理文先生のお城がっこう 歴史編 第40回 織田信長の居城1

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。今回のテーマは「織田信長の居城」について。信長は全国統一を進める中で何度も居城を移しました。その目的と、初めて自ら移転した清洲城がどんな城だったのか見ていきましょう。

織田信長(おだのぶなが)勝幡(しょばた)(愛知県愛西市)に生まれると、父・信秀(のぶひで)は今川氏から奪った那古野(なごや)(愛知県名古屋市)を築(きず)き、誕生(たんじょう)間もない信長の居城(きょじょう)としました。信秀の死によって家督(かとく)を継(つ)ぐと、尾張統一を進め天文24年(1555)、清洲(きよす)(愛知県清須市)へと入城し、ここで8年間過(す)ごすことになります。この間、清洲城を拠点に反対勢力を次々と打ち破り、尾張国全土の支配を確実にしたのです。

永禄(えいろく)6年(1563)、突然(とつぜん)、その居城を移転(いてん)することにした信長は、清洲城から小牧山(こまきやま)(愛知県小牧市)へと城を移(うつ)すことになります。その後、美濃(みの)を奪(うば)い取ることに成功すると、直ちに岐阜城(岐阜県岐阜市)へと居を移しました。さらに、畿内(きない)の重要な役割(やくわり)を果たしている京都などの場所を手に入れると、都に近い安土(滋賀県近江八幡市)の地に城を築き、移り住むことになります。

このように居城を次々と移していったのは、全国を統一(とういつ)するための戦をより繰(く)り広げていきやすい環境(かんきょう)にするためでした。他の戦国大名とちがって、何度も居城を移すことができたのは、武士(ぶし)と農民の身分差別をはっきりとさせ、武士が職業(しょくぎょう)として軍隊を組織(そしき)していたためです。土地に縛(しば)られない家臣達は、信長が命ずるままに、新たな土地へと移り住んでいったのです。

安土城跡
西側から見た安土城跡。信長の城は、小牧山城、岐阜城、安土城といずれも山の上に築かれていました

「きよす」の漢字表記については、「清須」と「清洲」の両方が見られ、歴史書(れきししょ)でも異(こと)なっています。最古の記載(きさい)は、伊勢(いせ)神宮の領地を記録した14世紀(せいき)中ごろの『神鳳鈔(じんぽうしょう)』で「清州御厨(きよすみくりや)」として書かれています。江戸時代初期に書かれた『三河物語』には「清須」、『信長公記』には「清洲」と書かれています。今回は、信長のことを書きますので、『信長公記』の「清洲」を使うことにしました。

清洲城の位置と歴史

清洲の地は、尾張(おわり)国のほぼ真ん中あたりに位置し、尾張国の守護所(しゅごしょ)(守護が居住した館の所在(しょざい)地のことです)として栄え、京鎌倉往還(きょうかまくらおうかん)(都と鎌倉を結ぶための道です)伊勢参宮(さんぐう)街道(日本の各方面から伊勢神宮へ参拝(さんぱい)するための道として整備(せいび)された街道のことです)が合流する交通の要衝でした。中山道(なかせんどう)(飛騨(ひだ)・木曽(きそ)・赤石の三つの山脈(さんみゃく)の間を貫通(かんつう)して京都と江戸を結ぶ街道です)への連絡(れんらく)も便利であったため非常(ひじょう)に重視(じゅうし)されていました。

応永(おうえい)12年(1405)(永和(えいわ)元年(1375)とも)、尾張・遠江・越前守護の管領(かんれい)(室町幕府(ばくふ)において将軍(しょうぐん)に次ぐ最高の役職です)斯波義重(しばよししげ)によって築城されたのが最初と言われています。当初の尾張守護所は下津(おりづ)(愛知県稲沢市)あったため、その城の別郭(べつくるわ)(独立(どくりつ)して別に設(もう)けられた曲輪(くるわ)(城)のことです)として建てられました。文明8年(1476)、下津城が守護代(しゅごだい)(守護の職務を代行した人のことです)織田家の内輪もめで焼け落ちてしまったため、同10年に清洲城に守護所が移され、以後尾張国の中心地となったのです。一時期を除(のぞ)けば、尾張下四郡を支配する守護代清洲織田氏(織田大和守家)の本城として重要視(し)されていました。 

清洲城跡
現在、本来の清洲城跡(じょうせき)は開発によって大部分は消失し、さらに東海道本線と東海道新幹線(しんかんせん)によって分断(ぶんだん)され、本丸土塁(どるい)の一部が残るのみです。線路より南が清洲公園、北が清洲古城跡公園になっており、北側に石碑(せきひ)、南側に信長の銅像(どうぞう)が立っています

信長の清洲入城

弘治(こうじ)元年(1555)信長は、那古野城から尾張守護所の清洲城へと入城します。これは、守護代織田信友(のぶとも)に替(か)わり、信長が尾張支配(しはい)を進めるということを国内の実力者や部下たちに示(しめ)すために必要なことだったのです。一つの国を自らの領土(りょうど)として所有する権利(けんり)を受け継いだり、奪い取ったりした場合、最も解(わか)り易(やす)いのは、前の支配者の居城へ新領主として入城することでした。当時は、城へ入ることで権限(けんげん)が移ったことを国内の実力者や部下たちに知らせることが出来たのです。信長が清洲城へと入ることは、尾張全土の支配を進める上で、無くてはならない儀式(ぎしき)だったのです。

清洲へ入城した信長は、前からの城を大きく変えることはありませんでした。変えないことで、尾張を支配するための権力が抵抗(ていこう)なく信長のもとへ移ったことを示そうとしたのでしょうか。あるいは城の大改修(かいしゅう)を部下に命じるまでの力が、まだこの時点では足りなかったことも考えられます。

清洲古城跡公園、石碑
清洲古城跡公園には、幕末に建てられた2基の石碑(清洲城碑、右大臣織田信長公古城趾碑)があります。また、信長を祀(たてまつ)るお社(やしろ)も鎮座(ちんざ)しています

信長は、弘治元年から永禄6年までの約8年間を清洲で過ごしていますが、『信長公記』には、新たな館に移ったとか、新しい館を築いた等の記録はありません。発掘調査(はっくつちょうさ)によって、清洲城が二重の堀(ほり)に囲(かこ)まれた約200m四方の方形館(ほうけいかん)(水堀と方形の土塁に囲まれた館のことです)と考えられています。信長が城主となった時の清洲城内には、どのような建物があったかははっきりしません。おそらく、足利将軍家の邸宅(ていたく)(花の御所)に倣(なら)った御殿(ごてん)が立ち並(なら)ぶ姿(すがた)であったと思われます。

清洲公園、織田信長の銅像
清洲公園に立つ信長の銅像です。永禄3年(1560)「桶狭間(おけはざま)の戦い」に出陣(しゅつじん)する若き信長の姿を模(も)した像です。近年、その脇に濃姫(のうひめ)像が建てられました

『信長公記』には、清洲城について「又はざまの森刑部丞(ぎょうぶのじょう)兄弟切てまはり」、「四方屋の上より弓の衆(しゅう)さし取り引つめ」、「御殿に火を懸(か)け」、「堀へ飛入り、…水におぼれ死ぬるもあり」、「清洲の城外輪より城中を大事と用心」、「三王口(山王口)にて取合」、「町口大堀の内へ追入れらる」、「清洲の城南矢蔵(やぐら)へ御移り」、「町人も惣構(そうがまえ)よく城戸をさし堅(かた)め」、「武衛(ぶえい)様国主と崇(あが)め申され、清洲の城渡(わた)し進せられ、信長は北屋蔵へ御隠居(ごいんきょ)候なり」、「清洲へ御見舞(おみまい)に御出で、清洲北矢蔵天主次の間にて」という記載が見られます。

これらのことから、清洲城には①木戸で固められた惣構(城下町まで囲んだ堀や土塁などの城壁(じょうへき)のことです)外曲輪(そとぐるわ)(城の外周に巡(めぐ)らした曲輪のことです)③南櫓(やぐら)(矢蔵)④北櫓(矢蔵)⑤北櫓(矢蔵)天主(殿主)次の間⑥専任の武将が守る狭間(さま)(櫓か塀か)⑦四方を囲む屋根がある建物⑧御殿⑨溺(おぼ)れ死ぬ程(ほど)の深さを持つ水堀の存在(そんざい)等が解ります。

清洲城の模擬天守
清洲城址の対岸に建つ城は、清洲城の模擬(もぎ)天守です。ここに城があったわけではありません。清洲城のイメージとして、平成元年(1989)に建てられたものです

今日ならったお城の用語(※は再掲)

別郭(べつくるわ)
他の郭と独立して別に設けられた曲輪、あるいは独立した城を呼(よ)ぶこともあります。その場合、一城別郭(いちじょうべっかく)と言います。

本城(ほんじょう)
領主が本拠地(ほんきょち)としている城のことです。根城(ねじょう)、居城(居城)と同義です。または、城の中で中心となる曲輪(主郭・本丸)のことです。

※方形館(ほうけいかん)
中世以降(いこう)、武士が日常(にちじょう)生活をする場所で、支配する土地の中心となった、四角形(方形)を基本(きほん)とした館のことです。水堀と方形の土塁に囲まれることがほとんどでした。

※惣構(そうがまえ)
城だけでなく、城下町まで含(ふく)めた全体を堀や土塁などで囲い込(こ)んだ内部、または一番外側に設けられた城を守るための施設(しせつ)のことです。「総構」と書くこともあります。

※外曲輪(そとぐるわ)
外郭(がいかく)とも呼ばれます。城下町も含(ふく)めて大きく堀や石垣(いしがき)、土塁で囲い込んだ惣構を持つ城で、居住を目的にした城下部分のことです。

※狭間(さま)
城内から敵(てき)を攻撃(こうげき)するために、建物や塀(へい)、石垣に設けられた四角形や円形の小窓(こまど)のことです。縦長(たてなが)は鉄砲(てっぽう)・弓矢両用、四角・丸・三角は鉄砲用です。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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