本能寺の変② 光秀が謀反をおこした理由

明智光秀が織田信長に謀反を起こし、日本の歴史を大きく変えた本能寺の変。その背景と全容を、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』に資料提供をご担当されている小和田泰経先生が3回に分けて解説します。第2回は、今もなお大きな謎として残る「光秀が信長に謀反を起こした理由」に、様々な説を通じて迫っていきます。

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なぜ光秀は信長に謀反を起こしたのでしょうか。光秀は織田家譜代の家臣であったわけでもなく、本来であれば、重用される可能性はありませんでした。しかし、能力によって登用するという信長の判断によって、重臣の地位にまで上り詰めていたわけです。信長から高く評価されていた光秀の真意がわからないため、本能寺の変直後から、様々な説が唱えられてきました。

信憑性に乏しい「野望説」「怨恨説」「黒幕説」

豊臣秀吉に近侍した大村由己の『天正記』では、野望をもった光秀が信長を殺したとしています。こうした「野望説」が考え方としてはもっとも古いものです。ただ、野望といっても、具体的に光秀が信長を討ったあとにどうするつもりであったのかも不明であるため、江戸時代になると、儒者の頼山陽が『日本外史』でとりあげたように、光秀が信長に恨みを抱いていたとする「怨恨説」が広まっていきました。

「怨恨説」は、信長からパワハラまがいの行為を受けていた光秀が、積もりに積もった鬱憤を爆発させたというもので、確かに、光秀が恨みを覚えそうな記載が史料にはみえています。たとえば、『総見記』には、丹波八上城(兵庫県)の波多野秀治を光秀が包囲したとき、投降する秀治の身の安全を保証するため実母を人質として預けたところ、信長が秀治の助命を認めなかったために実母が処刑されてしまったと記されています。また、『祖父物語』には、武田氏の滅亡後、光秀が「扨モ箇様成目出度事不御座。我等モ年来骨折タル故、諏訪郡ノ内皆御人数也。何レモ御覧ゼヨ」と語ったところ、信長は「汝ハ何方ニテ骨折武辺ヲ仕ケルゾ。我コソ日頃粉骨ヲ盡シタリ。悪キ奴ナリ」と怒鳴りつけるやいなや、光秀の頭を欄干に押しつけたというような逸話がみえます。光秀が「骨を折った甲斐があった」と発言したのが気に入らなかったのかもしれません。

八上城
光秀の母が殺されたとされる八上城

これらの記録は、いずれも江戸時代になって書かれたものです。光秀が怨恨で信長を討ったという前提で話が進められているものなので、信ずるにおよびません。ただ、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスも、信長が逆上しやすい性格であったことや、光秀が足蹴にされたなどと記していますので、光秀が信長に罵倒されるようなことは実際にあったのかもしれません。ただ、罵倒されたくらいで主君を討っていたら、命がいくつあっても足りない時代です。今でいう逆ギレのように、短絡的な考えで光秀が謀反をおこしたとは考えられません。

光秀に謀反をおこすだけの理由がないという考えから、実は背後に黒幕がいたのではないかという「黒幕説」が近年、唱えられるようになりました。黒幕といっても、論者によって黒幕が違います。黒幕とされているのは、朝廷・足利義昭・羽柴秀吉・徳川家康から、はてはイエズス会まで幅広いのですが、もちろん、黒幕なので、光秀に指示をしたという証拠はなにもありません。

朝廷が黒幕だとしても、正親町天皇の皇子で、次の天皇と目されていた誠仁親王は戦乱に巻き込まれています。足利義昭が黒幕だったら、毛利輝元に秀吉との和睦をしないようにさせたでしょう。その秀吉は光秀のライバルですから、黒幕であったとは考えられません。堺から京に向かっていた家康は、命からがら伊賀越えによって、岡崎城まで帰還することができました。信長に反感をもっていた人はいたはずですが、光秀が黒幕の指示で動くような武将であったのかどうか、そう考えると「黒幕説」はかなり厳しいようにも思います。

光秀の私情とは無関係な「四国説」

最近、特に注目されるようになったのが、「四国説」です。厳密にいうと、「四国征伐回避説」ということになりますが、信長による四国攻めを中止させるために光秀が謀反をおこしたのではないかとする説です。信長は当初、阿波を本拠とする三好氏を押さえるため、土佐の長宗我部元親とは友好的な関係を築いていました。しかし、三好康長(笑岩)が降伏してからは、元親の勢力拡大を押さえる方針に転換し、これによって関係が悪化してしまいました。信長と元親との仲介役を担っていたのが光秀だったのですが、関係の悪化で板挟みとなってしまいます。ちなみに、元親の正室は室町幕府の奉公衆石谷光政の娘で、この石谷光政のもう一人の娘が、光秀の家老斎藤利三の兄頼辰に嫁いでいました。そのようなわけで、斎藤利三が元親との実務交渉にあたっていました。

岡豊城
長宗我部氏の本拠であった岡豊城(2018年撮影)

光秀側と元親側との間に交渉があったことは、新たに見つかった林原美術館が所蔵する「石谷家文書」のなかでも確認されました。5月21日付で元親が利三に宛てた書状では、元親は信長に従う方向性を示しています。にもかかわらず、すでに信長は三男の信孝と丹羽長秀らに四国攻めを命じており、大坂から四国に軍勢が渡海する準備が整っていました。そのため、光秀が信長を討つことで四国攻めを中止させようとしたというのが「四国説」になります。

確かに光秀の家老斎藤利三は、長宗我部元親の姻戚であり、信長と元親との取次役を務めていた光秀の立場がなくなっていたのは確かです。しかし、元親が信長に降伏すれば再び取次役になる余地は残されているわけであり、信長を討たなければならないという理由にはなりません。そもそも、利三の姻戚である元親のために、なぜ光秀が命がけで信長を討たなければならないのか、考える必要があるように思います。

光秀は本能寺の変直後、「信長父子の悪虐は天下の妨げ、討ち果たし候」と書いた書状を畿内の諸将に送っています。これによれば、光秀は信長父子、すなわち信長と信忠の「悪虐」を阻止するために討ったとしているわけです。もちろん、大義名分ということもあるでしょうが、光秀の行動をみていると、「悪虐」を本当に阻止するために挙兵したようにもみえてきます。天下統一を目前とした信長が、幕府を滅ぼし、朝廷や寺社、諸大名に威圧的になっていたのは間違いありません。信長を討ってからの政権構想についてはわかりませんが、備後の鞆で毛利輝元に庇護されていた足利義昭を畿内に呼び戻すことは想定されていたように思います。

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小和田泰経(おわだやすつね)
静岡英和学院大学講師
歴史研究家
1972年生。國學院大學大学院 文学研究科博士課程後期退学。専門は日本中世史。

著書 『家康と茶屋四郎次郎』(静岡新聞社、2007年)
   『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』(新紀元社、2010年)
   『兵法 勝ち残るための戦略と戦術』(新紀元社、2011年)
   『別冊太陽 歴史ムック〈徹底的に歩く〉織田信長天下布武の足跡』(小和田哲男共著、平凡社、2012年)ほか多数。