【まとめ】日本史上最も有名な謀反!多くの謎に包まれた「本能寺の変」の真実は?

天正10年(1582)6月2日、明智光秀が織田信長に謀反を起こし、日本の歴史を大きく変えた本能寺の変。しかし、信長の重臣だった光秀が謀反を起こした理由など、多くの謎に包まれています。そんな本能寺の変を小和田泰経先生が解説した連載をざっとおさらいしてみましょう!

光秀が謀反を起こすまでの動きを追う

明智光秀、安土城
光秀が家康・梅雪を饗応した安土城

本能寺の変の約半月前にあたる天正10年(1582)5月15日、信長の甲州攻めにも参加した徳川家康らが安土城(滋賀県)を訪れることになり、光秀が饗応役に命じられます。その務めを終えて坂本城(滋賀県)に戻った光秀は、丹波における居城であった亀山城(京都府)へ移り、愛宕権現に参籠し戦勝祈願をしました。

そして6月1日、家臣らに出陣の命令を下した光秀は亀山城を出立し、信長がいる京を目指します。光秀が重臣たちに謀反を打ち明けたのはこの時だといわれていて、なかには反対する重臣もいたようですが、光秀の決意が変わることはありませんでした。

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「野望説」「怨恨説」「四国説」…謀反の理由の信憑性は?

岡豊城
長宗我部氏の本拠であった岡豊城(2018年撮影)

信長から重臣として高く評価されていた光秀が謀反を起こした真意がわからないため、本能寺の変直後からさまざまな説が唱えられてきました。野望をもった光秀が信長を殺したという「野望説」、信長からパワハラまがいの行為を受けていた光秀が鬱憤を爆発させたという「怨恨説」など…。しかし、なかには江戸時代になって後付けされた説もあり、信憑性に乏しいと言わざるを得ません。

その中でも、最近特に注目されるようになったのが、土佐の長宗我部元親と友好的な関係を築いていた光秀が、信長による四国攻めを中止させるために謀反を起こしたのではないかとする「四国説」。前述の説と比べると論理的に納得しやすい要因ではありますが、光秀が命がけで信長を討とうとした理由と結びつけるには、まだ考える余地があるかもしれません。

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ついに謀反を決行!そして光秀の運命は?

本能寺
かつて本能寺があった場所

5月29日に安土城を出立した信長は、その日のうちに入京して本能寺へ入り、6月1日に境内の書院で茶会を開きました。本能寺は寺院ではありましたが、堀や土塁に囲まれていただけでなく塀もめぐらされていて、城郭といってもよいほどの防御性を誇っていました。ただし、本能寺に入ったのは茶会が主な目的だったようで、連れて行ったのはわずか100人の小姓や中間だけでした。

光秀が本能寺を攻めはじめたのは、茶会の翌日にあたる6月2日の午前4時という“朝駆け”。御殿に火がかけられてもはや逃げられないと悟った信長は、殿中の奥深くに入って自害しました。さらに、信長の嫡男信忠も二条御所で抵抗むなしく自害しますが、2人の遺体はどれだけ探しても見つからなかったそうです。その事実を知った羽柴秀吉が「信長父子は生きている」と訴えたため、光秀は与力らの援軍を得られないまま秀吉と「山崎の戦い」に挑み、敗れてしまったのでした。

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まとめ:城びと編集部

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