前田慶次の『どうする家康』徹底解説! 前田慶次の『どうする家康』徹底解説!~【第2回】家康の人生 中編~

現在好評放送中のNHK大河ドラマ『どうする家康』。城びと読者の皆さんが余すところなくストーリーを楽しめるよう、徳川家康と同じ時代を生きた名古屋おもてなし武将隊の前田慶次様が、独断と偏見による会話劇を交えながら慶次様から見た家康の生涯”やドラマで重要になりそうなポイントを徹底紹介! 連載第2回となる本記事では、今川家から独立して三河国を平定した家康の成長期をクローズアップ。ドラマの中盤でも大きな見せ場になるであろう、武田信玄との緊張関係などに迫ります。

皆の衆、我こそは名古屋おもてなし武将隊天下御免ノ傾奇者前田慶次である。いつも我が連載「前田慶次の自腹でお城めぐり」を読んでくれてありがとさん!

此度より特別連載を開戦致すのじゃ! その名も「前田慶次の『どうする家康』徹底解説!」。2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』を百倍楽しんでもらうべく、分かり易くドラマを視聴する上で必要な知識を儂が教えて参る!

前田慶次

 

前田慶次とは

齢四八十歳。名古屋おもてなし武将隊の一角として、名古屋城を拠点に活動中。
YouTubeチャンネル「前田慶次 戦国時代チャンネル」やTikTokで歴史文化を面白おかしく大切に伝えている。
歴史研究家の小和田哲男氏や歴史タレントれきしクン等とコラボしたり歴史講演会や学校で歴史授業を精力的に行ったりしている。
NHK「さらさらサラダ」などTV番組でも、地元の歴史や史跡なども紹介している!
〇城びと(web)連載
〇名古屋城検定名誉顧問
〇日本城郭検定準1級

【徳川家康の生涯】

■壮絶な前半生
天文11年(1542)、三河国岡崎城(愛知県)で誕生。生まれてすぐに両親が離縁。織田家と今川家で人質生活を送る。
桶狭間の戦いを経て今川家から独立し織田信長と「清州同盟」を結ぶ。徳川家康と名乗る!

■信長と駆け抜ける葛藤の時期
元亀元年(1570)、姉川の戦いにて強敵、浅井・朝倉連合軍を倒す!
戦国最強の武田信玄と激突。人生において大きな敗北を経験。
信長と共に長篠・設楽原の戦いで武田軍を倒す!
然し、信長が妻と息子へ処罰を与え、家康自らの命で2人は命を落とすことに。

■戦国のカリスマ秀吉との戦い
天正10年(1582)、本能寺の変で信長が倒れる。織田家を継いだ羽柴秀吉と徳川家康は対決!
小牧・長久手の戦いにて家康は勝利を収めるが秀吉の政治的動きに敗北。秀吉の配下となる!
後の隠居の地である駿府城(静岡県)を完成させる!
天正18年(1590)天下統一戦である小田原征伐にて北条を倒し関東に移封。江戸城(東京都)入城。
異国出兵と秀吉に次ぐ巨大勢力で確実に立場を確立する!

■将軍へ。江戸幕府誕生
慶長3年(1598)、秀吉が倒れ、豊臣政権重鎮前田利家も倒れる。
家康は遂に天下を掴むために行動に移す。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いにて東軍をまとめ西軍を倒し、慶長8年(1603)征夷大将軍に就任。江戸幕府を開く!
将軍職をすぐ息子に譲り大御所となるが、政治には大きく関わり実質権力は家康が握った!

■徳川治世の為に大戦
秀吉の子、豊臣秀頼が成長し世は再び二分される。家康は徳川治世の為に再び大戦を仕掛ける!
慶長19年(1614)、大坂の陣が勃発。豊臣勢を退け、翌年には大名を統治する為に武家界の法律である武家諸法度を定める!
元和2年(1616)、徳川と日ノ本を安泰へ導き太政大臣となり役目を果たしたかの如く家康安らかに眠る。

どうする家康、前田慶次

※本連載は基本的に前田慶次の独断と偏見による会話劇で進む!

1.武田信玄との同盟と裏切り!どうする?

人質の幼少期を過ごし、大大名今川家から独立し織田信長と同盟を締結!
自国である三河国での内乱を経て平定!
二十数年の人生で波乱万丈とは正に家康様の様な人生を言うのであろう。
心も体も成熟した二十代後半、現世ではアラサーと申すのかな?
此れを読む主も自身と比べながら読み進めて欲しい。正に「どうする家康!?」と心動くであろう。

時に弱体化した今川家を狙う男がいた。
男の名は武田信玄!
武田の騎馬隊・赤備えを始め武勇に秀でた家臣を多く従え、
上杉・北条といった大大名に挟まれながら互角に戦う姿に「戦国最強」と周りは声を上げる!

家康様も今川家で育った人間。武田信玄に一目置いていたであろう。

永禄11年(1568)~(家康26歳~)
家康「いやぁー三河一向一揆を始め抵抗する衆を何とか抑え、
徳川家康に改名し三河守に認めてもらえたし、このまま信長殿と世を変えてやろうぞぉーーー!」
その頃の武田は
信玄「今川が上杉と同盟を結ぼうと画策しておるようじゃ。その前に我等が攻め入ろう。
攻めるとなれば、周辺の動きも気になる。できるだけ早く終えたい。
となれば、信長と同盟を結んだ、徳川何某とやらに遠江を同時に攻めてもらうか…。三河へ使者を出せ!」
家臣「殿!! あの武田信玄が今川と同盟を破棄し駿河へ侵攻をする故に遠江を攻めて欲しいと」
家康「何? あの天下の武田信玄様が儂を頼ってきたじゃと? 此れは実質同盟じゃ!
今川家を脱した此の家康、この機を逃さぬ! 我等も遠江へ侵攻じゃー!」

永禄11年12月6日、武田軍が駿河侵攻。今川居城の駿府城を攻撃し、今川氏真は掛川城へ逃げる。
12月13日、家康様も遠江へ侵攻!
こうして伝説の武田徳川同盟が生まれた。然し、その同盟も長く続くことはなかった。

※武田と今川は同盟関係であったが、今川が上杉へ使者を送った事を察知した武田信玄が先に行動し攻めた!
武田信玄は織田信長と同盟を結んでおり、信長を通して家康様に話を持ちかけたと言われる。
因みに同盟は基本的に互いの子供が結婚し縁戚関係となり成立する事が多い。
信玄の子、勝頼が信長の養女と結婚!

どうする家康、浜松城
家康28歳からの居城・浜松城

遠江侵攻中
家康「此度の戦は武田様がおられる故に鬼に金棒じゃ! 今川勢は戦意喪失しておるで、侵攻が捗るわい!
武田様との同盟は密約だでな。今川も驚きを隠せぬようじゃ!
武田様は駿河、我等は遠江を頂くぞ! 領土拡大じゃー! はっはははは!!」
家臣「殿、武田軍重臣、秋山虎繁が信濃から遠江に攻め込んで参りました」
家康「何? 遠江は我等が攻め頂くとはっ!? 密約故にか?
くそぉー武田の奴! おい! 武田に使者を送れ! 話が違うではないか!儂は怒っておるぞと!…
武田信玄、やはり信用ならぬ男じゃ」

今川家は武田と徳川に攻められ大名として滅亡。
元亀元年(1570)10月、家康様は上杉謙信と同盟を結び、武田信玄と訣別!
家康様が手を切ったのは、上記の事件がきっかけだと言われておる。
実際に徳川から武田への抗議の文も見つかっておる!

慶次「同盟関係は各地で同時多発に起きており、尺が決められておるドラマ中でどう描けるか。
圧倒する武田信玄様に怯えながらも、同盟に歓喜する徳川様として描かれそうじゃが、
反故された事で成長する徳川様が見られるのか。上杉様の登場はあるのか。楽しみじゃ」

2.浜松城との出会い・信長との関係悪化?

元亀元年、破竹の勢いで侵攻し領土拡大する織田信長が諸国の大名に上洛するように命令を下す。
同盟相手の家康様も従い上洛。将軍足利義昭の立場を利用し信長は従わない諸将の領土に攻め入る!
数多くの戦あれど、非常に有名な「金ヶ崎の退き口(撤退戦)」では、家康様が織田軍の殿(しんがり)を務めたとも伝わる。
同盟であれど、何か上下関係を感じてしまう出来事である。
また、信長は撤退する折に家康様に何も伝えず撤退したとも。この時に木下藤吉郎(後の羽柴秀吉)が伝えに来てくれたとか。

慶次「金ヶ崎の戦いが描かれるか。信長様を信用してよいのか。
一度お考えになられそうな出来事であり、後に争い傘下に下る秀吉様との関係も大きく変化しそうな場面である」

此れを終え、家康様は居城を遠江の曳馬に移し地名も浜松に改め、曳馬城を改修し「浜松城」とした!
人生の長きを浜松城で過ごすことになる!
後に浜松城は家康様の信頼置ける家臣が城主を務める。

慶次「その流れは江戸時代以降にも引き継がれ、
城主の大半が出世をするという事で出世城とも現世では呼ばれる!
皆行くべきぞ!! ワッハハハハハハ。
浜松城から有名な戦場に多く出陣しておるし、駿河でも岡崎でもない、
未開拓の地で居城を構えるというのは心境の変化も大きなものじゃ。
ドラマでも熱く描かれること当たり前田じゃ!」

さて。織田に反旗を翻した武士は浅井家と朝倉家じゃ。浅井・朝倉連合軍対織田徳川連合軍の戦いが数年続く!

元亀元年6月
信長「浅井長政め。妹の市を娶(めと)ったのにもかかわらず裏切りよって! 小谷城を包囲してやるわ」
越前朝倉が大軍勢で援軍に来る。
信長「ふっ。朝倉の奴等、まだ儂と構えるというのか! よし…いえや」
家康「信長殿! 此の家康5000の兵を率いて援軍に参り申した!
浅井・朝倉の軍なんぞ目でもありませんぞ!!」

合戦前日
信長「家康よ。話がある。明日の大戦二番隊を務めてくれんか?」
家康「何と? 我が三河の兵は強いですぞ! お任せ下され!!」
信長「(頼りにしておるが、織田が先陣を務めねば話にならん)
…既に部隊の編制は終わっておる。二番隊で参れぬか…」
家康「一番隊でなければ、帰ります!!」
信長「それは困る! 分かった。主に任せる!」

合戦当日
徳川軍は多くの敵を倒し、本陣近くまで攻め込み、信長も徳川軍の活躍を大いに喜んだそうじゃ!

慶次「此れが世で有名な『姉川の戦い』じゃ!
記述によっては記されておることが違う故に、此度紹介した徳川様が信長様に食い下がった、
気概の強さを発揮したこの逸話が登場するのではないかと儂は予想するぞ!」

また、此の戦は苛烈を極め多くの者が犠牲となった。
大河ドラマとして見所の合戦場面が描かれることも予想される! 楽しみじゃ!

3.後の運命を変えた三方ヶ原の戦い

元亀元年、家康様は上杉謙信と同盟を結び、家康様が謙信に
「織田と武田の縁組が破綻になるよう信長を説得する!」とまで進言したとか、してないとか。
つまり、対武田信玄を考え構える準備を家康様はしていた!

武田信玄は周辺の上杉謙信だけでなく、北条とも争っていた。
が、転機が訪れた!
武田信玄と構えていた北条家当主である北条氏康がこの世を去った。

元亀2年(1571)、氏康の子・北条氏政は上杉謙信との同盟を破棄し武田信玄と同盟を結ぶ。
これで武田信玄は西へ侵攻しやすくなったのじゃ!
して、遂に甲斐の虎こと武田信玄が侵攻開始する!

慶次「ここで、皆に知って欲しい情報として加え申すと。
既に家康様は今川氏真殿と和睦し今川領である遠江を手中に収めておる!
武田信玄様は板挟み状態で窮地の状況でもあったんじゃ。敵対関係となった徳川様と武田様」

元亀3年(1572)
信玄「遠江を我が手中にしてくれるわ。徳川家康め。勝手に出し抜きおって許さぬぞ!
今川との和睦、上杉との同盟と身に余る行動の数々!
…然し。厄介なのは織田信長である。動かれると困る故に文を飛ばすか!」
家臣「殿、織田には何とお送り致しましょうか?」
信玄「武田と北条の同盟復活にて、我等が西へ攻め込むという噂が流れておるが、それは嘘だ!と送るのじゃ!」

慶次「手強い信長様を避けるべく、真っ赤な嘘を送った!
が、流石は信長様!」

信長「武田め。見え透いた嘘の文を送りよって。
それよりも、儂に断りも無しに大名間での連絡は禁じておるというのに。
将軍足利義昭公、話がある!
儂に黙って勝手に武田信玄と裏で仲良くしておるようじゃな! 儂を敵に回したいのか?
…家康済まんな。儂は畿内の統一に時間がかかる。東は任せたぞ!」

慶次「中央権力は信長様中心に動いているが、
それに反発する動きも多くその筆頭とされたのが武田信玄様でもあった!
恐らく武田信玄様も、信長様は動けない、動けても僅かな兵しか徳川様に送れないであろう、と考えたのであろう。
この機を逃すまいと攻めて参るのじゃ!」

武田信玄は北条と同盟を結び徳川領へ攻め込む!
此れが世で有名な「三方ヶ原の戦い」である。

遠江の城を次々と攻め落とし侵攻した結果、遂に浜松城近くまで参る。
が! 武田信玄は浜松城手前で三河方面へ方向転換!
正に「どうする家康」状態となる合戦!

この時の家康様の選択肢は

武田軍を追いかけ雌雄を決する
→武田軍といえど、地の利を活かして武田軍に追いつき背を急襲してやる! 全面戦争覚悟!

武田軍を追いかけるが、ちょっと戦うだけ
→素通りで信長の元まで侵攻させてしまうのは示しがつかない。後で信長に絶対怒られるから、自軍の被害を最小限に抑えて戦う。

いやいや籠城じゃろ
→三河方面といえど、迂回して浜松城を攻めてくる可能性も高い! 冷静に機を見ようではないか。

織田軍の援軍待って戦おう
→徳川軍単体では、武田軍に勝てぬやも。儂には信長が付いているから、援軍に来てもらって挟撃するのが最善の手!

この答えは是非大河ドラマで確認してもらいたい!
三方ヶ原の戦いにて家康様は惨敗し大切な家臣を多く失うことになる。
この戦から何を学ぶのか此れも見所である!

如何であったか。
ここまで伝えたのはドラマ中盤戦の要の場面! 20代の徳川家康様はどう成長していくのか。

ドラマの見所は「歴史的史実の点と点の穴埋め」と儂は思うておる。
人間が行動に移す時には、必ず感情が伴う。
史実に起きた事実を脚本を始めスタッフ陣営と演者の方々がどう解釈し、人物の気持ちをどう代弁するか。
儂も一視聴者として楽しむし、このように連載や解説動画にてより多くの者に歴史文化を楽しんでもらえるよう尽力致す!

次回は家康様の天下取りへの道を中心にお届け致す!
次回の記事も楽しみにしてちょ!

次回の記事も楽しみにしてちょ!

以上
名古屋おもてなし武将隊
天下御免ノ傾奇者 名古屋城検定名誉顧問 城びと連載人
前田慶次郎利益

凸伝令

執筆・写真/前田慶次(名古屋おもてなし武将隊)

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