょう)住んでいる城のことです。または、領主が、拠点(本拠)とするために築いた城のことです。本城(ほんじょう)と呼ばれることもあります。

※砦(とりで)
取り出して築く城の意味です。居城(本城)の外の、要所に築く小規模(きぼ)な構(かま)えの城を指します。出城(でじろ)も同じ意味になります。

※根石(ねいし)
石垣のいちばん下に据(す)えられた基礎になる石のことです。

※野面積(のづらづみ)
自然石をそのまま積み上げた石垣のことです。加工せずに自然石を積み上げただけなので石の形や大きさに統一性(とういつせい)がなく、石同士がかみ合わず、隙間(すきま)が空いてしまいます。そこで、その隙間に中型(がた)から小型の石材を詰(つ)めることもありました。

※隅角部(すみかどぶ・ぐうかくぶ)
石垣が他の石垣と接して形成される角部(壁面が折れ曲がっている部分)のことです。曲輪(くるわ)(がわ)に対して外側に折れている隅角を「出隅」(ですみ)と言い、内側に折れている隅角を「入隅」(いりすみ)と言います。

※算木積(さんぎづみ)
石垣の隅部で、長方形に加工した石材の長辺と短辺が、一段ごとに互(たが)い違(ちが)いになるように組み合わせて積む積み方をいいます。天正(てんしょう)年間(1573~92)頃(ごろ)に始まりますが、積み方として完成したのは慶長(けいちょう)5年(1600)の関ヶ原合戦後のことです。

※搦手(からめて)
城の背面、裏口のことです。通常は目立たないようにしてあります。

※大手(おおて)
城の正面、表側にあたる入口のことです。「追手」も同じ意味です。

※桝形(ますがた)
門の内側や外側に、攻(せ)め寄(よ)せてくる敵(てき)が真っすぐ進めないようにするために設けた方形(四角形)の空いた場所のことです。近世の城では、手前に高麗門(こうらいもん)、奥に櫓門(やぐらもん)が造られるようになります。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。


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