超入門! お城セミナー 第73回【歴史】織田信長最大のピンチ! 「金ヶ崎の退き口」ってどんな戦いだったの?

お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは、織田信長決死の撤退戦で知られる「金ヶ崎の退き口」について。楽市楽座や鉄砲による組織的な戦闘など、戦国時代に革新をもたらした信長。その彼が命からがら逃げなくてはならなかった理由とは。撤退に至る経緯から、撤退完了までを解説します。



手筒山城、敦賀湾
手筒山城から見た敦賀湾。この地で織田信長は、絶体絶命の窮地に陥る

織田信長最大の危機!「金ヶ崎の退き口」が起こるまで

戦国時代の風雲児・織田信長。組織的に鉄砲を使用した戦術や自由に商業活動ができる「楽市楽座」など、戦国の世に革新をもたらした人物です。琵琶湖のほとりに豪華絢爛な安土城(滋賀県)を築くなど、城郭史上でも重要な役割を果たしています。この「超入門!お城セミナー」にも度々登場していますね。

織田信長銅像
将軍・足利義昭を将軍の座につけた信長は、諸大名に上洛命令をだす。そして、命令に従わなかった朝倉氏を討伐しようとするが…?(写真は、清洲城(愛知県)に立つ織田信長銅像)

そんな信長の人生最大のピンチといわれるのが、永禄13年(1570)に起こった金ヶ崎の退き口です。今回は、この戦いで城がどのような役割を果たしたかを解説します。

金ヶ崎の退き口は永禄13年に織田信長と朝倉義景(あさくらよしかげ)・浅井長政(あざいながまさ)の間に起こった戦いです。この年の4月、信長は若狭国の守護である武田家を討伐するため、約3万の大軍を率いて京を出陣しました。ところが4月25日、織田軍は若狭の国境を越えて、越前の朝倉領へ進軍します。そう、この出陣の本当の目的は朝倉家討伐。自分に従わない朝倉家を苦々しく思っていた信長は、武田攻めを装って朝倉氏を滅ぼそうと考えていたのです。越前に入った織田軍は、海運の要衝・敦賀港を有する敦賀へ侵攻し、港を押さえる金ヶ崎城(福井県)の攻略を開始します。

金ヶ崎城、二の木戸、竪堀
金ヶ崎城二の木戸付近の竪堀。手筒山城とつながる木戸では、織田軍と朝倉軍の激戦が行われた

金ヶ崎城は、敦賀湾に突き出た比高約86mの丘上に築かれた城で、三方を海に囲まれた要害でした。尾根続きの手筒山は支城の天筒山城(てづつやまじょう/福井県)を築き、守りを固めています。しかし、この頃金ヶ崎城主の朝倉景恒(かげつね)と朝倉本家(=義景)との関係が悪化していたために援軍が遅れ、手筒山城が囲まれたその日のうちに落城。天筒山城からの猛攻に耐えかねて、景恒は翌日、織田軍に降伏します。さらに、この2城の落城を受けて、近江と越前をつなぐ街道を押さえる疋檀城(ひきだじょう/福井県)も開城しました。

金ヶ崎城全景
金ヶ崎城の遠景

朝倉・浅井軍の挟撃を信長はどうやって乗り切ったのか?

天筒山城、金ヶ崎城、疋檀城を攻略し、敦賀一帯を制圧した信長は意気揚々と朝倉氏の本拠・一乗谷に向かって兵を進めます。ところが、現在の敦賀市と南越前市を隔てる木ノ芽峠にさしかかったところで、思わぬ知らせが飛び込んできたのです。それは、義弟・浅井長政裏切りの情報でした。

長政は、信長の妹・お市を妻に迎え、織田家と同盟関係にあった大名。一方で、大名として独立する際に朝倉氏の助力を受けているため、家中は親織田派と親朝倉派にわかれていました。長政がこの戦いで朝倉氏についた理由は、はっきりとはしていません。信長と同盟を組む際にした「朝倉攻めを行う場合は、事前に長政に相談する」という約束を破られ激怒したからとも、朝倉攻めがはじまったことにより家中の親朝倉派を抑えきれなくなったためともいわれています。

長政の裏切りを知った信長は、このままでは朝倉軍と浅井軍の挟み撃ちにあうことを悟り、すぐさま撤退することを決めます。信長は、木下秀吉(後の豊臣秀吉)、明智光秀らに殿(しんがり)を命じ、金ヶ崎城を守らせました。そして、自身は若狭方面から京を目指します。

織田軍進軍、撤退ルート
金ヶ崎の戦いでの織田軍進軍・撤退ルート。近江を支配する浅井氏を敵に回したため、信長は浅井氏の支配が及んでいない朽木を撤退路に選んだ

若狭を抜けた信長は、近江を南下するため浅井氏の支配が及んでいない朽木越えを行うことにしました。同行していた松永久秀(まつながひさひで)の説得により、朽木の領主・朽木元綱(くちきもとつな)が信長の撤退に協力。4月28日には京へ到着します。帰京時、信長の供をしていたのは、わずか数十騎の兵のみ。いかに厳しい道中だったかがうかがえますね。

そして、5月6日には、秀吉や光秀ら殿部隊も京に生還。織田軍は5月9日に、本拠地の岐阜城(岐阜県)へ帰還するため、京を出立しました。岐阜への道中に、信長が杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅうぼう)に狙撃される事件が起こるも、かすり傷を負ったのみで、無事に岐阜へ帰還します。

金ヶ崎古戦場、石碑
金ヶ崎城の登城道に立つ「金ヶ崎古戦場」の石碑。金ヶ崎の戦いは、秀吉出世の契機をつくった。さらに、信長を取り逃がしたことで朝倉・浅井両家にとっては滅亡のきっかけとなる、歴史のターニングポイントとなった戦いといえるだろう

信長は金ヶ崎の窮地を脱した後、態勢を立て直し姉川で朝倉・浅井連合軍を撃破。天正元年(1573)には両家を滅亡させました。その後も、天下統一に向けて諸大名を次々と破っていきます。金ヶ崎で見事に殿をつとめた秀吉や光秀も、これを機に織田家の中で重用されるようになり、城持ち大名にまで出世していきました。

激戦の舞台となった金ヶ崎城は、朝倉氏滅亡後に廃城。現在は、主郭にあたる月見御殿跡をはじめ、木戸跡や堀切などが残っています。また、金ヶ崎城から手筒山城へ至る道はウォーキングコースにもなっており、当時の戦いを偲びながら散策することが可能。信長、秀吉、光秀たちが激戦を繰り広げたこの地を、ぜひ1度訪ねてみてください。

手筒山城、見張台跡
手筒山城の見張台跡。敦賀湾を見わたせる位置にあり、ここから敦賀一帯に号令をかけていたと考えられている



執筆・写真/かみゆ歴史編集部
ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。かみゆ歴史編集部として著書・制作物多数。

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