理文先生のお城がっこう 歴史編 第39回 織田信秀の居城移転2

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。今回のテーマは、前回に続いて織田信長の父・織田信秀の居城移転について信秀は生涯に居城を4度も移しましたが、その目的をそれぞれの城の特徴に注目しながら見ていきましょう。

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「【理文先生のお城がっこう】歴史編 第38回 織田信秀の居城移転1

織田信長(おだのぶなが)の父・信秀(のぶひで)が、尾張(おわり)の国の南半分を領有(りょうゆう)する主君の家来であったことを前回まとめました。その家来の中でも、特に「三奉行(ぶぎょう)」と呼(よ)ばれる内の一人でした。従(したが)って、信秀と同格(どうかく)の家臣が、他に2人いたことになります。信秀の家は、弾正忠(だんじょうのちゅう)家と呼ばれ、跡(あと)を継(つ)いだ人物は、必ず弾正忠を名乗っていたのです。信秀は、津島(つしま)や熱田という、商業都市を支配(しはい)することでお金を蓄(たくわ)え、天皇(てんのう)家や有力寺社に寄付(きふ)を重ね、名を売りました。軍事力にも秀(ひい)で、他の2人や主家をも圧倒(あっとう)し、尾張半国の実力者になったのです。今回は、その信秀の居城(きょじょう)移転(いてん)についてまとめてみます。

信秀の居城移転

家督(かとく)を継いだ当初は、父・信定が築(きず)いた勝幡(しょばた)(愛知県稲沢市)居城としていました。勝幡城は、津島を治めるには最適(さいてき)な場所で、二重の堀(ほり)で囲(かこ)まれ、三宅川が外堀(そとぼり)の役目を果たしていたようです。方形の本丸は、東西29間×南北43間で、周囲(しゅうい)を幅3間の土塁(どるい)で囲まれていたと記録されています。天文元年(1532)に、那古野(なごや)城を奪(うば)い取ると、居城を移転し、勝幡城には家臣の武藤雄政(かつまさ)(武藤掃部助(かもんのすけ))を城代(じょうだい)(城主にかわって城を管理する者のことです)として置くことになります。

勝幡城
現在の勝幡城跡。城の中心は平和町城西(現在の城之内)付近と推定(すいてい)され、碑(ひ)のあるあたりは城跡の南端(なんたん)部分と考えられています。現在の日光川は江戸期に萩原川が大規模(きぼ)に掘削(くっさく)され流れを変えています。従って、城の大部分は、現日光川の河床(かしょう)に位置することになります

那古野の地は、熱田台地(名古屋台地)の西北端に位置し、熱田の町を支配するための移転に他なりません。当時の熱田は、伊勢湾(いせわん)に面した海上交通の要衝(ようしょう)で、伊勢湾貿易(ぼうえき)で大いに繁栄(はんえい)していたのです。そればかりではありません、陸路でも都と東国を結ぶ重要拠点(きょてん)でした。さらに、熱田神宮の参拝(さんぱい)者でも賑(にぎ)わう商都だったのです。信秀は、尾張地域(ちいき)の物流・交通・商業の拠点の熱田を治めることで、人と物の流れを押(お)さえ、港の津税(つぜい)(港を利用したり停泊(ていはく)したりする船から集金する税金(ぜいきん)のことです)で巨大(きょだい)な富を手にすることになったのです。

那古野城
那古野城は、現在の名古屋城の二ノ丸あたりに位置していたと考えられており、現在二ノ丸に石碑が残される他は、当時の姿を伝えるものは残されていません

天文3年(1534)、岡崎城主の松平氏や今川家からの反撃(はんげき)に備(そな)えて、那古野城の南に古渡(ふるわたり)(愛知県名古屋市中区)を築き、拠点を移します。那古野城は、嫡男(ちゃくなん)の吉法師(きっぽうし)(織田信長)に譲(ゆず)りました。古渡城は、東西140m×南北100mの規模で、四方を二重の堀で囲まれていました。同17年、信秀が美濃(みの)に侵攻(しんこう)すると、清須(きよす)の織田信友(のぶとも)(守護代)の家臣酒井(坂井)大膳(さかいだいぜん)らが攻(せ)め寄(よ)せ、城下を焼き払(はら)いましたが、城は守りとおしました。城跡は、現在(げんざい)真宗大谷(しんしゅうおおたに)派名古屋別院(べついん)の敷地(しきち)内となり、城址碑が建つのみです。

古渡城
古渡城はわずか14年で廃城となった城です。真宗大谷派名古屋別院(写真右側)敷地内に、古渡城跡石碑(写真左側)のみ残されています

天文17年(1548)、隣国(りんこく)の三河(みかわ)の領有をめぐり、駿河(するが)の今川氏との対立が表面化すると、東山丘陵(きゅうりょう)の末端に末森(末盛)(すえもり)愛知県名古屋市千種区)を築き、古渡から居城を移します。

「愛知郡末盛村古城絵図」(名古屋市蓬左文庫蔵)によれば、城は標高43mの丘(おか)を利用し、東西約180m×南北約150mの規模で、中央に方形の本丸を置き、西に二の丸、北に方形曲輪(くるわ)が配され、これらの周囲を横堀(よこぼり)が巡(めぐ)らされていました。北曲輪は、本丸東下から南に続き、南に方形の曲輪となっています。特筆されるのは、主郭(しゅかく)の北側に三日月堀(みかづきぼり)を持つ丸馬出(まるうまだし)が構えられていたことです。こうしたことから、この城が天正12年(1584)の小牧・長久手(ながくて)合戦に際(さい)し、徳川氏の陣(じん)として再(さい)利用され、その際に現状(げんじょう)のような横堀が廻(まわ)る城に改修(かいしゅう)されたと考えられています。北曲輪は城山八幡宮(はちまんぐう)鎮座(ちんざ)(神様がしずまりとどまることです)し、本丸も旧状を留(とど)めていますが、二の丸は後世の改変を大きく受けています。横堀は、深さ約7mと比較的(ひかくてき)良く残されています。

蓬佐文庫の絵図
「愛知郡末盛村古城絵図」(名古屋市蓬左文庫所蔵)。中央の方形本丸を中心に、西に二ノ丸、北に出丸を配置して、周囲を横堀が取り囲む姿(すがた)で描かれています。本丸北虎口(こぐち)の外側に丸馬出が描かれています。そのため、信秀時代の城を、天正12年の小牧・長久手合戦に際し、改修・増強したと考えられています

末森城
本丸跡地は城山八幡宮の神域となっており、城址の石碑が見られます(写真左側)。二の丸跡地には愛知県が建設した旧・昭和塾堂(じゅくどう)が建っています(建物は現在愛知学院大学に貸与(たいよ))。周囲には、深さ7mほどの空堀跡(写真右側)の遺構(いこう)が、よく残っています

信秀は、その居城を①勝幡城⇒➁那古野城⇒➂古渡城⇒④末森城へと、4度に渡(わた)って移しています。勝幡から那古野へ城を移したのは、交通の要衝であった熱田を押さえることで、尾張の経済流通の支配を強化するためでした。対して、古渡、末森の両城は、隣国三河との争いに備える目的での居城移転です。当時の戦国大名は、支配地も狭(せま)く代々の拠点とする城を動かすことはほとんどありませんでした。そうした中で、その居城の移転を4度も繰り返した信秀の戦略(せんりゃく)は極めて特異(とくい)な事例です。この信秀の戦略があったからこそ、天下統一(とういつ)にまっしぐらに突(つ)き進んだ信長は、迷(まよ)うことなく居城を移転させたのかもしれません。

織田信秀の居城移転と周辺の城郭位置図
織田信秀の居城移転と周辺の城郭位置図

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※外堀(そとぼり)
城の外郭を囲む堀。本丸を取り囲む数種類の堀があった場合は、一番外側にある堀を呼びます。河川(かせん)や沼(ぬま)の一部を外堀として利用することもありました。

※土塁(どるい)
土を盛(も)って造(つく)った土手のことで、土居(どい)とも言います。多くは、堀を掘った残土を盛って造られました。

城代(じょうだい)
領主から城及び周辺の領土の守備を任(まか)された家臣のことです。城主の留守中(るすちゅう)に代理として城を管理した者を指すこともあります。

※横堀(よこぼり)
曲輪の防備(ぼうび)を固めるために曲輪を廻るように設(もう)けられた堀のことです。等高線と平行になるように掘られます。広大な規模を持つ場合が、多く見られます。

※三日月堀(みかづきぼり)
丸馬出(まるうまだし)の前面に設けられた半円形をした堀のことです。半円形のため死角が無く守りやすいと言われています。

※丸馬出(まるうまだし)
外側のラインが半円形の曲線になる馬出のことです。石垣(いしがき)を円弧(えんこ)状に積むのは、非常(ひじょう)に高い技術(ぎじゅつ)を必要とするため、ほとんどが土造りでした。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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