本能寺の変③ 信長・信忠父子の死

明智光秀が織田信長に謀反を起こし、日本の歴史を大きく変えた本能寺の変。その背景と全容を、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』に資料提供をご担当されている小和田泰経先生が3回に分けて解説します。最終回となる第3回では、ついに決行された謀反の行方と、その後の光秀の運命を分けた出来事に迫ります。


信長が本能寺に入った目的は?

明智光秀の軍勢が桂川を渡って京に向かうころ、信長は宿所としていた本能寺で就寝していました。5月29日に安土城(滋賀県)を出立していた信長は、その日のうちに入京して本能寺に入ると、翌6月1日、境内の書院で茶会を開いています。この茶会は、博多の豪商島井宗室を招き、信長秘蔵の名物茶器を披露するのが目的で開かれたもののようです。この茶会には、近衛前久・九条兼孝・一条内基・二条昭実・鷹司信房をはじめとする公卿も多く招かれていました。滞在中に、「三職推任」に対する返答をする用意もあったかもしれません。

この茶会のため、信長は、茶入の「九十九茄子」・「珠光小茄子」・「円座肩衝」・「勢高肩衝」、茶碗の「紹鴎白天目」、花入の「貨狄」・「蕪なし」、茶釜の「宮王釜」のほか、玉澗や牧谿の絵画など、名だたる茶器や絵38種を安土城から運ばせています。わずか100人の小姓や中間だけを連れて本能寺に入ったのも、茶会が主な目的であったためのようです。茶会が目的であれば、仰々しい軍勢は必要ありません。

信長は京に自分の居城はもたず、本能寺などの法華宗(日蓮宗)寺院を定宿のように利用していました。本能寺は寺院ではありましたが、信長は単なる宿坊として利用していたわけではありません。京の法華宗寺院は、延暦寺に焼き討ちされたことがあり、堀や土塁に囲まれていただけでなく、塀もめぐらされていました。まさに城郭といってもよいほどの防御性を誇っていたわけです。

本能寺
かつて本能寺があった場所

朝駆けの奇襲で謀反に成功した光秀

明智軍が本能寺を攻めはじめたのは、午前4時くらいのことだったとされています。古来、奇襲は「夜討ち朝駆け」が兵法の常道とされてきましたが、これは、典型的な朝駆けといえます。敵が油断している夜間や早朝に奇襲をすれば成功しやすいというわけで、おそらく光秀は、朝駆けの時間に合わせて亀山城(京都府)を出陣してきたのでしょう。光秀が計画的に本能寺を襲撃したということがよくわかります。

明智軍が本能寺に乱入したとき、信長はまだ寝ていたようです。騒々しい物音で目を覚ましたが、このときは、家臣の喧嘩が始まったものだと思っていたのかもしれません。そこで小姓の森蘭丸を呼んで確かめに行かせたのですが、蘭丸の報告は、光秀の謀反であるということでした。このとき、信長は一言、「是非に及ばず」とつぶやいたといいます。

「是非に及ばず」の言葉に、信長がどのような意味を込めていたのかはわかりません。すでに抗戦を諦めたのではないかともいわれますが、そのあと、自ら弓を持って戦い、弓の弦が切れると今度は鑓(やり)で戦っています。諦めたのではなく、むしろ、是非を論じている暇はないという意味で、積極的に戦う意志を示したように思います。

しかし、鑓で戦っている最中に、信長は傷を被ってしまいました。小姓や中間の多くが討ち死にするなか、信長は、覚悟を決めたのでしょう。付き従っていた女房衆に対し、本能寺から脱出することを命じました。当時、女性は助けられるという慣習があったためです。御殿にも火がかけられ、逃げられないことを悟った信長は、殿中の奥深くに入りました。そして、内側から納戸に鍵をかけたうえで、自害して果てたのです。享年は49でした。

午前8時ごろに本能寺の包囲を解いた光秀は、本能寺の北東に位置する妙覚寺に向かいました。妙覚寺に、信長の嫡男信忠が宿泊していたからです。信忠は、本能寺に駆け付けましたが入ることができず、救援を諦めていました。そうしたところで光秀の軍勢を迎え撃つため、妙覚寺に隣接する二条御所に入りました。二条御所は、もともと信長が自らの居城として築いていたもので、正親町天皇の皇子誠仁親王に御所として献上されていたものです。妙覚寺よりも、二条御所のほうが防御に適しているということで、信忠は二条御所に入りました。

二条御所跡
二条御所跡の石碑

このとき、二条御所にいた誠仁親王は、信忠の勧めにより、女官や公家衆とともに退去します。誠仁親王の退去を見届けた信忠は、二条御所で軍議を開きますが、籠城か脱出かで結論は出ません。そうこうするうち、本能寺を陥落させた明智軍が、二条御所を包囲してしまいます。信忠の軍勢は、わずか500ほどしかいなかったといいます。それでも果敢に反撃したため、明智軍は二条御所に隣接する近衛前久邸の屋根に登り、そこから弓や鉄砲で攻撃しました。こうして、明智軍が二条御所に乱入するなか、信忠は家臣の介錯で自害したのです。享年は26でした。

「本能寺の変後」の歴史を左右した秀吉の謀略

本能寺の変で信長父子を自害に追い込んだ光秀は、その遺体を探させました。信長父子の首を晒して、謀反を正当化しようとしたのですが、首はおろか遺体が見つかりません。そのため、羽柴秀吉は「上様ならびに殿様、何れも御別儀なく御きりぬけなされ候」などと記した書状を光秀の与力に送っています。「上様」は信長、「殿様」は信忠のことで、二人は無事に脱出したというのです。二人が生きているのなら、光秀に従うことは死を意味しますから、結局、光秀に従う与力はいませんでした。

信長父子が生きていると訴えたのは、もちろん、秀吉の謀略です。与力らの援軍を得られなかった光秀は、山崎の戦いに敗れ、敗走の途中で命を落とします。光秀がもし信長父子の首を晒していれば、秀吉の謀略も成功しなかったわけで、そうした場合には、本能寺の変後の展開もどうなっていたのかはわかりません。

山崎古戦場
天王山から見下ろす山崎古戦場

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小和田泰経(おわだやすつね)
静岡英和学院大学講師
歴史研究家
1972年生。國學院大學大学院 文学研究科博士課程後期退学。専門は日本中世史。

著書 『家康と茶屋四郎次郎』(静岡新聞社、2007年)
   『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』(新紀元社、2010年)
   『兵法 勝ち残るための戦略と戦術』(新紀元社、2011年)
   『別冊太陽 歴史ムック〈徹底的に歩く〉織田信長天下布武の足跡』(小和田哲男共著、平凡社、2012年)ほか多数。