お城散策妄想記録帳 第3回 葛山城・旭山城(長野県)

有名なお城や日本100名城などに選定されているお城はもちろん、地元の人でも知らなかった!というようなお城まで幅広く訪れてきた城びと読者の“青春の巨匠”さん。これまで行ったお城を訪れた感想はもちろん、そのお城の歴史や背景まで調べ物語風にまとめた記録の一部を城びと読者にもご紹介! 第3回は、第2次川中島の戦いの最前線となり、武田方と上杉方が熾烈な攻防を繰り広げた葛山城と旭山城。目と鼻の先にある2つの城にまつわる驚きのストーリーとは?

2つの山城

狭い盆地に兵が満ちている。睨みあう2つの軍勢はどちらもうかつに戦端を切れない。というのも盆地を見下ろしてそびえる二つの山城が、どちらにとっても気になって仕方がないのである。

その2つの山城は山間の渓流を挟んでたった1Kmとまさに指呼の間にあり、しかも標高もほぼ800mと同じであるから、相手の動向はお互いに手に取るようにわかるのである。おまけに、守将は両者ともこの地区に古代から伝わる原始宗教の担い手であり、当然古くから付き合いもあるだろう。もし小説にするのなら宗教上の宿敵か幼馴染の親友だったとしておきたいような二人だ。

時は天文22年(1553)。所は善光寺平を見下ろす旭山城葛山城(かつらやまじょう)(ともに長野県)。後に第二次川中島の戦いとして知られる合戦であり、犀川を挟んで睨みあう軍勢は上杉謙信(長尾景虎)と武田信玄(武田晴信)。両者の先兵として前線で戦う羽目になっているのは、葛山衆の落合備中守治吉と善光寺堂主の栗田刑部大輔永寿である。

葛山城本郭から望む旭山城
葛山城本郭から望む旭山城

2つの古代宗教と異形の戦い

葛山衆は葛山一帯を領する国衆である。その領地の飯縄山(いいづなやま)にある飯縄権現は、高尾山を始めとする全国の飯縄大明神・権現の総社として尊崇を集め、古代から天狗の横綱「飯縄の三郎天狗」や霊能を有する「管狐」、妖術「飯縄の法」を編み出した「千日太夫」、忍術の祖「忍」が盤踞(ばんきょ)していたと伝わる。葛山衆は飯縄権現を守護する身として、一族の危急の戦いにこれら人外の力の助けを借りていたと思える。いやむしろ葛山衆自体が飯縄の忍びの一族ではなかったかとすら思えるのだ。

方や善光寺は宗派が生まれる前の古代仏教寺院であり、堂主・別当として僧兵の取りまとめを行っているのが栗田氏である。善光寺の秘仏は天竺から百済を経て日本にもたらされたもので、物部氏の廃仏運動により信州に伝わったものだと言う。古代仏教は現世利益を求め、加持祈祷による呪法をその武器とする。飯縄権現の霊力に対抗するために栗田氏を守将として善光寺の法力を動員したのではないか。

さらには武田方の調略担当真田幸隆もこの対陣に加わっており、この山間の戦いが2つの山城を巡る権謀渦巻く調略合戦と、呪術・忍術さらには魑魅魍魎(ちみもうりょう)・妖怪変化も加わった異形の戦いだったと妄想つきないのは自分だけだろうか。

第2次川中島の戦い

そもそも、善光寺平は村上義清の領国であった。武田軍の北上に抗して敗れた村上義清は上杉謙信を頼る。上杉謙信としても善光寺平を敵対勢力に奪われると、目と鼻の先にある春日山城(新潟県)に肉薄されてしまうため、村上義清を保護して善光寺平に出兵することになり、ここに通算5回にわたる川中島の戦いが始まるのである。

第1次合戦の際は村上氏与党として、栗田永寿も落合治吉も上杉方として戦ったが、第2次合戦では栗田永寿は調略により武田方に寝返り、善光寺平を見下ろす落合治吉の居城葛山城の抑えとして、旭山の古城に援兵3000人、弓800張、鉄砲300挺を武田方から受けて入城する。旭山城はこの時武田方の改修があって、石垣などにより要害として補強された。対して、葛山城にも長尾方から村上氏の一族小田切幸長が援軍として派遣され、もともと急峻な山頂を有し要害であったが、さらに大規模な改修により難攻不落な城になったと考えられている。かくして、この2城が第2次川中島の戦いの最前線となってしまうのであった。

戦いは、攻める武田方に守る葛山城で展開したようだ。武田氏得意の調略も含めて、あの手この手を繰り出すが、城方も要害を頼りに武田勢を寄せ付けない。飯縄の妖術・忍術も駆使したのだろう。山岳戦になれば天狗=山法師の独壇場であったろうし、管狐(くだぎつね)が敵方の動きを察知し混乱を巻き起こしたろう。葛山城の水の手が弱点であることを隠すために、旭山城から良く見える崖に米を滝のように落として水が豊富であると見せかけたという伝承が残るが、これは飯縄の妖術の類だったのかもしれない。

ついに葛山城を落とせないまま対陣200日に及び、両軍とも兵の士気が衰えた頃合いに今川義元が仲介に乗り出し、両者対陣前の状態に戻す約束で陣を引き払うこととなった。旭山城はかくして上杉方によって破却され、北信濃衆は武田方から本領を返還されたのである。この条件は長尾方の勝利とも見えるが、ここからが武田信玄の面目躍如。停戦後真田幸隆により葛山衆の内部に調略の手を進め、落合一門の重臣の調略に成功。また、葛山山麓にある静松寺の僧から葛山城の水の手が実は脆弱であることを知った上で、停戦から2年後の弘治3年(1557)2月、信越国境の雪が解ける前に馬場信房を大将に1万7000余人の大軍で葛山城を急襲。水利の不便を突いた火攻めにより全山防塁も含めて炎上。城兵必死の防戦も城内から身内の寝返りが起こり、ついに落合治吉は援将小田切幸長ともども奮戦の上討死。城兵も多数討ち取られ、逃げ場を失った女房衆は、崖の上から身を投げて死んだと伝える。

同年4月雪解けを待って攻め寄せる上杉謙信は、北信濃の武田方諸城を攻撃し、善光寺平を奪還。旭山城を修復して善光寺脇にある横山城に着陣した。ここに第3次川中島の戦いが始まり、戦いの舞台はいよいよ川中島へと移って行くのである。

葛山城

葛山全景
葛山全景 (財)ながの観光コンベンションビューロー 提供

葛山城登山口
葛山城登山口

まずは葛山城を訪ねよう。静松寺(じょうしょうじ)の裏からのルートと、飯縄山方面にある葛山神社からのルートがある。飯縄権現にもぜひ立ち寄りたかったので、葛山神社から登坂することにする。途中10mほど笹が繁茂して藪漕ぎしなくてはならない箇所があったが、後は急坂でかなりきつい登山ではあるが、特に難所は無く30分ほどで北側の城域に到達。

葛山城本郭
葛山城本郭

城内は堀切で区切られた小さな郭が尾根沿いに何段も続き、そこを登り切るとやや大きな郭に到達する。ここから本郭に至るのだが、そこには見上げるような壁がそそり立っている。壁につけられた狭い通路をよじ登ると本郭である。城内最高所で、城址碑と案内板が立っている。ここからすぐ南に旭山城が見える。城内の様子が手に取るように見えただろう距離である。本郭から西には二重の大堀切があり、その先に尾根を削り残した土橋と本郭と同規模の郭がある。ここから眺める善光寺平は絶景である。

葛山城畝状堀切
葛山城畝状堀切

本郭に戻り、東への虎口を進むと静松寺へと向かう登山路があるが、こちら側には畝状に7連続もの堀切がある。どのように使用したのか良くわからないが、何らかの妖術のネタだったのか? いずれにせよ南の旭山城からの敵襲に備えた防塁であることは間違いない。

旭山城

旭山城案内標識
旭山城案内標識

南北朝時代に築城されたと伝わる古城である。葛山城が台形の山頂で居住性が高く、いかにも山城といった風情があるのに対し、こちらはとんがった山頂を有している。山麓から登るとかなりの高所に築城されているが、中腹の朝日山観世音堂まで細いながら舗装された道ができているので、車で登城すると15分くらいの登山で城域に達することができる。それほどの急勾配な山道でもない。

旭山城本郭の土塁
旭山城本郭の土塁

主郭は30m×30m程の方形をしており、周囲に土塁が残る。虎口が東西にあり、どちらから出ても堀切で分断されている。

旭山城倉屋敷
旭山城倉屋敷

旭山城物見岩
旭山城物見岩

西側は倉屋敷と呼ばれる郭があり、尾根沿いに腰曲輪が連なる。東は木曽義仲の霊碑(なぜここにあるのか良く分からないのだが)が堀底にある大堀切を挟んで主郭と同規模の二郭があり、さらに竪堀に連なる二本の堀切と物見岩と呼ばれる大石でできた虎口を経て善光寺平を見渡せる郭に至る。この郭の中央には雨水を貯めておいたと伝わる窪地がある。ということは葛山城に負けず劣らずこちらも水利は厳しい状態だったということか。

旭山城石垣
旭山城石垣

この城は上杉謙信によって破城された城で、確かに城内至る所に石垣を崩したとおぼしき石が転がっている。ただ、一旦破城した後、再度上杉謙信によって再興されたというが、この状態はどう理解すれば良いのだろうか。

その後

旭山城からの善光寺平の眺望
旭山城からの善光寺平の眺望

落合氏は滅亡したが、葛山衆の生き残りたちは上杉家に仕え、上杉景勝の転封に伴い米沢に移ったという。これもこの一族が忍者衆だったからではないかと思えてしまう。飯縄権現はその後戦勝の神として上杉・武田両家から神領が寄進され、さらには徳川家光も朱印地を寄進するなど崇められた。現在も尊崇の対象として飯縄山の中腹にある集落の中央に社殿を構える。

栗田永寿は、長尾景虎の再攻に遭って善光寺の秘仏である本尊を抱えて甲斐国に逃走し、甲斐善光寺を創建することとなる。さらに永寿の孫は高天神城(静岡県)で武田方の侍大将として討死し、一族は滅ぶこととなった。なお、善光寺の秘仏は武田家滅亡後、織田信忠~織田信雄~徳川家康~豊臣秀吉へと渡ったが、秀吉の病はこの秘仏の祟りであるとして秀吉の死の前日に善光寺平に戻された。善光寺サイドにも凄い霊力があったという証左か。江戸時代にこの秘仏を本尊として善光寺が再建され現在に至っている。

なお、本稿はあくまでも史実と史実の隙間を、私の妄想によってつなぎ合わせた仮説ですので悪しからず。

<青春の巨匠的!お城ポイント>
遺構の状況     葛山城  ☆☆☆※  整備されており、遺構も良く残る
          旭山城  ☆☆※   遺構はそれなりに遺るが草の繁茂で判別難しい
歴史への加担度        ☆☆※   両城とも第2次川中島合戦の主舞台
登城難易度     葛山城  ☆☆☆※  葛山神社は路駐のみ。静松寺には駐車場あるかも
          旭山城  ☆     朝日山観世音堂前の駐車場利用
ホスピタリティ度  葛山城  ☆☆※   本郭に案内板あり。本郭に休憩所あり
          旭山城  ☆※    本郭に案内板あり
妄想惹起度          ☆☆☆☆☆ 葛山の帰りに飯縄権現を見つけてから妄想が止まりません


葛山城の基本情報
<住所>
長野県長野市平柴
長野駅より戸隠・鬼無里方面国道406号経由、茂菅の静松寺から徒歩約40分

旭山城の基本情報
<住所>
長野県長野市平柴
<アクセス>
朝日山観世音堂側の平柴登山口から徒歩約30分

善光寺平地図
「お城散策妄想記録帳」第1回・第2回はこちら
第1回 小川城(https://shirobito.jp/article/1179
第2回 反骨の坂東武者 小山義政と粕尾城(https://shirobito.jp/article/1346

執筆・写真/青春の巨匠
少年時代から小説など主に読書を通じて戦国時代ファンになる。大学で自主製作映画作りにハマりイベント業界へ。「お城EXPO」の立ち上げにも参加した。昨年、40年近く務めたイベント会社を退社。仕事では国内・海外問わず出張が多かったが、行く先々で時間を見つけては城巡りを敢行して一人楽しんでいた。歴史小説・推理小説などを中心に年間50冊程度の読書と、映画鑑賞、怪獣のフィギュア収集・プロスポーツ観戦など城巡り以外にも多彩な趣味を持っている。

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