理文先生のお城NEWS解説 第19回 羽衣石城攻防戦の城2

加藤理文先生による「理文先生のお城NEWS解説」。全国のお城では日々発掘調査や研究が行われていますが、この連載ではお城のニュースについて、こういうところに注目すると面白い、というようなポイントや注目すべき点を加藤先生から教わります。第19回は前回に引き続き、織田氏と毛利氏が激突した「羽衣石城攻防戦」の舞台となった城について。今回は、羽衣石城と連なる山頂に遺構が残る十万寺山城と番城の、それぞれの特徴と珍しい役割に注目します

理文先生のお城NEWS解説

前回は、羽衣石(うえし)城(鳥取県)の南方、地元で「たいこうがなる」と呼ばれる十万寺山(じゅうまんじやま)(標高約423m)山頂部と、北側対岸の地元では番城(ばんじろ)と呼ばれ標高は413mの山上に城郭遺構が残っていることをまとめました。この二つの城が、毛利氏と織田氏が争った段階の陣城(じんじろ)と考えられるため、羽衣石城と南条氏を中心に、この地域の歴史にも触れました。大筋が、解っていただけたでしょうか。

今回は、十万寺山城と番城の構造をまとめ、誰がいつ何のために築いたのかを考えてみたいと思います。

番城跡、羽衣石城、十万寺城跡
番城跡から羽衣石城、十万寺城跡を望む。羽衣石城を挟むように、二つの城が築かれ、両城からは吉川氏の本陣「馬の山」が見下ろせます

十万寺城の位置と構造

十万寺城は、羽衣石城の南方、直線距離にして約850m離れた、標高423mの山頂部を中心に築かれた城になります。羽衣石城との間には、大きな谷地形が横たわり、両者を隔てています。

主郭(しゅかく)は、北東隅に設けられ、東西約70m×南北50mの規模になりますが、内部は凹凸を少なくしただけで、平坦面を造り出してはいません。土塁(どるい)は、南側を除く羽衣石城側の三方に明瞭に残されています。南側も一段高く通路状となり、西側曲輪群へと接続するため、土塁としての役割も兼ねていたとも考えられます。北側に設けられた土塁の東西端部はやや広くなっているため、物見櫓(ものみやぐら)等の建物が建てられていたことも想定の範囲です。

十万寺、城跡
十万寺の城跡(太閤ヶ平)概要図(作図:中井 均)

この土塁の他に明瞭な遺構は、主郭を区切る堀切(ほりきり)と空堀(からぼり)です。東西に巨大な堀切を設け、その間も空堀状を呈し、北側の防備を固めています。東側に突出する曲輪との間には堀切を設け切断、西側へと続く曲輪の両側には竪堀(たてぼり)が見られます。こうした防備は、主郭のみで他の曲輪には見られません。東側、西側の曲輪は、いずれも明瞭な削平は見られず、凹凸を無くし、階段状に削りだしただけです。ただ、曲輪周囲に通路状の平坦面を造り出し、遮断線として確実に城域を設定しています。

十万寺城、大堀切、土塁
主郭東側大堀切(左側)と主郭北側土塁(右側)。主郭を中心に堀切や土塁で防御を固めています。また、主郭北側斜面の切岸も見事です

西側の南北へと続く尾根上が、十万寺(充満寺)の遺構跡と推定され、鞍部(あんぶ)には池状の遺構も見られます。こうした、寺の遺構も取り込んで駐屯地(ちゅうとんち)としたことが想定されます。主郭が、秀吉の駐屯地、遮断線より内部が兵たちの駐屯地として利用されたのではないでしょうか。短期間の在城ですので、平坦面を造り出さなくても、階段状に削りだすだけで、仮の駐屯地を造ることは容易だったと推定されます。

十万寺城、主郭
主郭内部。土塁で囲まれた主郭の内部は、かなりの規模を有していますが、平坦面を造り出してはいません。短期間の使用ということの表れでしょう

番城の位置と構造

番城は、羽衣石城の北東、直線距離にして約450m離れた、標高413mの山頂部を中心に築かれた城です。十万寺城同様、羽衣石城との間には、大きな谷地形が横たわり、両者を隔てています。
 
番城跡、概要図
番城跡概要図(作図:中井 均)

最高所は、北側一部と東側にのみ土塁を持つ、30m×25m程の規模の場所で、西側に傾斜する地形です。最高所の一段東下が四周を土塁で囲まれており、25m四方程の規模で、上下二段に分かれています。従って、南北の土塁は竪土塁(たてどるい)状を呈すことになります。最高所の西側も、傾斜を残して階段状に削平されていますが、平坦面とは言えません。ただ、十万寺城と同様に、曲輪周囲に通路状の平坦面を造り出し、遮断線として城域を設定しています。

十万寺城、横堀、竪土塁
上段の横堀(左)と北側土塁(竪土塁)。十万寺城には見られない横堀が2条、上下に設けられ、土塁囲みの二段の小曲輪も見られます

十万寺と最も異なる点は、北側に設けられた上下二条の横堀(よこぼり)です。上段横堀は、西側へ下るにつれ浅くなり、最後は帯曲輪(おびくるわ)状になり、曲輪を形成しているように見えます。下段横堀は、西側へ下り崖地形へと繋がり終息しています。規模そのものは、十万寺城の5分の1程度でしかありませんが、防御面には優れ、その構造はかなり工夫が凝らされている印象を受けます。

十万寺城と番城の役割と目的

前回でも触れたように、天正9年(1581)、鳥取に赴くことが出来ない吉川(きっかわ)勢は、織田方となった羽衣石城攻略を目指します。元春(もとはる)はわずかの手勢を率いて9月20日ごろ茶臼山(ちゃうすやま)に着陣し、ついで10月25日には馬ノ山に陣を敷きました。

南条・小鴨(おがも)氏は、鳥取の秀吉のもとへ助勢を要求します。秀吉は数万の兵を率い着陣、吉川勢はわずか6000と言われています。しかし、秀吉は、決戦による犠牲を考慮し、羽衣石城に食料と弾薬を補給することにしました。峰伝いに輸送を開始する秀吉軍に対し、元春は松崎付近まで出撃し妨害を加えたと言いますが、物資は無事に補給しています。秀吉は、蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)等を残し、陣を引き払い、元春父子も馬ノ山の守備兵を残し、兵を引きます。結局、両者共に出陣しましたが、両軍は衝突することなく撤退したのです。

この時、秀吉軍が、秀吉の本陣兼物資保管施設として築いたのが十万寺城と考えられます。城からは、羽衣石城を眼下に見下ろすことができ、さらにその先の馬の山までをも見通せるのです。土塁囲みの曲輪が、本陣兼物資保管場所で、その他が兵の駐屯地として利用されたのでしょう。

秀吉が、羽衣石城に入ることなく、新たな陣城を築いたのは、城が曲輪を階段状に配置しただけの単純な構造で、防御力が弱いため、攻撃された場合のリスクが高いと判断したと思われます。そこで、羽衣石城と馬の山を見下ろせる地に布陣したのではないでしょうか。

番城は、十万寺城から食料と弾薬を補給するに際し、直接羽衣石城が攻撃出来ないように、吉川軍の正面に築いた戦闘本位の城と判断されます。敵正面に設けられた二重の横堀が、この城の役割を如実に物語っています。

両陣城が城としての伝承を残さないのは、使用された期間が短期間の上、在地の国人領主とはまったく関係を持たない外来勢力による築城、使用だったからではないでしょうか。地元との関連がまったくないため、伝承も残らなかったのです。

城の構造を見るなら、尾根筋を切断する巨大な堀切、主要部を取り囲む土塁、城域を区切る通路状の遮断線、そして階段状に凹凸のみを無くした駐屯地、まさに織田軍による陣城の構造を持っているのです。

十万寺城、番城、馬の山
羽衣石城より見た番城と馬の山。羽衣石城の前面、馬の山の陣を見下ろすように番城が築かれています。まるで、羽衣石城を守る盾のようです

織豊政権による陣城は、小谷城攻めの陣城群、三木城攻めの陣城群、そして太閤ヶ平などを残す鳥取城攻めの陣城群、さらには小田原城攻めの陣城群など、かなりの数の陣城が良好な形で残されています。これらの城は、すべて城を落とすために築かれた陣城です。

しかし、今回紹介した十万寺城、番城は、戦うためではなく羽衣石城を救援するために築かれた城なのです。救援戦のための陣城は、国内唯一といっても過言ではありません。今後、湯梨浜町はさらに調査研究を進め、国指定史跡として保存活用していこうとしています。今後の調査の進展により、さらなる成果が期待されます。

次回は「豊臣新城の発見」です

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加藤理文先生
加藤理文
公益財団法人日本城郭協会 理事、学術委員会副委員長
NPO法人城郭遺産による街づくり協議会監事
1958年 静岡県浜松市生まれ
1981年 駒澤大学文学部歴史学科卒業
2011年 広島大学にて学位(博士(文学))取得
(財)静岡県埋蔵文化財調査研究所、静岡県教育委員会文化課を経て、現在袋井市立浅羽中学校教諭