籠城戦で敵を撃退した戦いを検証する|小和田哲男 第10回 長篠城の戦い

戦国時代の武将たちの戦略の一つとして、お城に立て籠もる「籠城戦」がありました。籠城戦というと、敵の攻撃を耐え続けた末に籠城側が最終的に敗れてしまうイメージがありますが、実際はどうだったのか? ドラマの時代考証などを担当されている小和田哲男先生が、籠城側が敵を撃退した戦いを通じて、その戦略を紐解きます。第10回のテーマは、徳川家康によって陥落した長篠城を武田勝頼が奪い返そうとした「長篠城の戦い」です。その後に武田軍と織田・徳川連合軍が激突した設楽原の戦いとの関係にも注目しながら、歴史を左右した籠城戦の行方を見ていきましょう。

天正元年(1573)の長篠城の戦い

長篠(ながしの)城(愛知県新城市長篠)の攻防戦というと、天正3年(1575)5月の長篠・設楽原(したらがはら)の戦いのときの戦いが有名であるが、それ以前にも戦いがくりひろげられていた。

三河の内、信濃に近い現在の愛知県北設楽郡設楽町・東栄町および新城市の在地領主は、武田信玄の力がこの地に及んできたとき、武田方となっている。特に、田峯(だみね)城(愛知県北設楽郡)の菅沼氏、長篠城の菅沼氏は作手(つくで)奥平氏とともに「山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)」とよばれていた。

ところが、天正元年(1573)4月12日、武田信玄が出陣途中、信濃の駒場(こまんば)で亡くなったことで、状況が大きく変わった。その年6月22日、作手の奥平貞能・信昌父子は密かに徳川家康に通じ、夏目治員を浜松城(静岡県浜松市)の家康のもとに遣わし、信玄の死が確実なことと、奥平一門が家康につくことを伝えさせている。

そのころ長篠城を守っていたのは菅沼伊豆守・同新九郎正貞らで、それに甲斐からの加勢として、室賀一葉軒入道・小泉源次良らがいた。家康は7月19日(『家忠日記』によれば20日)、長篠城攻めにかかり、火矢を使って、まず二の丸と蔵屋敷を焼き払い、兵糧・兵器に損害を与えている。城兵は防戦したが、守り切ることはできず、ついに9月8日、甲斐をめざして落ちていった。

長篠城全景
長篠城全景。豊川と宇連川が合流する断崖の上に築かれた

こうして長篠城は徳川方となり、家康は家臣の松平正勝を城将として長篠城に入れている。しかし、翌2年(1574)6月17日、遠江の高天神城(静岡県掛川市)が武田勝頼に攻め落とされたことで、勝頼の力が三河のこの地域に及んでくると考えた家康は、武田方から寝返ってきた奥平信昌を長篠城主とし、翌3年(1575)2月に城の修築に着手している。ちなみに家康は、奥平貞能・信昌父子に誓書を送り、家康の長女亀姫と信昌の縁組も約していた。

武田勝頼の長篠城攻め

一方、武田勝頼の方は、父信玄が落とすことができなかった高天神城を落としたことで自信をつけており、長篠城の奪還に動きはじめた。勝頼が大軍を率いて長篠城を攻めはじめたのはその年の5月11日からである。奥平信昌は、すぐ家康にその旨を報告し、援軍要請を行っている。このとき家康は岡崎城におり、信昌の家臣鳥居強右衛門(すねえもん)は包囲網を突破し、家康に緊急事態を告げている。

こうして長篠城の城兵は籠城することになったわけであるが、家康は「自分だけが後詰に向かっても武田軍を追い払うことはできない」と判断し、すぐ同盟者織田信長に援軍を依頼している。

当時、信長は、畿内の戦いに忙殺されており、兵力をさいて家康のもとに援軍を送ることなど考えられない状況だった。しかし、1年前、同じように高天神城を攻められたとき、援軍として出るのが遅れたため、高天神城を奪われたという前例があり、今度また同じような推移で長篠城が落ちてしまうと、家康の信長に対する信頼が損なわれる可能性があった。実際、良質の史料ではないが、『三河後風土記』によれば、このとき、家康は、「姉川の戦いに応援に行ったにもかかわらず、高天神城の戦いのとき、信長は応援に来てくれなかった。もし、今度来なければ、この際、武田に寝返るか」と家臣にいったといわれている。それだけ、緊迫した情勢だったのである。

家康からの援軍要請を受けた信長は、今度は自ら3万の大軍を率いて救援に出てきた。3万という数は誇張されていて、その半分程度ではなかったかといわれているが、いずれにせよ、5月15日には岡崎城(愛知県岡崎市)に到着している。ものすごいスピードである。。

援軍要請に走った鳥居強右衛門は、家康だけでなく信長も後詰に出てくることを味方に伝えるべく長篠城にもどった。城外から烽火(のろし)で伝えるという手もあったが、強右衛門は早く城内の仲間に伝えたいと思ったのであろう。もどるところを発見されてしまった。このとき、「援軍の見込みがない」といえば命を助けようと勝頼にいわれ、強右衛門はそれを承知したが、実際は「まもなく援軍がくるぞ」と叫んだという。そのまま強右衛門は磔にされるという一幕もあった。

設楽原の戦いはじまる

その間も城主奥平信昌らの籠城戦は続いていた。城内にどのくらいの兵がいたかは正確にはわかっていない。しかし、攻める武田勝頼勢は1万5000といわれている。これも数字としては半分以下と考えられているが、それにしても圧倒的な大軍であったことは考えられるので、長篠城が要害堅固な城だったこととあわせ、奥平信昌らの頑張りも大きかった。結果論になるが、信長・家康の救援軍到着前に城が落ちてしまっていれば、その後の設楽原の戦いの織田・徳川連合軍の勝利はなかったはずである。

長篠城空堀
長篠城の本丸は大規模な空堀に囲まれ、要害堅固な城だったことが伝わる

ふつう、長篠の戦いといわれているが、厳密にいうと、長篠城の戦いと、設楽原の戦いという二つの戦いに分けられる。信長・家康の援軍が5月18日、設楽原の西側に到着し、それをみた勝頼が、わずかの兵を長篠城の押さえに残し、主力を設楽原に移し、5月21日の決戦となる。

設楽原の復元された馬防柵
設楽原の復元された馬防柵

この設楽原では、信長・家康軍は連吾(れんご)川沿いに馬防柵を設けて武田軍の突入を防ぎ、あわせて3000挺の鉄砲のいわゆる「三段撃ち」で撃破している。なお、鉄砲の数については1000挺とする史料もあり、また、「三段撃ち」も、最近の研究では、1000挺ずつ3段に構えたのではなく、3挺1組で、連続して弾を撃つ形だったとされている。

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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
   『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
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