お城散策妄想記録帳 第2回 反骨の坂東武者 小山義政と粕尾城(栃木県)

有名なお城や日本100名城などに選定されているお城はもちろん、地元の人でも知らなかった!というようなお城まで幅広く訪れてきた城びと読者の“青春の巨匠”さん。これまで行ったお城を訪れた感想はもちろん、そのお城の歴史や背景まで調べ物語風にまとめた記録の一部を城びと読者にもご紹介! 第2回は、南北朝時代の下野国の武将・小山義政が最期を迎えた地として知られる粕尾城。この城にまつわる驚きのストーリーとは?

粕尾城、物見櫓・本丸
粕尾城の物見櫓・本丸全景(一部)。右手が大手

2回目となる「お城散策妄想記録帳」は、関東最強の反骨武者(と断然私が評価する)小山義政が関東中の武者の大軍を相手に、最後の血戦を挑んだ粕尾城を紹介したい。

関東における戦国時代の幕明けとされる「永享の乱」のプロローグとして、関東最大の戦乱を巻き起こした小山義政という武将のことを知る人が意外と少ないようなので(もっとも、私も少年時代に小山市内、しかも小山氏の館跡であった神鳥谷(ひととのや)というところに住んでいたので知っていたのだけど)、まずは小山氏の話から始めよう。

関東に覇を唱えた一族・小山氏

小山は、関東平野北端に位置し、陸奥に至る鎌倉街道中道と東山道の交差点にあたり、さらには利根川の支流思川を擁する水陸交通の要衝にあたる。その地を本拠とする小山氏は、当時関東最大の穀倉地帯と水陸交通の要衝を支配する大名として、関東に覇を唱えた一族である。もともと平将門を討った藤原秀郷の末裔で、結城氏・皆川氏など北関東に蟠踞した国人衆の本家でもある。源頼朝の与党として鎌倉幕府樹立に大功あり、鎌倉時代を通じて幕政に重臣として参加し、さらには足利尊氏による討幕戦や南北朝の争乱・観応の擾乱で一貫して尊氏に従い功績を上げ、下野国守護大名として栄えることになる。

ところが下野国にはもうひとつ二荒山の神官でもある宇都宮氏という大勢力があった。こちらも小山氏同様楠木正成討伐戦や観応の擾乱で武功を上げ、足利直義方として失脚した上杉氏に替わって一時は越後国・上野国の守護になるなど室町幕府による恩賞を見ると小山氏に勝る待遇を勝ち取っている大名だ。宇都宮氏も下野国の守護として遇されており、それぞれ半国守護として並立した。この両者が衝突するのは必然だったかと思う。

小山氏の宿敵・鎌倉公方足利氏満

康暦元年(1379)鎌倉公方足利氏満は、従兄弟にあたる将軍足利義満に替わって将軍になる野望を抱き、京都で幕府管領を廻って争いが起きた機をとらえて山内上杉憲方の軍勢を西上させた。しかし、この策謀を察知した義満は、関東管領が鎌倉公方の補佐役である以前にその任命権が幕府にあることを利用して、関東管領上杉憲春に圧力をかけて諌死させ、西上途中で成り行きを見守っていた上杉憲方を後任の関東管領に任命してしまうのである。手足と思っていた関東管領を幕府に取り込まれてしまった氏満は、保身のために自筆の弁明書で将軍に詫びを入れる羽目となる。

かくして将軍になる夢が断ち切られた氏満だったが、そんな折関東で大事件が発生する。「小山義政の乱」である。

小山義政の登場

小山義政は藤原秀郷の玄孫である小山政光を氏祖として11代目の当主にあたる。文和4年(1355)に薩埵山(さったやま)合戦で活躍した小山氏政の京都在陣中の死去に伴い家督を継いだ。義政の生年が不詳のため年齢は推測するしかないが、小山義政の乱の最中に嫡子の若犬丸に家督を譲っており、若犬丸がこのとき15歳で元服したとすると、義政20歳頃の子として本人は乱の当時35歳~40歳といったところか。そうだとすると気力・体力・知力ともに旺盛な歳回りではある。名家の頭領ではあるが、ここは戦いに明け暮れる坂東の地。南北朝の争乱や観応の擾乱で勝ち馬に乗り続けた義政は、所領を拡大しながら積極的に勢力の拡大にのめり込むのであった。

応安3年(1370)宇都宮氏綱の乱で宿敵宇都宮氏が鎌倉府に討たれて衰退後、小山氏は下野国唯一の守護大名として遂に関東管領家と肩を並べる関東最大の大名となった。その所領は、下野国の本領に加えて下河辺庄(古河市・野田市)・上野国舘林・武蔵国太田庄(久喜市・春日部市)などに及び、5カ国に跨る広大な所領を支配するのである。これは単なる好戦的な坂東武者ではなく、後の織田信長のような機動力のある戦略家でもあったのだろうと私には想像できる。

また、自らが鎌倉以来の名門で、関西から落下傘のように坂東の管理者として関東に下向した上杉家の下風に立つなど我慢が出来なかったろうし、足利家すらかつては同格の御家人仲間だったわけで、誰のおかげで将軍になれたのか的な思いが無かったとは言いきれまい。このような名家としてのプライドと強大な勢力が、関東管領上杉家との対立を招き、広大な所領が上杉家と対抗するための直轄領が欲しい鎌倉公方氏満の格好のターゲットにもなってしまうのであった(乱後の小山義政の遺領は関東管領・幕府とすったもんだの挙句、鎌倉公方の直轄地として後の古河公方家を支えることとなる)。

小山義政の乱

康暦2年(1380)、宇都宮領に進撃した小山義政勢が現雀宮近辺の茂原で宇都宮基綱勢と交戦し、小山勢は200余名の戦死者を出しながら敵の大将である宇都宮基綱を討ち取るという合戦が発生した。この合戦の原因は諸説あり、両家の地下人による領地紛争が原因で鎌倉府の仲裁にも関わらず合戦沙汰となったという説や、小山義政が幕府とつながりが深く、関東の基盤強化を図る鎌倉府の攻撃対象になったという説、小山義政が南朝を支持して挙兵したための討伐であったという説もある。定説は最初の説のようだが、南朝説も伝奇的で妄想が膨らむので捨てがたい。実際に小山義政の乱後、足利氏満はその生涯に渡って、10年以上小山残党のゲリラ戦に悩まされることになるのだが、その反乱は南朝勢の支援下になされ、あながち虚説とも言い切れないと思うのである。

いずれにせよ将軍に詫びを入れ、関東管領に監視されることになった鎌倉公方足利氏満として、関東でのこのような事件が発生したことは責任・能力を追求される事態となった。焦る氏満は将軍義満にわざわざ重臣を派遣して報告・討伐の許可を得ると同時に、自らも武蔵国府中まで出陣し、関東管領上杉軍を先陣に関八州に小山討伐令を発して小山に進軍した。対する小山軍は神鳥谷館・鷲城祇園城(ともに栃木県)で応戦するも戦力的に茂原合戦の傷が癒えておらず、二月程度の攻防後降伏を選ぶのであった。

鷲城
小山氏の居城・鷲城

祇園城
祇園城。鷲城と中久喜城とともに「小山氏城跡」として国の史跡に指定されている

これで一件落着かと思われたが、翌永徳元年(1381)言を左右して鎌倉府への謝罪を先延ばしながら時を稼いだ義政は、着々と合戦の準備を整え、一段と要塞と化した鷲城に籠り再び反旗を上げるのである。この事態に激怒した鎌倉公方氏満は、将軍直属であった武州白旗一揆を将軍から借り受け、再び関八州の大軍を催して小山に進軍した。しかし今回は満を持した義政の反乱であり、簡単には決着がつかない。進軍中の鎌倉軍に南朝方の新田氏残党が攻撃を仕掛けたり、太田荘を始めとする小山氏所領の各地で迎撃戦が展開されるなど、鷲城にとりつくまで半年近くもかかることとなった。さらには鷲城でも白旗一揆が壊滅させられるなど激戦半年あまり、最後は土塁を破壊され堀を埋められた段階で、義政が出家して嫡子の若犬丸に家督を継ぐ条件で降伏することとなった。義政一行は400名の家臣とともに鷲城を鎌倉府に引き渡して祇園城に入り、鎌倉府の沙汰を待つこととなって第二次小山義政の乱は終結した。

ところが翌永徳2年3月、鎌倉府からの提示された条件が想定以上に厳しかったからか、あらかじめもう一丁のつもりだったのか、小山義政は若犬丸(もうこの時には元服していたはずだが、史書ではこの幼名で通されている)とともに祇園城に火をかけ、足尾山地の山深い粕尾城で3度目の挙兵を行うのである。ここまで来てやっと本稿の主役「粕尾城」が登場した。小山義政が築城したと伝わる詰めの城である。簡易な造りの城ではないので2度目の挙兵時には築城を開始していたと推測される。

小山一族の詰め城 粕尾城

粕尾城の縄張り図
休憩所に貼られている粕尾城の縄張り図

粕尾城は、祇園城・鷲城と同様に思川の河岸段丘にある。他の2城が平野部にあるのに対して、粕尾城は足尾山中の思川最上流部の谷合に位置し、川が削った険しい断崖を利用した要害の城である。比高は70mほどなので分類すると丘城か。今は山塊をえぐり貫いたトンネルが開通していて皆川などから車で1時間程度で到達できるが、当時はめちゃくちゃ険しい峠を越えるか、大迂回して川沿いに延々と細い渓谷を通らなければならず、まさに最終決戦のための詰めの城という立地だ。思川に面した西側から南側は岩盤による断崖となっており、東側の大手口からのアプローチとなる。北が搦手となり奥日光から陸奥国に連なる山塊に通ずるが、そちらも切り立った切岸状の崖で遮られている。

粕尾城、大手口
大手口

粕尾城、断崖
断崖を中腹から見上げる

恐らく水の手であったろうと思える泉のある大手口から城内に進むと、左右に土塁と空堀が見えてくる。縄張り図を見ると城の中央には、この土塁・空堀に囲まれる形で三段の削平地がある。『栃木県の中世城館跡』によると25m角の本丸・32.5m角の二の丸・110m×32mの三の丸による複郭式城郭で、さらに馬場と武者溜りがあるようだが、現在はこの郭跡は未手入れの自然林となっており確認は難しい。城域は13万㎡という広大さで、ざっと見でここを効果的に守るには最低でも1000名くらいは必要ではないかと私は推察する。空堀と土塁が馬蹄型にこれらの郭群をとりまき、素走り・馬走りと名付けられている。もしかすると、ここを武者や騎馬が駆け回ったのだろうか。断崖~土塁~空堀~郭と連なる空堀から郭への高さは場所によっては現在も3m程度はあり、かなりの要害となっている。郭内は自然林で進入が困難なため、下草が少ないこの空堀と土塁を登って行くことにする。

粕尾城、空堀と土塁
空堀と土塁

城址として自治体の整備がなされている様子が無く、地元の有志の方(あるいは地権者の方か?)が手を入れられているようだ。笹藪や倒木に閉口しながらも土塁上をなんとか進んでゆくと、三ノ丸あたりでいきなり10頭くらいの鹿の群が目の前に飛び出してきて大いにびびる。私がいきなり彼らの餌場に現れたので驚かせてしまったようだが、イノシシやクマでなくて本当に良かったと今にして思う。熊鈴を持ってこなかったことを悔やんだが、ここは意を決して先に進むことにする。三ノ丸・二ノ丸・本丸脇の土塁を登りきると、城の最高部にあたる物見櫓跡に至った。ここには小さな社があって、手入れも行き届いており、私以外にここまで来る人もいるのだなあととても安心した。この物見櫓跡からの眺望は断崖の上から思川が作る渓谷を見渡せて素晴らしい。

粕尾城、物見櫓跡
物見櫓跡

粕尾城、物見櫓跡
物見櫓から見下ろす断崖。眼下には思川の河原を望む。

山奥で利用価値が無いためか戦国期に利用された形跡がなく、小山義政の乱当時の縄張りではないだろうか。そのわりには見事に残る土塁・空堀・岩盤の断崖など見どころが多い。この城も歴史の舞台としてもう少しスポットライトが当たってもいいかと思う。

落城とその後

櫃沢城推定地
櫃沢城推定地

3度目の討伐となり、さすがに嫌気がさしたか、厳しい沙汰に同情したか、関東管領上杉憲方も出陣を渋り、犬懸上杉朝宗と小山義政に替わって下野国守護となった木戸法季が、雪辱に燃える白旗一揆を先陣に山深い粕尾に攻め込むこととなった。ところがあまりの深山で、途中義政方のゲリラ攻撃に時間を取られながら散々たる進軍を続け、発向から攻城戦が始まるまで二月を要することとなったが、現地到着後の攻城戦自体は1週間程度であえなく落城。狭い渓谷を埋め尽くす討伐軍に対して、粕尾城の規模とせいぜい500名程度であったろう守兵の数のバランスが悪かったのだろうと想像する。義政は若犬丸を山中に逃がしたのち、夜間に出城である櫃沢城にて最後の血戦を試みて、思川のさらなる上流にある赤石河原というところで自決した。自らの命より後世への名を選ぶ坂東武者の意地と誇りを感じるのは私だけだろうか。

息子の若犬丸はここから山中を踏破して陸奥国三春の田村氏を頼り、常陸の小田氏をはじめ各地の南朝方勢力と合力して以後10年に渡って反鎌倉府のゲリラ戦を展開したが、最後は会津に追い詰められ自害。最初は頑固親父に引きずられたのだろうが、父の無念を晴らすべく最後は南朝残党や浪人衆・悪党などの非合法勢力の旗頭となったのである。幼名で通っているのでつい天草四郎的なイメージを持ってしまうが、どちらかというとチェ・ゲバラのような青年だったのかもしれない。

義政の妻芳姫は、義政を慕って粕尾城へと向かう途中で農夫にかどわかされ殺されてしまい、白蛇と化して農夫の一族を根絶やしにしてしまったという伝承が残っている。

小山隆政(幼名・若犬丸)の遺子、宮犬丸と久犬丸の墓
小山隆政(幼名・若犬丸)の遺子、宮犬丸と久犬丸の墓

また、若犬丸死後、幼い息子2人は母親と会津の山中に隠れていたところを、会津の豪族芦名氏に捕縛され鎌倉府に送られ、六浦に生きながら沈められたという。今も金沢八景の住宅地に母親と幼子の墓が残されている。本稿を書くに当たって車でひとっ走り尋ねてみたが、途中一切案内板・表示などの類もなく、散々迷ったあげくに見つけた墓は、住宅地の真ん中にそこだけ削り残された丘の上に建っていた。竹林の中の墓は海の見える丘であるに関わらず、海には背を向けてかつての故郷である北の大地を向いて建っており、父の帰りを待っていたであろう幼子の思いがこめられているようで哀れである。ここに名門小山氏は滅亡した。

寝覚めが悪かったか、鎌倉公方氏満はこの後、小山一族にあたる結城氏から小山氏を継がせるが、この再興された小山氏も小田原合戦で滅亡した。

<青春の巨匠的!お城ポイント>
遺構の状況    ☆☆   遺構は良く残っているが、見学のための整備はほぼ未整備
歴史への加担度  ☆☆☆  小山義政の乱の評価によるが、もう少し着目されても良いのではないか
登城難易度    ☆☆☆※ 山奥で付近に観光名所も無く、ついでに訪れる城ではない。
              登城自体は未整備ながら縄張り図あれば難易度はそれ程高くない。
              時期によっては熊鈴を忘れずに
ホスピタリティ度 ☆☆   休憩所など手作り感満載であるが歓迎されている感あり
妄想惹起度    ☆☆☆  滅亡した豪族の最後の決戦の地であり、
              ここから始まる若犬丸の冒険の出発地としても妄想を大いに掻き立てられる

粕尾城の基本情報
<住所>
栃木県鹿沼市中粕尾


第1回、小川城(群馬県)はこちらから!

執筆・写真/青春の巨匠
少年時代から小説など主に読書を通じて戦国時代ファンになる。大学で自主製作映画作りにハマりイベント業界へ。「お城EXPO」の立ち上げにも参加した。昨年、40年近く務めたイベント会社を退社。仕事では国内・海外問わず出張が多かったが、行く先々で時間を見つけては城巡りを敢行して一人楽しんでいた。歴史小説・推理小説などを中心に年間50冊程度の読書と、映画鑑賞、怪獣のフィギュア収集・プロスポーツ観戦など城巡り以外にも多彩な趣味を持っている。

関連書籍・商品など