理文先生のお城がっこう 歴史編 第62回 秀吉の城14(木幡山伏見城)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。豊臣秀吉が築いたお城の特徴について見ていくシリーズの今回は、合計4度建てられた伏見城(京都府京都市)の第三期にあたる「木幡山伏見城」を取り上げます。前回紹介した「指月伏見城」から新たに築城したいきさつや、絵図や近年の調査から明らかになった城の構造について見ていきましょう。

前回は、都合4度にわたって建てられた伏見(ふしみ)(京都府伏見区)のうち、文禄(ぶんろく)元年(1592)豊臣秀吉(とよとみひでよし)隠居(いんきょ)(官職(かんしょく)を離(はな)れて静かに暮(く)らすことです)生活を送るためとして築(きず)いた最初の城である指月(しげつ)屋敷(やしき)(第Ⅰ期:秀吉指月隠居屋敷)と、その屋敷を改修(かいしゅう)し、石垣(いしがき)天守(やぐら)などを持つ本格的(ほんかくてき)な城の姿(すがた)かたちに仕上げた指月伏見城(第Ⅱ期:秀吉指月伏見城)の姿について考えてみました。今回は、木幡山(こはたやま)を中心に慶長(けいちょう)2年(1597)に新たに築いた豊臣期木幡山伏見城(第Ⅲ期:秀吉木幡山伏見城)について見ていきたいと思います。

指月城跡・伏見城跡位置図
指月城跡・伏見城跡(あと)位置図(『指月城跡・伏見城跡発掘調査総括報告書』2021年 京都市文化市民局刊行 P.17 図5 指月城跡・伏見城跡位置図 )(京都市文化市民局提供)

木幡山への築城

文禄5年(1596)7月、近畿(きんき)地方を中心に、のちに「慶長伏見地震」と呼ばれる巨大(きょだい)地震(じしん)が発生しました。御殿(ごてん)を含(ふく)めた建物の大部分が倒壊(とうかい)し、女﨟(じょろう)(奥(おく)向きに勤(つと)める女性(じょせい)のことです)73名、中居(なかい)(住み込(こ)みで働く女性のことです)500名が死亡(しぼう)し、天守も上2階が崩(くず)れ落ちたと言われます。建物として、唯一(ゆいいつ)台所が健在(けんざい)だったらしく、難(なん)を逃れた秀吉一行はそこで一晩(ひとばん)(す)ごし、翌日(よくじつ)1km離(はな)れた高台の木幡山に仮(かり)の小屋を造(つく)り、避難(ひなん)生活を送ることになります。

幸いなことに火災(かさい)は起きなかったようで、倒壊した櫓や殿舎(でんしゃ)群の木材の再(さい)利用が可能(かのう)であったため、すぐに木幡山の地に新城の工事が開始されました。10月には本丸が完成し、翌年5月には天守と殿舎が、さらに10月に茶亭(ちゃてい)(茶室のことです)が完成したようです。天守完成と同時に秀吉が移住しています。この時完成した城が、豊臣期木幡山伏見城になります。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に至(いた)る手始めの合戦で、小早川秀秋(こばやかわひであき)・島津義弘(しまづよしひろ)連合軍に攻(せ)められ、焼け落ち落城してしまいましたが、その後、同じ場所に徳川家康(とくがわいえやす)が城を建て直しました。

加藤理文,城びと
木幡山伏見城跡の天守があった伏見桃山陵(りょう)(明治天皇陵)の西側の発掘(はっくつ)調査(ちょうさ)で見つかった石垣です。石の隙間(すきま)に黒い板状(じょう)の石を詰(つ)めて縁取(ふちど)る工法を初めて確認しました。贅(ぜい)をこらした装飾(そうしょく)で城中枢(ちゅうすう)部と大名屋敷との空間を区別するためとみられています(京都市文化市民局提供)

木幡山伏見城の立ち合い調査

現在残る城跡(しろあと)は、明治天皇(てんのう)の桃山陵を中心とする桃山御陵地(ももやまごりょうち)となっているため、立ち入ることが禁止されています。そのため、長らく現在の城跡が、どのようになっているのかは、はっきりしませんでした。そんな中、敗戦前に陸軍築城本部に置かれた本邦(ほんぽう)築城史編纂(へんさん)委員会の測量(そくりょう)図をもとに加藤次郎氏が現地踏査(とうさ)して製作(せいさく)したとされる図面が『伏見桃山の文化史』(加藤次郎 1953)に附(ふ)されたため、木幡山伏見城縄張(なわばり)図として世に広まり、基礎(きそ)的な資料(しりょう)となっていました。

近年、宮内庁(ちょう)の許可(きょか)を得た研究者による伏見城内への立ち入りが認(みと)められ、私も参加しました。城跡の石垣は、廃城(はいじょう)時に大半が他の城へ運び出され再利用されたようですが、部分的に残されている箇所(かしょ)もありました。また、基礎(きそ)部分については明瞭(めいりょう)に痕跡(こんせき)を留(とど)め、その構造(こうぞう)を解明(かいめい)するには十分だと感じました。本丸と二の丸の間の土橋(長さ約40m、幅(はば)約5m)や徳川期の天守台(一辺数十m、高さ約5m)は、現況(げんきょう)でもはっきり判明(はんめい)します。秀吉時代の石垣については、高さ約7m、長さ約20mほどが残されていました。その後、数度の踏査や写真測量が実施され、現況の伏見城跡についての報告(ほうこく)書(大阪歴史学会 『伏見城跡現状調査報告書』 2022)が刊行(かんこう)されました。詳(くわ)しく知りたい方は、こちらを参考にしていただけたらと思います。

伏見城跡現況図
伏見城跡現況図(一部改変)(京都府教育委員会2014「京都府中世城館跡調査報告書第3冊山城編1」作図:京都府)。大正元年(1912)、明治天皇の墓所(ぼしょ)として伏見城の本丸跡地が選択(せんたく)され、そのすぐ東に昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)の陵も隣接しています。それにより、大正以降立ち入り禁止となったため、旧状が良好な形で残されました

木幡山伏見城の構造について

木幡山伏見城に関わる資料は、『浅野文庫諸国古城之図(あさのぶんこしょこくこじょうのず)』の「伏見城絵図」、内閣(ないかく)文庫所蔵の「伏見城絵図」、櫻井成廣(さくらいなりひろ)氏所蔵(しょぞう)の「伏見城絵図」が知られています。これらを比較すると、同一の原本から書き写された可能性が高く、曲輪(くるわ)の配置や名称(めいしょう)はほとんど一致(いっち)しています。石垣の塁線(るいせん)の表現が多少異(こと)なる程度(ていど)です。加藤図と比較(ひかく)しても、それほど大きなずれは認められません。今回、京都府文化財保護課(ぶんかざいほごか)から公開された地形測量図と赤色立体図もほぼ同様ですので、加藤図は現況を良く表す図と理解されます。

山城国伏見城コピー禁止
山城国伏見城(諸国古城之図浅野文庫所蔵)
城の北側から西側に位置する「御花畑山荘」「大蔵丸」「徳善丸」「弾正丸」が描(えが)かれておらず、天守台の位置も異なっており、豊臣期の木幡山伏見城の姿と考えられています。

絵図では、北側東西に連なる御花畑(おはなばたけ)山荘(さんそう)から徳善(とくぜん)丸、大蔵(おおくら)丸を経て弾正(だんじょう)丸という曲輪と、その北側の北堀(ほり)が描かれていません。また、天守台の位置が異なります。現在の天守台(わずかに石材は見られますが、ほとんど土盛(どもり)です)は本丸の中心に位置しています。しかし、絵図では天守台が本丸北西隅(すみ)に描かれています。これは、秀吉時代と徳川時代で、天守の位置を変えたと理解されます。

秀吉が築いた城の天守の位置を確認して見ましょう。大坂城(大阪府大阪市)、聚楽第(じゅらくだい)(京都市上京区)、石垣山城(神奈川県小田原市)、肥前名護屋(ひぜんなごや)(佐賀県唐津市)といずれも塁線(るいせん)の角地に位置しています。また近年発見された木幡山伏見城を中心に描いたと思われる「洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)」(個人蔵)でも、塁線の角地に天守が描かれています。この天守は、二重櫓の上に一階建ての櫓を載(の)せ、さらにその上に二階建ての望楼(ぼうろう)を載せた姿で描かれています。外観は五重ですが、屋根裏階(やねうらかい)穴蔵(あなぐら)構造だと仮に考えてみると、五重七階地下一階とも考えられます。壁(かべ)は、柱をそのまま見せる真壁造(しんかべづくり)で、瓦(かわら)金箔(きんぱく)が使用されています。外壁に黒漆(こくしつ)を塗(ぬ)って金箔の花模様が描かれるのは、大坂城天守に共通する装飾です。

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国宝・三宝院唐門は、豊臣秀吉が催した「醍醐の花見」の翌年、慶長44(1599)年に造られた建物です。門全体が黒漆塗りで、「菊」と「五七の桐」の大きな紋には金箔が施されていました。個人蔵の屏風の天守の壁には、これに似たような文様が見られます

こうした状況から絵図類は、豊臣期木幡山伏見城の可能性が高まります。地形測量図・赤色立体図や加藤図等と絵図類は、内容(ないよう)的にはほとんど変化が見られません。豊臣期木幡山伏見城は、関ヶ原合戦の前哨戦(ぜんしょうせん)で焼失しましたが、建物のみで石垣の被害は無かったと思われます。徳川家康が再築した伏見城は、豊臣期の石垣をそのまま利用し、焼け落ちた建物のみ新築したと思われます。その際、シンボルとなる天守のみ角地から中央に移したのではないでしょうか。

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木幡山伏見城跡赤色立体図(大阪歴史学会提供)一部改変

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※天守(てんしゅ)
近世大名の居城(きょじょう)の中心建物で、通常(つうじょう)最大規模(きぼ)の高さを持つ建物のことです。安土城天主のみ「天主」と命名したため「天主」と表記しますが、他は「天守」が用いられます。

※櫓(やぐら)
遠くを見渡すためや敵(てき)の監視(かんし)をする物見の役割(やくわり)と、武器(ぶき)などを貯蔵(ちょぞう)する収蔵と防備(ぼうび)の役割を兼(か)ねた建物のことです。

殿舎(でんしゃ)
「御殿」と同義(どうぎ)です。城主が政治(せいじ)を行ったり、生活したりする建物です。政務(せいむ)や公式行事の場である「表向き」と、藩主(はんしゅ)の住まいである「奥向き」とに大きく分けられていました。

※土橋(どばし)
堀を渡る出入りのための通路として、掘(ほ)り残した土手(土の堤(てい))のことです。堀で囲(かこ)まれた曲輪には、最低1つは土橋がありました。木橋では運べない重い物を運んだり、相手方に切り落とされたりして孤立(こりつ)しないようにするためです。

※天守台(てんしゅだい)
天守を建てるための石垣の台座(だいざ)のことです。

※曲輪(くるわ)
城の中で、機能(きのう)や役割に応(おう)じて区画された場所のことです。曲輪と呼ぶのはおもに中世段階(だんかい)の城で、近世城郭(じょうかく)では「郭」や「丸」が使用されます。

※塁線(るいせん)
曲輪を区画するために、石垣や土塁などの構築物で造った連続するラインのことです。

※望楼(ぼうろう)
遠くを見渡すためのやぐらのことです。または、高く築いた建物のことです。

※屋根裏階(やねうらかい)
入母屋造(いりもやづくり)の屋根の裏(うら)側を利用して造られた階になります。屋根裏ですので、窓(まど)が無く真っ暗な階となる場合もあれば、小さな明り取りの窓を設(もう)ける場合もあります。また、破風(はふ)を付設(ふせつ)し破風からの採光(さいこう)で明るさを補(おぎな)うことも見られます。

※穴蔵(あなぐら)
天守の地下に造られた地下室で、当初は出入口を兼ねていました。天守相当の大型の櫓にも見られます。漆喰(しっくい)を塗り固めた土間あるいは石畳(いしだたみ)を用いることもありました。塩とか米とかの備蓄倉庫として用いられたりもしました。

※真壁造(しんかべつくり)
壁の塗籠(ぬりごめ)にあたって、建物を組み立てている柱を見せる仕上げで、大壁(おおかべ)造より古式な壁です。防火(ぼうか)の点では、木の柱が露出(ろしゅつ)している分不利になりますが、温度や湿度(しつど)が調節できるため居住性には優(すぐ)れています。

※金箔瓦(きんぱくがわら)
軒丸(のきまる)瓦、軒平(のきひら)瓦、飾り瓦などの文様部に、漆(うるし)を接着剤(せっちゃくざい)として金箔を貼(は)った瓦のことです。織田信長(おだのぶなが)の安土城で最初に使用が始まったと考えられています。

次回は「秀吉の城15(木幡山伏見城)」です

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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。