理文先生のお城がっこう 歴史編 第18回 巨大化した戦国山城

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。18回目の今回は、各地で力をつけた戦国大名たちが、他国からの侵入に備え、城を強固にし、どのように巨大化していったのかについて理文先生が解説します。



■理文先生のお城がっこう
前回「第17回 戦乱による山城の発展」はこちら

16世紀中ごろになると、室町(むろまち)将軍(しょうぐん)家の力は衰(おとろ)え、京都及(およ)び畿内(きない)周辺域では管領(かんれい)(将軍を補佐し内外の政治上の事務をまとめる役職のことです)の細川氏が力をふるうようになりました。だが、当初は細川氏に属(ぞく)していた三好(みよし)氏が反抗(はんこう)し、畿内(きない)最高(さいこう)の権力(けんりょく)者になっていきます。

細川氏は、幕府(ばくふ)の管領(かんれい)(しょく)であるため、政権(せいけん)を運営(うんえい)することはおかしくありませんが、三好氏は細川氏の部下(ぶか)にしか過(す)ぎません。本来(ほんらい)なら政権運営どこではない三好長慶(みよしながよし)が、京周辺(しゅうへん)を制圧(せいあつ)してしまったのです。それどころか、強大な軍事(ぐんじ)力をバックとして足利(あしかが)氏までをも追放(ついほう)してしまいます。これにより、世の人々は、室町政権がすでに何の力も持っていないことを知ったのです。こうした風潮(ふうちょう)(時代の変化に伴(ともな)って移(うつ)り変わる世の中のありさまのことです)下克上(げこくじょう)(身分の下の者が上の者にとって代わることです)と言い、この頃から戦国時代ということになります。

飯森山城、茨木、高槻
三好長慶の居城・飯森(いいもり)山城より望んだ茨木(いばらき)・高槻(たかつき)方面
眼下(がんか)に広がるほぼ全域を制圧(せいあつ)した長慶は、まさに天下を取ったような気分だったのではないでしょうか。大阪方面を見れば、あべのハルカスまでも見渡(みわた)せます

この前後に活躍(かつやく)したのが、甲斐(かい)の武田信玄(たけだしんげん)、越後(えちご)の上杉謙信(うえすぎけんしん)、相模(さがみ)の北条氏康(ほうじょううじやす)などです。各地で力をつけた戦国大名たちは、他国からの侵入(しんにゅう)に備(そな)え、城をより強固(きょうこ)にし、さらに巨大化していくことになります。

全山要塞化(ようさいか)された吉田郡山城

西国(今の中国地方)で最も力をつけて、多くの国を支配するようになったのが安芸国(あきのくに)の毛利元就(もうりもとなり)です。元就の本拠(ほんきょ)吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)は、戦国期(せんごくき)に大拡張(かくちょう)が実施(じっし)され、全山を敵の攻撃(こうげき)から守り切るような要塞へと変化していくことになります。

当初の城は、郡山(こおりやま)全体から見ると、東南の下段に位置(いち)する一の尾根上を利用した小さな城(今の尾崎丸(おざきまる))で、尾根続きに堀切(ほりきり)を設(もう)けて遮断(しゃだん)していました。元就が、数か国を支配(しはい)するようになると、郡山の山頂(さんちょう)を中心に、そこから四方八方(しほうはっぽう)に延(の)びる尾根筋(おねすじ)の6本に多くの曲輪(くるわ)群が築(きず)かれるようになります。(あわ)せて、山の麓(ふもと)部分も整備されました。こうした拡張(かくちょう)工事によって、城を守るための施設に囲まれた範囲(はんい)の総面積(そうめんせき)は、4千平方メートルから7万平方メートルを越える驚(おどろ)くほど大きい城になったのです。

吉田郡山城
南東より望んだ吉田郡山城前景
山の右端(はし)が、元就が当初城を営(いとな)んだ場所になります。両国の拡張に併せ城は、全山に広がり、家臣ともども山中を居所(きょしょ)にしたのです

城を全山に広げ、巨大な形にした中で、一番大きく変わったのが、最も高い場所にあった本丸(ほんまる)とその周囲の様子です。元就(もとなり)は、山頂(さんちょう)の本丸に居館(きょかん)を築いて、そこに住むようになりました。さらに後継(あとつ)ぎとなる嫡子(ちゃくし)の隆元(たかもと)や信頼する重臣たちの屋敷(やしき)までが、周囲に築かれていくことなります。また城の中に、満願寺(まんがんじ)や妙寿寺(みょうじゅじ)というお寺も建立(こんりゅう)されることになりました。配下(はいか)の武将(ぶしょう)たちも、尾根筋のどこかに削平地(さくへいち)を設け、居住地としたため、全山のいたるところに曲輪(くるわ)が残り、その数はゆうに100を超えます。

郡山城、三の丸、通路
郡山城主要部の三の丸下の通路
所狭(ところせま)しと石垣の石材が斜面(しゃめん)に崩(くず)れ落ちています。主要部は石垣造(いしがきづく)りであったことが解(わか)ります。唯一(ゆいいつ)毛利氏直属の石工集団「石つきのもの共」が積んだ立石が一石残されています

城は、天正16年(1588)、元就の孫・輝元(てるもと)が、広島城を築き移転(いてん)する直前まで、整備と設備などを増やして機能(きのう)を強化することが続けられ、主要部は高い山城にも関わらず、石垣に囲まれる姿とされました。最も繁栄(はんえい)した時の城は、東西1㎞、南北800mの郡山全山を要塞化した全国でも最大級の戦国山城でした。山の上に造られた曲輪群には、毛利氏家臣の屋敷が営まれ、主従(しゅじゅう)ともども険(けわ)しく不便(ふべん)な山中で暮らすことになるのです。これが、平時の居館と有事(ゆうじ)の城郭(じょうかく)が合体した代表的な巨大山城の姿です。

上杉謙信の春日山城

春日山城(かすがやまじょう)は、標高182mの鉢ヶ峰山の最高所を中心に広がっています。山麓(さんろく)の東側を北国街道(ほっこくかいどう)が、西側には郷津(ごうのつ)港から続く山道・御成街道(おなりかいどう)が走っていました。山頂からの見晴(みは)らしは素晴(すば)らしく、北に日本海、東側に広がる関川(せきかわ)が築(きず)いた頚城(くびき)平野が一望(いちぼう)されます。

春日山城本丸、景観
春日山城本丸からの景観
越後(えちご)付中(直江津)と周辺の山々の支城(しじょう)跡や日本海が一望(いちぼう)できます。関川右岸に広がる街、遠く柿崎(かきざき)、米山(よねやま)の雄姿(ゆうし)が望めます

この城に長尾景虎(ながおかげとら)(後の上杉謙信)が入城(にゅうじょう)したのは、天文(てんもん)17年(1548)のことで、まだ19歳の若者でした。永禄(えいろく)4年(1561)関東管領(かんとうかんれい)(室町幕府が関東の政治を管理させるため鎌倉においた職名です)の名跡を継ぐと、関東地域を守るということで関東・信濃(しなの)・越中へと出兵を繰(く)り返すことになりました。

出兵している間でも城の増強(ぞうきょう)は休むことなく続けられ、城の範囲(はんい)を広げたことや城の防御(ぼうぎょ)施設や建物(たてもの)の整備(せいび)を実施(じっし)したことが記録に残されています。整備と守りを固める工事を繰り返したことで、天正(てんしょう)年間(1573~92)の初めころには、攻めにくく守りやすい城として「戦国第一の要害」と呼ばれるようになりました。この時期、山の上の要害(ようがい)部分と、中腹から山の麓の屋敷地を一体化した春日山(かすがやま)城が完成したと思われます。

春日山城本丸跡
春日山城本丸跡
標高180mの春日山の最高所に位置(いち)します。南隣(となり)には、天守台と呼ばれる曲輪が残りますが、天守があったわけではなく、万が一の指揮(しき)所と考えられます

中世の山城は、普段(ふだん)の生活する部分が山の麓(ふもと)にあり、戦闘(せんとう)が始まった時には要害と呼ばれる山上部に籠もるというのが普通のことでした。

春日山城は、中腹(ちゅうふく)から山の麓の部分に屋敷(やしき)地を設け、山上の要害と一体化させた城で、山を削(けず)って造りだした大小の曲輪群が、尾根筋を中心に広範囲に広がっています。大規模(だいきぼ)な山城であるにも関(かか)わらず、堀切(ほりきり)や土塁(どるい)の数は非常に少なく、最高所に位置する実城(みじょう)(城の中心曲輪。本丸のことです)を中心として、山全体に曲輪を配置し、重臣(じゅうしん)等が居住していたのです。

城がどれ程(ほど)大きかったかは、謙信(けんしん)の死後(しご)に起こった後継(こうけい)をめぐる争いである「御館(おたて)の乱」の記録からもわかります。

景勝(かげかつ)が本丸に入ると、景虎は三の丸に籠(こ)もって、城内を舞台(ぶたい)に実に2ヵ月にわたって争っているのです。山の上であったために、自然の谷地形や崖(がけ)などによって曲輪と曲輪の間が独立(どくりつ)していたからでしょうか。それにしても、極(きわ)めて近い距離(きょり)の城の中で戦闘(せんとう)が繰り返されたのは、思いも及ばない、おどろくべき出来事です。

中心となる重要な部分ばかりに目が行きがちですが、実は春日山城は、城の周辺の約5~6㎞の範囲に多くの砦(とりで)群が築かれ、本体を守備していたのです。北に広がる日本海、東を流れる関川が城を守るための重要な役目をもっていました。

春日山の山麓に御館(みたち)、東に東城(とうじょう)砦、西に宇津尾(うつお)砦、背後に滝寺砦と周囲約5㎞内外にいくつもの城や砦を配置し、春日山城本体への侵入(しんにゅう)を防いでいたのです。

さらに、糸魚川(いといがわ)方面から攻められた場合に備え、根知城(ねちじょう)不動山城(ふどうやまじょう)、谷内城を配置していました。また、海から攻められた場合に備えて、西に勝山城、木浦城を、東に旗持城(はたもちじょう)、雁海(がんかい)城を配置するなど、大きな防御網(ぼうぎょもう)を設けていたのです。春日山背後(はいご)の斑尾山(まだらおさん)や妙高山(みょうこうざん)の谷筋を通って信濃から攻められた場合に対しても、これらの城が街道(かいどう)を押さえており、北に対しても入念(にゅうねん)に準備(じゅんび)していたのです。春日山城そのものも大きな城でしたが、こうした多くの砦群をひとつにまとめた城が広い意味での春日山城だったのです。

春日山城
南より見た春日山城
写真中央の山の頂部が、春日山城の中枢(ちゅうすう)部「実城」になります。この城を中心にして尾根続きにいくつもの砦群を設け、春日山城本体を守っていたのです




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加藤理文(かとうまさふみ)先生
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公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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