2020/09/11
理文先生のお城がっこう 城歩き編 第29回 石切丁場を訪ねよう2
加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。29回目の今回も前回に続いて、石垣に必要な石材を集める「石切丁場」がテーマです。江戸城を築くために使われた石切丁場の中から、当時の様子がよく残っている熱海市・伊東市・小田原市の遺跡を見ていきましょう。
■理文先生のお城がっこう
前回「城歩き編 第28回 石切丁場を訪ねよう1」はこちら
前回は、手軽に見学できる城内あるいは近隣(きんりん)に残る石切丁場(いしきりちょうば)(石垣(いしがき)に使用する石を切り出した採石(さいせき)場のことです)を紹介(しょうかい)しました。今回は、江戸城(東京都)の天下普請(てんかぶしん)のために切り出した石丁場の中で、国指定史跡(しせき)の江戸城石垣石丁場跡(あと)の3箇所(かしょ)を紹介したいと思います。
小田原市の早川石丁場群関白沢(かんぱくざわ)支群(しぐん)、熱海市の中張窪(ちゅうばりくぼ)石丁場跡、伊東市の宇佐美(うさみ)江戸城石丁場遺跡です。この3箇所は、現在(げんざい)各地で確認(かくにん)されている170箇所を超える石丁場遺跡(いせき)の中でも、特に規模(きぼ)が大きく、良く当時の状況(じょうきょう)を残しており、石を取ることから運び出すまでの順番が解(わか)りやすいと言うことで国の史跡に指定されました。いずれも、かなりの斜面(しゃめん)地に位置していますので、訪(たず)ねるにあたっては地元の教育委員会や観光案内所に問い合わせてください。
江戸城石丁場とは
江戸城石丁場は、慶長(けいちょう)9年(1604)~寛永(かんえい)13年(1636)にかけて、徳川幕府(ばくふ)が江戸城築城(ちくじょう)及(およ)び改修(かいしゅう)のために「公儀御普請(こうぎごふしん)」いわゆる天下普請を命じた際(さい)に、石垣普請に当たった西国の外様(とざま)大名(関ヶ原合戦後に徳川家に仕えるようになった大名です)が石垣に用いる石材を切り出し、加工した石丁場の後で、主に伊豆(いず)半島と相模湾(さがみわん)周辺に分布(ぶんぷ)しています。
石丁場は、石材を運び出すのに便利なように、海岸線の近くとか、川に面した水運が発達した山の中などに多く見られます。丁場には、巨岩(きょがん)から適当(てきとう)な大きさに石材を割(わ)って、さらに運びやすいように形を整えるための作業場、運び出すばかりにした石材の仮(かり)置き場、石材を海岸線あるいは河川(かせん)まで運ぶ石曳道(いしびきみち)、石材を積むための港などの施設がありました。
熱海市の石丁場
熱海市では、泉(いずみ)地区(1嶽山(たけやま)/2奥平沢(おくひらさわ)/3黒崎海岸/4大洞(おおほら)Ⅰ)、伊豆山地区(5大洞Ⅱ/6稲村(いなむら)/7礼拝堂(れいはいどう)/8岸谷)、熱海地区(9足川/10来宮神社/11熱海梅園/12土沢山)、多賀地区(13曽我浦(そがうら)/14白石/15上多賀海岸/16上多賀北部/17白子・地獄沢(じごくさわ)/18中張窪(ちゅうばりくぼ)・瘤木(こぶぎ)/19中野海岸/20小山海岸/21弁慶嵐(べんけいあらし)/22日陰山(ひかげやま)・船洞(どう)/23南ヶ洞・湯ヶ洞)、網代(あじろ)地区(24大西ヶ洞奥/25教安寺奥(おく)/26屏風岩(びょうぶいわ)/27朝日山/28弘法滝(こうぼうだき))、初島地区(29下古路山/30松崎山)の30箇所の石丁場跡が確認(かくにん)されています。
熱海市の石丁場(熱海市公式ウェブサイトより)
中でも、中張窪石丁場が、石を割って取り出すことから運び出すまでの工程(こうてい)の様子が非常(ひじょう)に良く解ります。また、大名や年代がはっきりと解るように刻印(こくいん)(石に刻み付けることです)された「標識(ひょうしき)石」が見つかり、どのように労働力をまとめたのかとか、諸(しょ)大名がどこで石を集めようとしたのかが解ってきました。江戸に近く海運を利用して、石材を運ぶことが容易(ようい)に出来たことや、硬質の安山岩(あんざんがん)が多くあることで丁場に選ばれたのでしょう。
「羽柴右近(森忠政)」と刻まれた刻印石
ここでの最大の特徴(とくちょう)は、人名を刻(きざ)んだ刻印石の多さです。「有馬玄蕃(ありまげんば)(有馬豊氏(とようじ)) 石場 慶十六」と「是ヨリにし 有馬玄蕃 石場 慶長十六年(1611年) 七月廿一日」、「羽柴右近(はしばうこん)(森忠政(ただまさ))」が2石、「浅野紀伊守(きいのかみ)内(浅野幸長(よしなが)) 左衛門佐」で計5石が確認され、さらに、「慶長十九年」の刻文も残されています。
「是ヨリにし 有馬玄蕃 石場 慶長十六年 七月廿一日」と刻まれた標柱石。残念なことに、年々風化が進み読みづらくなってきています
こうした人名を刻んだ石の配置から、森家と有馬家の石丁場の境界(きょうかい)ラインが尾根筋(おねすじ)を境(さかい)にし、石丁場の境界ラインが複数(ふくすう)の石で表されていることが指摘(してき)されています。
また、遺跡内で確認できる石材の母岩(ぼがん)(元になる岩石のことです)となる自然石は、長辺側で2~3m程(ほど)とやや小さめです。矢穴(やあな)痕(こん)が残る石材は遺跡内の様々な場所に散らばっていて、最も大きい矢穴口だと長い方の軸(じく)が15cmで、その他大小様々な矢穴列痕が確認できます。家紋(かもん)などの刻印は市内全体で100種類以上確認されています。
伊東市の石丁場
伊東市内の石丁場は、宇佐美(うさみ)17箇所、湯川6箇所、松原1箇所、岡6箇所、鎌田(かまた)2箇所、玖須美(くすみ)4箇所、新井9箇所、川奈10箇所、富戸4箇所、他1箇所の合計60箇所程あると言われています。こうした石丁場は、地区ごとにまとまっているため、大きく12地区に分けられています。宇佐美北部、宇佐美中部、宇佐美南部、湯川山、小川沢、大平山山頂、鎌田、岡・玖須美、新井、川奈、富戸、池石です。最も当時の状況(じょうきょう)を留(とど)めているのが、宇佐美北部石丁場群になります。
江戸時代初期の宇佐美村は、幕府の直轄地(ちょっかつち)(幕府が直接支配した土地のことです)で、伊豆東海岸の村の中で一番石高の多い村でした。国の史跡に指定されたのは、宇佐美海岸の北側の通称ナコウ山南斜面で、一番高い場所の標高は350mになります。
伊東市の石丁場北側部分(伊東市公式ウェブサイトより)
「羽柴越中守(はしばえっちゅうのかみ)(細川忠興(ただおき))石場」、「松平宮内少(くないのしょう)(池田忠雄(ただお))石場」と刻まれた「標柱石」もあり、細川家の石丁場がナコウ山山頂(さんちょう)周辺にあったことが解ります。この他、標柱石としては、「これより南 竹中伊豆守(竹中重利)」、「これより いよ松山丁ば」、「これより北西 いよ松山丁ば」、「是(これ)より松平大□□」と、熱海市の中張窪石丁場と同様な状況を示(しめ)しています。
刻印が刻まれた石材が、沢に沿って点在しています。右側は「卍」がはっきり残り、蜂須賀家の石材と判明します
文献(ぶんけん)記録も多く、慶長18年(1613)には、黒田長政(くろだながまさ)、田中忠政(たなかただまさ)、細川忠興(ほそかわただおき)、生駒一正(いこまかずまさ)、立花宗茂(たちばなむねしげ)、稲葉典道(いなばのりみち)、伊東祐慶(いとうすけのり)、毛利高成(もうりたかなり)、木下延俊(きのしたのぶとし)の九州の諸大名が、寛永6年(1629)には松平定行(まつだいらさだゆき)、細川忠利(ほそかわただとし)、寛永11年(1634)は有馬豊氏(ありまとようじ)、山崎家治(やまざきいえはる)、稲葉紀通(いなばのりみち)、九鬼久隆(くきひさたか)、立花宗茂(たちばなむねしげ)、立花種長(たちばなたねなが)、戸川正安(とがわまさやす)、平岡頼資(ひらおかよりすけ)、桑山一玄(くわやまかずはる)が宇佐美で石材を調達したとされています。
前述(ぜんじゅつ)の標柱石のように、細川忠興の丁場がナコウ山山頂周辺にあり、中腹(ちゅうふく)部に稲葉家、毛利家を示す刻印石を確認できます。寛永年間の江戸城の石垣普請では、細川・稲葉・毛利三氏は共同作業をしていますので、石材調達から協力していた事も指摘されています。当然、他家の家紋や記号など様々な刻印石も残されています。次の普請に備えて刻印を刻んだ石材を並べてある集積場所や、石曳道と推定(すいてい)される場所など、石丁場の雰囲気(ふんいき)が伝わってきます。
切り出されて、加工された石材が、並べた状態で残されています。何らかの理由で運び出されなかったのでしょう
小田原市の石丁場
早川石丁場群関白沢(かんぱくざわ)支群(しぐん)は、小田原市と箱根町との境に位置します。箱根外輪山の東側にあり、箱根山中より相模湾に流れ込(こ)む早川の支流の関白沢と呼ばれる大きな沢によって深く削(けず)られ、大きな谷になった標高 200m程の北を向いた斜面上石丁場が見られます。神奈川県が整備中の広域(こういき)農道建設(けんせつ)前の発掘(はっくつ)調査(ちょうさ)で、石丁場と認められる遺構(いこう)が確認されたのです。
調査によって、石丁場としての役割(やくわり)を終え、石を割り出したときに出来た石の小さな破片(コッパ)や 不要となって捨てられた石材が多く出土しました。また、石を切出したり形を整えたりする作業の途中(とちゅう)の状態(じょうたい)のまま残されている場所や、切出した石垣用材を山から運び降(お)ろすための石曳道など、石丁場での様々な作業の様子が解ってきたのです。
自然の巨石から石を切出し、形を整え、出来上がった石垣用材がまとめて置かれてあった様子など、 石を切出すほとんどの作業が観察できる範囲(はんい)も発見されたため、道路の工事方法を変えて、現地(げんち)に一部が保存(ほぞん)されています。
現地保存された発掘調査10区。道路を橋として、橋脚の下に保存公開されています
山中に残る石丁場では、自然の巨石から大きなかたまりを切出し、さらに切出した石材を目的の大きさに分割(ぶんかつ)している様子が解る場所や、大きな石の中央に横一文字に矢穴を設(もう)け、上下二つに割ろうとした石も残されています。作業を行うことが出来る平坦面を造(つく)って、そこに石材を運んで、石材の形を整えた場所もあります。
矢穴の入った巨大な石。巨大な岩石を4分割しようとして、矢穴を入れましたが、何らかの理由で、分割するのをやめて、放置された石材です
注目されるのは、石垣用材として整形が済(す)んだ石材がまとめて置かれていたことです。石材は、正面を約1m四方の大きさに揃(そろ)え、長さは平均(へいきん)で約 2.6 mの直方体をしていました。また正面が1.4 m四方、長さも 3.6 mを測(はか)る特別大きなものもありました。これらは、石垣の隅角(ぐうかく・すみかど)に使われる特別な用材として丁寧(ていねい)に切出されたのです。石材は、石丁場で使用場所ごとに、ある程度の大きさに揃えられ、運び出されていたことになります。
こうして用意された石材を運ぶ石曳道も見つかっています。調査によって地車(じぐ るま)と呼ばれる石を運ぶ荷車がわだちにはまらないよう、車輪が通る部分にコッパや小礫(こいし)で舗装(ほそう)していた様子も確認されています。
長方形に分割された石材が並べ置きされています(左)。石曳道は、山中をほぼ直線に山下に向かって設けられています(右)
今日ならったお城の用語(※は再掲)
※石切丁場(いしきりちょうば)
※天下普請(てんかぶしん)
城を築かせるために、全国の大名に土木工事などを割り振(ふ)って手伝わせることを言います。「手伝い普請」・「割普請」ともいわれます。基本的(きほんてき)に、現場で働く人足の手配から資材(しざい)まですべて大名持ちでしたので、経済(けいざい)的に大きな負担でした。築城以外に河川改修や街道整備などの大規模な工事を命じられることもありました。
※矢穴(やあな)
石材を切り出す際(さい)に、石目に沿ってクサビ(矢)を打込むために掘(ほ)られた方形の穴のことです。この穴に、クサビを打ち込んで、石を割っていきました。
次回は「石垣の分類」です。
お城がっこうのその他の記事はこちら
加藤理文(かとうまさふみ)先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。