【日本100名城・小諸城編】浅間山麓の地形を生かし、武将・文人が行き交った歴史舞台

城下町よりも城が低い位置にあり「穴城」と呼ばれる小諸城(長野県小諸市)。独特の地形を生かした城には、改修に関わった山本勘助や仙石秀久だけでなく、関ヶ原の戦いに向かった徳川秀忠が滞在しました。北国街道と小諸宿の跡もたどり、小諸城の重要性を体感してみてはいかがでしょうか。

城下町より城が低い独特の構造

小諸城、三の門
城内の中枢へと通じる三の門の下り道が、城下町より城が低い小諸城を象徴する

JR小海線・しなの鉄道が通る小諸駅を挟み、東西に小諸城の遺構が残ります。東側には三ノ丸のほか慶長年間築の大手門(重要文化財)、西側には本丸や二ノ丸など城内の中枢となる曲輪が連なります。

小諸城の大きな特徴は、城下町より城が低い場所にあるため「穴城」と呼ばれること。小諸城の入口ともいえる、二ノ丸へと通じる三の門(重要文化財)は下り道になっており、通常の厳しい上り道の登城とは異なり意表を突かれます。

三の門は慶長期から元和期(1596~1623年)に、仙石秀久(せんごくひでひさ)によって創建されましたが、寛保2年(1742)に千曲川流域を襲った「戌(いぬ)の満水」によって、城下を流れる中沢川などの土石流により城下町の一部と共に流出し、明和2年(1765)に再建されました。寄棟造りの二層の渡り矢倉門で、正面には徳川宗家16代当主の徳川家達(いえさと)揮毫の大扁額を掲げています。

関ヶ原に間に合わなかった徳川秀忠の本陣跡

小諸城、二ノ丸跡の石垣
昭和に復元された二ノ丸跡の石垣。明治4年(1871)の北国街道の整備で、もとの石は持ち去られた

二ノ丸の案内板に「上田合戦時の徳川本陣跡」と記されているように、関ヶ原の戦いの前哨戦となった第二次上田合戦の舞台としても知られます。慶長5年(1600)、関ヶ原に向かうために、徳川家康の子、秀忠は東軍の軍勢3万8千を率いて中山道を進みました。碓氷峠(群馬県安中市・長野県北佐久郡)を越え信州に入ると小諸城主・仙石秀久は、秀忠を小諸城の二ノ丸に迎え、本陣を構えました。

二ノ丸は、西軍についた真田昌幸・幸村親子の居城である上田城(長野県上田市)方面を見渡す絶好の場所。上田城開城の返事を先延ばしする真田昌幸に激怒した秀忠は、上田城攻略を命じました。しかし、上田城に籠城する少数の真田軍に翻弄されてしまいます。結局、真田軍と和睦することとなり秀忠は小諸城に10日間も足止めされ、関ヶ原の戦いに間に合わなかったのです。

小諸城、二ノ丸跡の石垣
二ノ丸の石垣に刻まれた若山牧水の句。「かたはらに 秋くさの 花かたるらく ほろびしものは なつかしきかな」

城内には小諸城とゆかりのある歌人の歌碑が点在しており、島崎藤村がよく知られます。二ノ丸の石垣に刻まれた歌の主は若山牧水。牧水と言えば、高等小学校から中学校時代の5年間を延岡城(宮崎県延岡市)近くで過ごし、延岡城に歌碑が立っています。城に立つ歌碑は文人たちの足跡を今に伝えてくれます。

徳川家への抑えとして築かれた天守

小諸城、天守台
仙石秀久が築いたとされる野面積みの天守台

二ノ丸からさらに奥へ進むと、高さ約6メートルの石垣上に築かれた本丸が広がります。西隅にせり出した天守台の石垣は、一段高く存在感を見せ、かつてここに金箔瓦で葺かれた三重の天守が立っていたとされます。

関東の徳川家康に対する備えとして築かれたと考えられていますが、寛永3年(1626)の落雷による焼失後には、幕府の許しが得られず再建されることはありませんでした。

小諸城、鏡石
小諸城築城の際、山本勘助が研磨したと伝えられる鏡石

本丸には山本勘助が愛用したとされる鏡石があります。仙石秀久が城主になるよりも昔、武田信玄の軍師として名を馳せた山本勘助が小諸城の縄張りを手掛けたと考えられています。

小諸城がある浅間山麓周辺は、約1万数千年前の浅間山の噴火で流出した火山灰や軽石層が、その後の雨や河川の増水によって削られ、深い谷が形成されました。火山灰土がえぐれた地形「田切(たぎり)」を生かし、小諸城は天然の堀によって守られています。

小諸駅を越えて東側の大手門へ

小諸城、大手門
時期によっては大手門の櫓内の特別資料展示(無料)が見学できる

本丸と二ノ丸を見学した後は、小諸駅を挟んで東側にある三ノ丸と大手門を目指しましょう。大手門は小諸城の正門として、慶長期から元和期(1596~1623年)に創建されたとされ、二重入母屋造りの楼門は強固な造りの1階に対し2階が居館形式となり、石垣と門が一体化していないなど、独特の特徴を備えています。

大手門の別名「四之門」が物語るように、三の門などとともに4つの門を本丸までの導線上に構え、守りを固めました。明治時代に民間に払い下げられた後、平成に入って小諸市に寄贈され、約5年におよぶ平成の大改修を経て、創建当時の姿がよみがえっています。

漫画「センゴク」の主人公となった小諸城主・仙石秀久

小諸城、大手門
仙石秀久が築いたとされる大手門は、華美な装飾をはぶいた質実剛健な建築

小諸城を近世城郭に改修した仙石秀久は、豊臣秀吉子飼いの武将として全国を転戦しました。「四国の雄」長宗我部(ちょうそかべ)氏と戦うため洲本城(兵庫県洲本市)を築城し、讃岐国を領有すると高松城(香川県高松市)や引田(ひけた)城(香川県東かがわ市)を整備しました。

天正14年(1586)、豊後国(ぶんごのくに。大分県)に侵入した島津軍と争った際には、大友・四国連合軍の軍艦を務めますが、戸次(へつぎ)川の戦いで大敗。さすがに秀吉の怒りを買い所領を没収され、高野山へと追放されてしまいます。

その後、天正18年(1590)の小田原攻めの際には、浪人の身でありながら豊臣軍に加わって奮戦し、功績によって小諸城主となります。秀久の死後は息子・仙石忠政が小諸藩主を引き継ぎ、後に上田城の城主となり、復興に着手します。

秀久の波乱万丈の人生は、漫画「センゴク」(講談社)の主人公として描かれており、城びと読者のなかにもファンの方がいらっしゃるのではないでしょうか。

北国街道の宿場町としてにぎわった小諸宿

小諸宿、上田家住宅
小諸宿の本陣と問屋を兼ねていた上田家住宅(重要文化財)

小諸城を中心とした小諸は宿場町としても栄えました。小諸宿は中山道追分宿から分かれ、北国街道最初の宿場町。関東に対する信州の玄関口であり、物流や北陸・北信濃の諸大名の参勤交代、善光寺の参詣などで賑わいました。

天災の影響により当初とは姿を変えていますが、北国街道沿いには土蔵作りの家、格子のある商家などが残り、宿場町の面影が今も感じられます。

北国街道をたどり小諸の地理的な重要性を知れば、多くの武将や文人たちが小諸城を訪れた理由が見えてくるはずです。


住所:長野県小諸市丁311
電話番号:0267-22-0296(小諸市懐古園事務所)
アクセス:しなの鉄道・JR小諸駅から徒歩3分

執筆・写真/藪内成基(やぶうちしげき)
国内・海外で年間100以上の城を訪ね、「城と旅」をテーマに執筆・撮影。『地図で旅する! 日本の名城』(JTBパブリッシング)や『親子でめぐる!御城印さんぽ』(青春出版社)などを執筆。城めぐりツアー(クラブツーリズム)の監修・ガイドを務める。

※歴史的事実や城郭情報などは、各市町村など、自治体や城郭が発信している情報(パンフレット、自治体のWEBサイト等)を参考にしています

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