理文先生のお城がっこう 歴史編 第58回 秀吉の城10(陣城・名護屋城Ⅰ)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。これまで豊臣秀吉が築いたお城の特徴について見てきましたが、今回は豊臣秀吉が朝鮮出兵の拠点として築いた名護屋城(佐賀県唐津市)がテーマです。陣城として過去に例のないスケールを誇る名護屋城が、どのようにして築かれたのか見ていきましょう。

豊臣秀吉(とよとみひでよし)が朝鮮(ちょうせん)出兵(文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役)を行うための拠点(きょてん)とするために築(きず)かれた城が名護屋(なごや)(佐賀県唐津市)です。文禄元年(1592)の出兵開始から、秀吉の死による撤兵(てっぺい)までのおおよそ7年間、大陸侵攻(しんこう)の拠点となったのです。現在(げんざい)、名護屋城跡(あと)と23ヶ所の陣跡(じんあと)が国の特別史跡(しせき)に指定されています。今回は、この名護屋城について見ていきたいと思います。

大陸侵攻に向けて

天正15年(1587)、天下統一(とういつ)を目前に控(ひか)えた秀吉は、どんなことでも相談できる信頼(しんらい)する部下の一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)に「日本国はおろか、唐国(からくに)まで攻(せ)めて自分の領国(りょうこく)にする」と言い放ったと伝わります。誰(だれ)もが秀吉得意(とくい)の人目を引くために口先だけで言ったことと思っていました。ところが、その言葉から2年後、対馬(つしま)の宗(そう)氏に李氏朝鮮(りしちょうせん)国王を日本に呼(よ)ぶように掛(か)け合うように命じたのです。同18年(1590)、小田原北条(ほうじょう)氏を滅(ほろ)ぼし我(わ)が国を統一すると、待っていた朝鮮の通信使(つうしんし)(外交使節団(だん)のことです)が到着(とうちゃく)しました。秀吉は、朝鮮が秀吉の支配(しはい)下に入ることを伝えに来たと勘違(かんちが)いし、明(みん)国を攻めるための道案内をするように求めますが断(ことわ)られてしまいます。

翌年、秀吉の唯一(ゆいいつ)の実子である鶴松(つるまつ)がわずか3歳(さい)で病死してしまいました。あまりの悲しみに秀吉は、清水寺で気持ちを落ち着かせた後、有馬温泉(おんせん)に湯治(とうじ)に向かいましたが、ひどいショックで気力や意欲(いよく)なども無くしたと言います。秀吉は、この悲しみを忘(わす)れるために、あわただしく大陸へ軍隊を差し向けることになるのです。宣教師(せんきょうし)のルイス・フロイスの記録によれば、秀吉は家臣達に「多くの軍隊を、他と比(くら)べて簡単(かんたん)に朝鮮半島へ渡(わた)らせることが出来そうな港があるか」と聞き、「肥前(ひぜん)の有馬晴信(ありまはるのぶ)の兄で波多(はた)殿(どの)の領内に名護屋という良い港があります。平戸から約56㎞で、1千余艘(そう)の船が安全に出入りでき、名護屋からから朝鮮半島へ渡ることは難(むずか)しいことではないでしょう」との答えを得たといいます。

名護屋城
対岸の呼子(よぶこ)町から望んだ名護屋城跡。手前の海は名護屋浦(うら)です。この入江(いりえ)が奥(おく)深くまで入り込(こ)み、天然の良港となっていました

名護屋への築城開始

しかし、当時の名護屋の地は、人気のないさびれた村で、朝鮮へ軍隊を派遣(はけん)するための拠点とするには、あまりに寂(さみ)しすぎる土地だったのです。フロイスは「あらゆる人手を欠いた荒(あ)れ地」と表現しています。このさびれた村を、朝鮮へ軍隊を派遣するための最高司令部を置くにふさわしい場所にするため、多くの費用(ひよう)と人手をかけて秀吉が入るための城を築き始めたのです。

城の縄張(なわばり)を担当(たんとう)したのは黒田孝高(くろだよしたか)(黒田官兵衛(かんべえ))、城の基礎(きそ)を作る土木工事を担当する普請奉行(ふしんぶぎょう)は黒田長政(ながまさ)中津城主)、加藤清正(きよまさ)熊本城主)、寺沢広高(ひろたか)唐津城主)らが務め、本丸数寄屋(すきや)や旅館などの建物を建てる作事奉行(さくじぶぎょう)は長谷川宗仁(はせがわそうにん)(茶人・画家)、大手門は御牧勘兵衛尉(みまきかんべえ)(豊臣政権(せいけん)の事務(じむ)の担当者)と、九州各地に領地を持つ諸大名(しょだいみょう)による「割普請(わりぶしん)」(分担工事)で、城を造(つく)る工事が進められることになったのです。

工事を始めてからわずか5ヵ月で中心の施設(しせつ)が置かれた場所のほとんどが完成し、さらに、睡眠(すいみん)や休憩(きゅうけい)をとる時間も惜(お)しんでも工事を進め、8ヵ月後の文禄元年(1592)3月、城は完成しました。あまりに急いで工事を進めたため、城を造っている最中にその場で、より便利なように変更を加えながら工事が進められたようです。さらに完成した後も、様々な場所をより使いやすくするためや、より綺麗(きれい)に見えるようにするための改造を重ねていたことが、発掘(はっくつ)結果から解(わか)っています。工事を始めてからずっと4万~5万人の人数を集めて完成した城は、一時的に秀吉が入るだけの陣城(じんじろ)でしたが、有力な諸大名の居城をも超(こ)えてしまう程(ほど)の段違(だんちが)いの大きさとなり、当時日本一の規模(きぼ)であった大坂城(大阪府大阪市)に次ぐ城となったのです。

名護屋城跡復元模型
名護屋城跡復元模型(佐賀県立名護屋城博物館蔵)。割普請で築かれ、わずか5カ月で中枢(ちゅうすう)部が完成しました。総石垣造りで大坂城に次ぐ規模だといわれる程でした

新たな都市の出現

今までに例がなく、これからもあり得ない程の陣城の完成は、富と権力がすべて秀吉に集中していることを、全国の人々に知らせることになりました。名護屋の地には、この秀吉の陣城だけでなく、参戦を命じられた各地の大名たちが部下を引き連れ住む陣屋(じんや)が130ヶ所ほど城の周囲(しゅうい)に築かれたのです。当然、これ程の人々が移住すれば、様々な物が必要になります。移住してきた大名たち目当てに、商人や職人(しょくにん)、果ては遊女までもが集まり、名護屋の街は常時(じょうじ)20万人ほどが滞在(たいざい)する「京にも劣(おと)らない」一大都市となったのです。「野も山も空いたところがない」と佐竹義宣(さたけよしのぶ)の家臣の平塚滝俊(ひらつかたきとし)が書状(しょじょう)に記しています。

思いがけない展開から作り出された新しい都市名護屋は、朝鮮半島へ軍隊を送るという軍事行動に伴(ともな)うもので、朝鮮への出兵が行われていた期間は、日本の首都として機能(きのう)した程でした。しかし、朝鮮との戦争が終わってしまえば、城と町の役割(やくわり)も無くなってしまい、跡形もなくなることは誰もが解っていたのです。街は、再(ふたた)びさびれた村に戻(もど)ることになるわけです。

名護屋城、陣跡
名護屋城跡と周囲に築かれた陣跡航空(こうくう)写真(佐賀県立名護屋城博物館蔵)

城は、東松浦半島北端(ほくたん)の、玄界灘(げんかいなだ)に突(つ)き出した標高約90mの波戸(はと)(みさき)の丘陵(きゅうりょう)上を中心として築かれました。城が築かれた場所の東側と西側の両側に名護屋浦と串浦(くしうら)の2つの入江がすぐ近くにあるため、海上水運を最大限に余(ああま)すところなく利用することが出来る、大変都合の良い土地でした。東の名護屋浦は、湾(わん)の外海への出入り口に加部島(かべしま)が位置するため、島が波除(よ)けの役割を果たす天然の良港でした。さらに、壱岐(いき)・対馬(つしま)を経て朝鮮半島に近いという地理的条件(じょうけん)もあり、朝鮮に兵を出して戦うための港を持つ陣城を築くには、最高の条件が整っていたことになります。

名護屋城
本丸から玄界灘と加部島を見る。名護屋浦の河口(かこう)の手前に加部島が位置し、防波堤(ぼうはてい)の役割を担っていました

城の解体とその後の姿

この名護屋城最大の特徴(とくちょう)は、攻撃(こうげき)目標となる危険性(きけんせい)がまったくなかったことです。国内で戦うために普通(ふつう)に築かれた陣城は、万が一の際は、敵(てき)方の攻撃に巻(ま)き込まれることも覚悟(かくご)する必要がありました。ところが、肥前名護屋の地は敵方である朝鮮との間に広大な水堀(みずぼり)(対馬海峡(かいきょう))が横たわっていたのです。そのため、敵方の攻撃に備(そな)える施設を必要以上に造る必要はありませんでした。朝鮮半島へ出陣する武将(ぶしょう)たちのやる気を高めるためのシンボルとしての機能や、降伏(こうふく)した敵を迎(むか)えることを最も重要なポイントとして築城されたのです。もちろん、朝鮮半島に渡って戦っている武将たちに足りなくなった物資を補(おぎな)うことや情報(じょうほう)を提供(ていきょう)するなどの中継(つ)ぎをするための役割を果たす城でもあったのです。

朝鮮半島から撤退(てったい)した後、城は解体(かいたい)され材木や瓦(かわら)などは唐津城(佐賀県唐津市)に運ばれ再利用されました。城跡に残る石垣(いしがき)は大きく破壊(はかい)を受けていますが、これは島原の乱(らん)後、幕府の指示で破却(はきゃく)したとの記録が残っています。また、江戸時代に入って朝鮮通信使との交流が再開されると、秀吉の朝鮮出兵のシンボルであった城を破壊することで幕府が明や朝鮮との関係を改善しようとしたとの見方や、一国一城令の時に壊されたとの見方などがあります。こうした破城によって、城の規模や構造(こうぞう)等は不明な点が多く、「謎(なぞ)の城」と言われてきました。

名護屋城、破城
本丸の破城の状況。隅角(ぐうかく)部や築石部をⅤ字状に崩(くず)し、再利用が出来ないように破壊されています。名護屋城では、破城の状況(じょうきょう)もそのまま整備しています

昭和43年(1968)、名護屋城と周辺諸将の陣を克明(こくめい)に描いた「肥前名護屋城図屏風(びょうぶ)」が発見されたことや、同41年から数十年にかけて行われた発掘調査(ちょうさ)のデータの分析(ぶんせき)などから様々な事実が明らかとなり、秀吉の夢の跡である名護屋城本来の姿が徐々に判明(はんめい)してきています。

肥前名護屋城図屏風
「肥前名護屋城図屏風」(佐賀県立名護屋城博物館蔵)。狩野派の絵師狩野光信の作で、下絵あるいは写しと言われています。名護屋城だけではなく、所狭しと諸将の陣が描かれています

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※縄張(なわばり)
城を築く時の設計(せっけい)プランのことです。曲輪(くるわ)や堀、門や虎口(こぐち)などの配置をいいます。

※作事(さくじ)
天守や櫓(やぐら)・城門や塀(へい)などを建てる建築工事(大工仕事)のことです。近世城郭(じょうかく)を建てる場合は、作事が築城工事の中心でした。

※普請(ふしん)
設計図通りに曲輪を造ったり、堀を掘ったりする土木工事全般(ぜんぱん)を行うことです。土木工事には、土塁(どるい)を造ったり、石垣を造ったりすることなども含(ふく)まれます。

割普請(わりぶしん)
城を築かせるために、配下の大名・武将に土木工事などを割(わ)り振(ふ)って手伝わせることを言います。「手伝い普請」ともわれます。江戸時代、徳川家康によって実施(じっし)された割普請は「天下普請」といわれるようになります。

※陣城(じんじろ)
戦闘(せんとう)や城攻めの時に、臨時的(りんじてき)に築かれた簡易(かんい)な城を呼びます。

陣屋(じんや)
合戦時に軍兵が臨時に駐屯(ちゅうとん)する営舎(えいしゃ)をいいます。江戸時代には城を持つことが出来なかった小大名や交替(こうたい)寄合(よりあい)の拝領地(はいりょうち)における居館、大藩(たいはん)重臣の城下町外の屋敷(やしき)、用水方普請役の詰所(つめしょ)、藩飛地(とびち)領や高禄(こうろく)旗本の知行地の支配にあたった地方役人の役所などを陣屋と呼ぶようになります。

破城(はじょう)
城を取り壊すことです。廃城(はいじょう)によって行なわれる処置のひとつで、城割(しろわり)とも呼ばれます。城を移したことで前の城を壊すことや、敵の城を攻め落とした後にその城を壊すことも破城になります。和平や休戦の条件として破城を行うこともありました。当初は、建物を壊すことでしたが、島原天草一揆(1637年)破城した城が再利用されたため、石垣まで含めて徹底的に壊すことが行われるようになりました。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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