2020/08/14
理文先生のお城がっこう 城歩き編 第28回 石切丁場を訪ねよう1
加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。28回目の今回は、石垣を築くための石材を集める「石切丁場」についてです。昔はどのような場所から、どうやって石を集めていたのでしょうか?
■理文先生のお城がっこう
前回「城歩き編 第27回 石垣の構造と築き方(作り方)」はこちら
石垣(いしがき)を築(きず)くためには、石を集める必要があります。一般的(いっぱんてき)には、石垣に使用する石材は、城の中かもしくはごく近辺から集めました。ほとんどが、築城(ちくじょう)場所から1㎞以内から集めています。石材の少ない地では、領民(りょうみん)に命じて「一人このくらいの量の石を集めて持って来なさい」と言う命令を出してもいます。また、墓石(はかいし)や古墳(こふん)を壊して石材を運び込(こ)んだり、廃城(はいじょう)となった城から石材を運んだりもしています。基本(きほん)は、自分の領地(りょうち)の中で集めるしかありませんでした。
例外は、幕府が命じた天下普請(てんかぶしん)の城で、遠く離(はな)れた領外にある石材の産地から割(わ)り当てられた武将(ぶしょう)たちが運び込んでいます。
今回は、城を見に行った時に、手軽に見学できる城内あるいは近隣(きんりん)に残る石切丁場(いしきりちょうば)(石垣に使用する石を切り出した採石場(さいせきじょう)のことです)を紹介したいと思います。
甲府城内に残る石切丁場
甲府(こうふ)城(山梨県甲府市)や甲府城の周りを歩いていると、あちこちで地表に露頭(ろとう)した安山岩(あんざんがん)の岩山が目につきます。甲府城が築かれる前は、ここは一条小山(いちじょうこやま)と呼ばれる小高い丘でした。天正(てんしょう)18年(1590)、豊臣大名である加藤光泰(かとうみつやす)時代に城が築かれ始め、浅野長政(あさのながまさ)・幸長(よしなが)時代にほぼ完成を見たと考えられています。一条小山を中心に愛宕山(あたごやま)などに露頭して点在(てんざい)する安山岩は、石垣の石材としては最適(さいてき)でした。
安山岩は、節理(せつり)(露頭に見られる規則性(きそくせい)のある割れ目をいいます)によって、いくつもの岩の固まりに分割(ぶんかつ)します。こうした固まりを、さらに割って石垣石材として利用したのです。現在、鍛冶曲輪(かじくるわ)や城の北側の児童公園で安山岩の岩盤(がんばん)を見ることが出来ます。岩盤の表面はひび割れ、いくつもの岩のかたまりに分かれています。分かれた岩のかたまりは、まさしく甲府城の石垣に使われている石材くらいの大きさです。城内で石垣の石材が用意できることが、城を築くにあたっては一番便利であったことは言うまでもありません。こうした利便性が、城地を選ぶにあたって極めて重要であったことを甲府城に残る石材が物語っているのです。
甲府城鍛冶曲輪の採石場。手前の石には「矢穴」が残っています。もともとは、巨大な露岩でしたが、石垣用の石材として、割って運び出されました
米子城内に残る石切丁場
米子城(鳥取県米子市)の本丸、鉄門(くろがねもん)を入ると本丸石垣の手前に露頭した岩山が残されています。この岩を見ると、割ろうとして入れた矢穴(やあな)が残っています。この岩を割って石垣の石材として利用しようとしたのでしょうが、何らかの理由で断念(だんねん)し、そのままここに残されてしまったようです。
米子城の天守台と四重櫓(やぐら)台の間は、大きな岩盤が残り、石垣はその上に積まれています。米子城の本丸は、もともと岩山であったことが良く解(わか)ります。この岩が、矢穴が残る岩と繋(つな)がって、巨大(きょだい)な岩になっているのです。本来なら、すべて割って石材として積み上げた方が、見栄えも良いはずです。あえて残したとも思えませんので、上手く割ることが出来ず、あきらめて放置し、その上に石垣を積み上げたという感じがします。現在も、門の内部の通路上に露頭しているため、見栄えもよくありません。当然、城が機能(きのう)している時こそ、平らにしたかったのではないでしょうか。それも、なかなか難(むず)しかったとしか思えません。時期的には、慶長(けいちょう)年間(1596~1615)の吉川(きっかわ)時代から中村時代の間の石材です。
米子城に残る矢穴の残る露岩(左)と、石垣の土台となっている露岩(右)。右側の露岩と矢穴の残る露岩は、大きな一つの岩山だったことが解ります
萩城の石切丁場
萩城(山口県萩市)は、慶長9年(1604)、関ヶ原の戦い後に周防(すおう)国・長門(ながと)国の2カ国に減封(げんぽう)された毛利氏が築いた城です。完成は、同13年(1608)と言われています。日本海に突(つ)き出した指月山(しづきやま)(標高143m)の山麓にある平城(本丸・二の丸・三の丸)と山頂(さんちょう)にある要害(ようがい)(詰丸(つめのまる))で構成(こうせい)されていました。
南東より望んだ指月山。左側山麓に平城(本丸・二の丸・三の丸)部分を置き、山上に要害が置かれています。正面の石垣下の海岸線に矢穴が残る石材が点在しています
毛利氏は、城を築くにあたって、広島城(広島県広島市)と同じような総(そう)石垣の城をめざしました。城地は、石垣の石材が豊富(ほうふ)で、指月山及(およ)び海岸の磯(いそ)の転石(てんせき)(山腹や河原、海岸などに点在する石のことです)や断崖露岩(だんがいろがん)(切り立った崖に、直接むき出した岩のことです)が利用されています。指月山そのものが元々花崗岩(かこうがん)からなる岩山だったのです。
山頂要害(詰丸)の面積は、約4,335㎡で、本丸(上段)と二の丸(下段)の二つの曲輪(くるわ)で構成され、周囲(しゅうい)に高さ約2mの石垣を築き取り囲(かこ)んでいます。石垣上には、6棟(とう)の櫓と1棟の櫓門及び土塀(どべい)が設(もう)けられていました。要害の石垣の材料は、山頂を平らにしていく時に、その場で切り出したと思われます。要害は、戦の時の籠城(ろうじょう)施設であり、普段(ふだん)は見張(は)り所の役目を果たしていました。要害には井戸は無く、本丸・二の丸に一カ所ずつ用水(貯水池(ちょすいち))が設けられています。
本丸用水(貯水池)(左)に残る石材及び、用水横の露岩(右)にも、至る所に矢穴があけられ、ここから石材を運び出そうとしたことが解ります
詰丸や海岸の採石場には、多数の矢穴列が穿(うが)たれた石材が残されています。いずれも、石垣石材として利用するために、矢穴を設け割ろうとしたのでしょうが、何らかの理由で放棄(ほうき)されてしまった石材になります。採石場では、運び出すことが可能(かのう)な大きさまで、ある程度岩を割らなくてはなりません。そのために、まず自然の大きな岩に矢穴と呼ばれる穴を彫(ほ)り、楔(くさび)を打ち込んで割り、必要な大きさの石材にします。
石を割るための矢穴の位置は、石目(いしめ)や割りたい石の大きさによって異なります。通常、割り取りたい場所に基準(きじゅん)線を引き、次に楔を打ち込むための四角形の矢穴の輪郭(りんかく)をノミで線刻(せんこく)します。線刻するとミシン目のように一直線の矢穴予定場所が解るようになります。矢穴の場所が決定したら、ノミで掘って、楔が上手く入るように整形します。最後に、矢穴に楔を打ち込み、玄翁(げんのう)等で叩いて石を割ることになります。
詰丸露岩に無数に矢穴があけられています。まるでミシン目のようだということが良く解ります。これだけ矢穴をあけたにも関わらず、割って使用されることは無かったと言うことです
萩城詰丸や海岸線に残されている矢穴が入った石材は、石を割る前に放棄されてしまったものです。石を割るために苦労して矢穴まで掘ったものの、割るまでには至(いた)らなかったわけです。こうした石材は、石垣になることが出来なかった残念な石ということで「残念石(ざんねんいし)」と呼ばれたりもします。
指月山東山麓の海岸には、矢穴が掘られた石材が、点々と残されています。石垣石材が、海岸線の転石までも利用していたことがわかります。
今日ならったお城の用語(※は再掲)
※天下普請(てんかぶしん)
城を築かせるために、全国の大名に土木工事などを割り振(ふ)って手伝わせることを言います。「手伝い普請」・「割普請」ともいわれます。基本的に、現場(げんば)で働く人足の手配から資材(しざい)まですべて大名持ちでしたので、経済的(けいざいてき)に大きな負担でした。築城以外に河川(かせん)改修(かいしゅう)や街道整備(せいび)などの大規模(だいきぼ)な工事を命じられることもありました。
※石切丁場(いしきりちょうば)
石垣を築くために必要な石材を切り出す場所(採石場)のことです。金沢城の戸室山(とむろやま)、江戸城の伊豆半島、大坂城の瀬戸内海の島々などが有名です。
※矢穴(やあな)
石材を切り出す際(さい)に、石目に沿ってクサビ(矢)を打込むために掘られた方形の穴のことです。この穴に、クサビを打ち込んで、石を割っていきました。
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加藤理文(かとうまさふみ)先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。