2022/03/02
籠城戦で敵を撃退した戦いを検証する|小和田哲男 第12回 上田城の戦い
戦国時代の武将たちの戦略の一つとして、お城に立て籠もる「籠城戦」がありました。籠城戦というと、敵の攻撃を耐え続けた末に籠城側が最終的に敗れてしまうイメージがありますが、実際はどうだったのか? ドラマの時代考証などを担当されている小和田哲男先生が、籠城側が敵を撃退した戦いを通じて、その戦略を紐解きます。第12回のテーマは、戦国武将きっての戦上手として知られる真田昌幸が、上田城に籠城し2度にわたって徳川軍を撃退した「上田城の戦い」。圧倒的な兵力の差をカバーした昌幸の巧みな策略について見ていきましょう。
第1次上田城・神川の戦い
真田昌幸は、武田勝頼の家臣として、上野の岩櫃(いわびつ)城(群馬県吾妻郡)を居城とし、さらに沼田城代も兼ね、武田氏による西上野支配の一翼を担っていた。
天正10年(1582)3月、武田氏が滅亡し、甲斐・信濃が織田領となったとき、昌幸は信長に臣従したが、本能寺の変で信長が明智光秀に殺されるや、甲斐・信濃を征圧した徳川家康につくという変わり身の早さをみせている。家康からは本領安堵と3000貫文の知行宛行の約束を受け、居城を上田城(長野県上田市)に移し、しかも、家康の援助で上田城を本格的な城としているのである。

真田昌幸が築城した上田城
そのまま推移すれば、真田氏は徳川家臣団の一員となるところだったが、家康と北条氏政・氏直との交渉過程で、真田領だった沼田城(群馬県沼田市)を北条側に引き渡すことを強要された昌幸は、家康から離れ、何と、家康とは敵対していた越後の上杉景勝についてしまったのである。そのとき二男の弁丸、のちの信繁(通称幸村)を人質として景勝に差し出している。天正13年(1585)7月のことである。
そのことを知った家康は怒り、8月、家臣の鳥居元忠・大久保忠世ら譜代と、岡部忠綱・三枝昌吉・屋代勝永ら今川・武田の遺臣たちを組織し、上田城を攻めさせている。家康としては、自分が援助して築かせた城を攻めさせる形になったわけで、徳川軍7000に対し、守る真田軍は2000といわれている。

7000もの大軍で上田城に攻め入った徳川軍だが、真田軍の巧みな策略で神川まで追い戻されてしまう
実際の戦いになったのは閏8月2日からで、徳川軍は上田城の東、神川(かんがわ)を渡って上田城に迫った。その徳川軍に少数の真田軍が攻めかかったが、すぐ退却している。徳川軍は逃げる形の真田軍を追撃したが、実は、これが真田の「喰(くら)い付かせ作戦」とよばれるものだった。徳川軍が上田城内に攻め込んだところ、城内の伏兵による鉄砲の反撃を受け、徳川軍が敗走する形となり、神川畔まで追い戻されているのである。しかも、そのとき、神川上流の砥石(といし)城(長野県上田市)にいた昌幸の長男信幸(のち信之と改名)が率いる別働隊に攻め込まれ壊滅状態となった。閏8月13日付の真田信幸書状によると、このとき、徳川軍の死者は1300余にのぼったという。

砥石城。真田幸隆(信繁の祖父)が村上氏から乗っ取り、以後は真田氏の城となった
真田軍の完勝で、籠城した側が勝った形である。その後も徳川軍と真田軍の小競り合いは周辺でくりひろげられたが、11月、徳川軍は突然撤退している。家康の重臣の一人だった石川数正が豊臣秀吉方に寝返ったことで、家康が全軍に浜松城への帰還命令を出したからである。
犬伏の別れから第2次上田城の戦いへ
上田城での籠城戦がもう1回ある。それが第2次上田城の戦いであるが、広い意味での関ヶ原の戦いの局地戦の一つにカウントされる戦いである。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの前哨戦、家康らの会津上杉攻めに従軍しようと下野の犬伏(栃木県佐野市)まで真田父子が出てきたところ、石田三成からの密書が届き、昌幸・信幸・信繁の三者会談が開かれることになった。東軍徳川家康方につくのか、西軍石田三成方につくのかの去就をはっきりさせなければならなかったからである。
昌幸はかねてから家康嫌いで、西軍に、二男信繁も正室が三成の盟友大谷吉継の娘だったこともあり、やはり西軍につくことを表明している。しかし、長男信幸の正室は、徳川家康の重臣本多忠勝の娘小松姫だった関係で東軍につくことを表明している。そのとき、昌幸が、「ケ様(かよう)の時に父子引分(ひきわか)れ候も、家の為には能(よき)事も有べし」といったということが『滋野世記(しげのせいき)』にみえる。
この結果、昌幸・信繁は犬伏から上田城にもどり、信幸は家康のもとへゆき、家康の子秀忠軍に組み入れられ、秀忠が宇都宮から中山道を通って西へ向かう徳川本隊の一員となっている。
家康が江戸城(東京都千代田区)を出発した9月1日、秀忠は信濃の軽井沢に到着していた。そして翌2日、小諸に着いたところで上田城の昌幸に使者を遣わし投降を勧告している。使者となったのが、本多忠勝の子で小松姫の弟にあたる本多忠政と真田信幸だった。二人は、上田城の城下の国分寺で昌幸と会見したという。
そのとき、昌幸は、時間かせぎのため、その説得に応じるそぶりをみせ、翌3日、正式な和平交渉がはじめられたのである。ところが、実際に和平交渉がはじまってみると、昌幸はそれまでの態度をがらっと変え、無血開城を拒絶したのである。その様子は、翌4日付で、秀忠が森忠政宛に出した書状で明らかになる。それによると、「昌幸が剃髪して降参したいと信幸を通じて泣きついてきたので、命だけは助けてやろうと、三日に使者を遣わしたところ、四日になって勝手なことを言い出してきたため、許すことはできない」というのである。結局、翌9月5日から上田城攻めがはじめられることになった。
秀忠としてみれば、3万8000という大軍で小城一つを攻める形である。城内の兵は多くみても2500ほどで、簡単に落とせると考えていた節がある。さらに、かつて、天正13年(1585)に徳川軍が上田城を攻めようとして落とせなかった第1次上田城の戦いのリベンジという思いがあったのかもしれない。

徳川秀忠が上田城攻めの前線基地とした染屋台
5日、秀忠は上田城の東方2kmの染屋台に押し出し、信幸を先手として砥石城を攻めさせている。砥石城を守っていた弟信繁は兄と戦うのは本意でないとし、城を捨てて上田城に戻っているが、砥石城を奪取したことで徳川軍に油断が生じた。それが翌6日の上田城での攻防戦につながるのである。徳川軍を上田城近くまで引きつけたところで、城中から鉄砲が撃たれ、徳川軍に多大な犠牲が出てしまい、結局、秀忠は9日、兵を小諸まで撤退させているのである。こうして、上田城攻めをあきらめた秀忠は美濃へ軍を急がせたが、15日の関ヶ原の戦いには間に合わなかったのである。
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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会 理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
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