2021/08/03
城と光秀|小和田哲男 第7回 光秀の妻熙子の育った妻木城
本能寺の変で織田信長を討った武将として知られる明智光秀。2020年・2021年放送のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』では主人公としてその人生が描かれました。『麒麟がくる』の時代考証を担当される小和田哲男先生による連載「城と光秀」の第7回目では、光秀の明智氏と妻木氏とはどのように関係したのか、また、光秀とゆかりの深い妻木城について取りあげます。(※2019年8月7日初回公開)
明智の「一家」妻木氏と光秀
明智光秀の妻は『細川家記』(『綿考輯録』)などによって熙子(ひろこ)といわれている。字は凞子とも書かれる。妻木勘解由左衛門範煕(つまぎかげゆざえもんのりひろ)の娘なので熙子とよばれるようになったものと思われる。なお、父親については、妻木は妻木でも、妻木藤右衛門広忠とする説もあるが、この点については後述する。
では、この妻木氏とはどういう家だったのだろうか。光秀の明智氏とどのように関係するのかをまずみておきたい。『美濃国諸旧記』巻11では、妻木氏を「明智の一家」としている。つまり、明智氏からの分かれというのである。
妻木氏関係の系図を調べると、「明智系図」との関係をつぎのようにしている。

つまり、明智頼秋の子頼秀の兄弟頼照から妻木郷(土岐市妻木町)を領し、妻木を苗字としたとする。そのため、「明智の一家」といわれたというのである。ちなみに、各種系図では、この明智頼秀のあと、頼弘―頼定―頼尚と続き、頼尚の子光隆―光秀とつながるとしているが、実際のところはどうだったのかよくわからない。
『寛永諸家系図伝』の妻木氏の項をみると、妻木藤右衛門の略伝が載っていて、そこに、「天正十年明智日向守光秀滅亡のとき、藤右衛門江州坂本西鏡寺(西教寺)において自害す。光秀が伯父たるによつてなり」とみえる。妻木藤右衛門広忠は光秀の妻熙子の父ではなく、光秀の伯父にあたる人物だったことが明らかである。
近世初頭まで使われていた妻木城

妻木城 堀切
なお、光秀と妻木氏との関係はそれだけではなかった。光秀と親しかった公家の吉田兼見の日記である『兼見卿記』の天正7年(1579)9月25日条に「惟任姉の妻木在京」とみえる。惟任は光秀のことなので、これは光秀の姉の妻木氏のことをいっている。実の姉だとすれば、光秀も妻木の人間ということになるが、妻の熙子の姉のことをいっているのかもしれない。
しかもこの女性のことと思われる別な情報もある。光秀の主君織田信長の側近くに仕えていた女性に「御ツマキ」がいたのである。『多聞院日記』天正9年(1581)8月7日と8日の条に、光秀の「妹ノ御ツマキ」が死去し、光秀が落胆している様子が描かれているのである。「姉の妻木」と「妹ノ御ツマキ」は岡田正人氏が「明智光秀の閨閥図」(『別冊歴史読本 明智光秀 野望!本能寺の変』1989年11月号)で指摘するように同一人と思われる。

妻木城 巨石群
さて、その光秀とゆかりの深い妻木城であるが、遺構は比較的よく残っており、また、土岐市教育委員会によって遺跡の範囲や遺構の確認調査が行われ、掘立柱の柱穴や礎石建物の礎石などが確認されている。出土陶器片から、山上の建物が利用されていた時期について、15世紀後半から16世紀中頃とされていて、光秀の妻の熙子の時代と重なる。

妻木城 三の曲輪
その後の妻木城であるが、東美濃一帯は本能寺の変後、宇佐山城の戦いで討ち死にした森可成の子長可が居城する美濃金山城の支配下に入り、妻木氏もそれに従っている。その森長可も天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで討ち死にしており、跡を末弟の忠政が継いだが、その忠政も慶長5年(1600)の関ケ原の戦い直前に信濃川中島に転封となり、入れ替わりに岩村城に入った田丸忠昌(直息(なおおき))がこの地を支配することになった。
ところが、この田丸忠昌は、会津攻めに従軍しながら、7月25日の小山評定のあと、徳川家康から離れ、西軍に属すことになり、配下だった妻木頼忠は田丸忠昌と戦っている。その論功行賞で妻木城を安堵され、頼忠―頼利―頼次と続いたが、万治元年(1658)6月、頼次が急死し、跡継ぎがいなかったため、妻木氏の本流は断絶し、妻木城も廃城になった。










